おにいちゃん、ちゅうしゃがこわいの?
 いろははこわくないよ。いろはのおにいちゃんが、がんばれっていってくれたから。



夢の窓



 2週間ほど前、学校に行ったところまでは憶えている。風邪をひいていて、奇妙な頭痛がしてたことも憶えてる。
 熱くて寒くて、浅くて短い息で目覚めたら、ガラス張りの部屋でベッドに縛り付けられていた。

 ごめんなさいね、こうしないとすぐに点滴外しちゃうのよ、あなた。

 白いマスクの医師に、白いマスクの看護士。
 このまま放っておいてくれたら死ねるのに。その方が世の中の為だよ。
 機会を見つけては点滴を抜いている。
 看護士もルートを取ることは諦めて、日に何度も新しい針穴を作る。手も足も首筋も痣だらけ。
 一時間前に外した針がベッドに冷たい染みを作っているのが見つかり、口やかましい士長が拘束をきつくする。

「おにいちゃん、ちゅうしゃがこわいの?いろははこわくないよ。えらいでしょ」

 カーテンの向こう側で無邪気な声がする。
 初めて窓以外のものを見た気がする。

 えらいね。僕は身体の中に何かが入ってくるのが嫌なんだ。

 擦れる声を、カーテンの向こう側はちゃんと受け取ってくれた。
 がちゃがちゃ。柵を蹴ってる。
 退屈そうな物音は、雨よりも優しく眠りに誘う。

 隣は4歳の女の子。火事で酷い火傷を負って一昨日までICUにいたらしい。昨日は僕の眠りが深かったので気付かなかった。

「さっきね、おトイレいくとき、おにいちゃんのベッドのぞいちゃったんだ。ねえ、カーテンあけてもいい?」

 指先を探ってナースコールを押す。カーテンを開けてと頼むと、マスクの奥の目が驚いていた。

「わあ、やっぱりかっこいいな。いろはのおにいちゃんよりもかっこいいな」
「いろはちゃん、のお兄ちゃんは何歳?」
「7さい。いちねんせいだよ。おにいちゃんはなんさい?」
「9歳、三年生。お兄ちゃんも入院してるの?」
「たぶん。だって、いろはがいたくてないてるときに、すぐちかくでがんばれっていってくれたもん」
「じゃあ、もう元気になったのかな」
「おにいちゃん、おなまえは?」
「美鶴」

 僕の妹も、生きていればこんな風だったろうか。
 くるくる、楽しいおしゃべり。

 隣のベッドには一日おきに、父親と母親が見舞いに来る。
 二人とも、火事のときの怪我が癒えないまま、包帯をあちこちに巻きつけて。火事は放火だったらしい。若い看護士が噂していた。
 子供病棟は小さな子供の見舞いが禁止で、彼女の兄に会うことはできないという。

「おにいちゃんにあいたい」

 べそべそ泣いてる。
 元気になったら会えるだろ?

「そしたら、みつるおにいちゃんにあえなくなるでしょ?」

 会えなくなっていいんだよ。
 その方が、しあわせだから。

 看護士は4歳の女の子を僕の見張りに立てることにしたらしい。
 点滴を抜こうとすると舌足らずに「だめでしょ」と怒られ、薬を捨てようとしても「だめでしょ」と怒られる。
 食事の時だけ拘束を外されると、彼女の面倒をみることになる。箸を上手く使えないからおかずを切り分けてやったり、こぼした汁物を拭いてやったり。
 見舞いに貰った子供雑誌を読んでやったり、付録を作ってやったり。

 今だけ、妹。
 今だけ。

 生きることを拒絶してみても、僅かなきっかけで身体は回復するらしい。人体の不思議。
 随分顔色が良くなったね。そろそろ退院かな。マスクの医師が嬉しそうに言う。
 ため息を飲み込むと、医師が不思議そうに覗き込む。
 代わるように、見たことの無い女の人が僕の前に立った。

「あなたが、美鶴くん?はじめまして」

 僕の叔母だという。
 父方の血縁になるその人は、叔母と呼ぶには随分若いようだった。

「退院したら、私の兄の所へ行ってもらうことになりそうなの。アメリカのシアトル、ちょっと遠いけど。兄は開発をやっててあまりあなたに構えないから、身の回りのことを自分でするのが条件よ」
「はい。わかりました」

 即答した僕に、何か言いかけて、やめた。
 その瞬間にわかってしまう。
 ああ、この人も僕を拒絶するのだと。

 お金のことは気にしなくていい。美鶴くんの荷物は私のところに届いてるから、早速兄のところへ送ってもいいかしら。
 事務的に、話すだけ話して、叔母さんは帰っていった。
 急に、何もかもがすり抜けてからっぽになって、ぼんやりと窓の外の雲り空を見ていた。

 う、うっ、う、…、
 僕を見て泣いてる。唇をゆがめて、身体を小さくして。

「ごめんね。僕が恐かった?」
「ちがうの、どう、して、おに、ちゃんが、」

 それ以上の言葉は出てこない。泣き声は次第に大きくなっていく。
 困って、手を差し伸べてみると、泣きながら僕の手の中に飛び込んできた。

 僕の中で泣いてる。
 僕の代わりに泣いてる。

 しばらく泣いて、泣き疲れて眠った。
 惜しいように思いながら彼女をベッドに戻すと、母親が見舞いに来た。
 タイミング悪く眠ってしまった娘の湿った髪を、やさしく指で櫛付けてる。

「いろはちゃんのお兄さんは元気ですか?」

 母親はさっと顔色を失くした。

「おにいちゃんは死んじゃったの。いろはを守って死んじゃったの。火事の中で、いろはにがんばれって言って、死んじゃったの。
 あなたをみてると、おにいちゃんが大きくなったみたいで、少し辛かったわ。
 でも、ありがとう」

 僕は心の底から、彼女の兄に嫉妬した。
 僕にはできなかったことだった。
 妹を守れなかった後悔が、僕の全部を押しつぶしてゆく。

 黙り込んだ僕を、彼女の母は好意的に解釈したようだった。

「もうすぐ退院ですって?おめでとう」
「いろはちゃんが目覚めたら、言います」

 いろはちゃんのお兄ちゃんはすごいね。
 僕よりもずっとずっと、強くて優しいお兄ちゃんだね。

 きっと、嫉妬は見抜かれてしまうだろうけれど。



おわる




妹萌え。(笑)
いろはちゃんは、お買い物途中に男の子に呼ばれてた女の子。知らない子。
けど、衝撃的に萌えたのです。顔は見なかったよ。変態で通報されるから。

2006.07.09


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