闘いが終わった。聖なる闘いが。

争いのない平和な世界を望んだから、聖闘士など必要のない時代がくればいいと思った。

それは、聖衣をまとわなくても良い時代であって、存在の消滅ではないのに。

聖戦は、黄金の戦士たちの熱き血潮が、未来永劫流れることのないよう。

冥界の奥深く、すべてを蒸発させて終わったのだ。












参宿ーORIONー/第1章
        あなたと俺の星は、誰もが知っている、あの、オリオンのようではないけれど......












................なにも見えない、なにも感じない。

     ................俺は、誰? まだ、生きているの?

          ................ねえ、あのひとは、どこに...いる......の.........?





思考のまとまりを忘れた混沌とした意識が、闇より深い闇から、前触れなく覚醒したとき。

最初に気づいたことは、遠く離れていてもすぐ側に感じられる、小宇宙がないことだった。
それが何を意味するのか、聖闘士ならば分からないはずはなく。だから---

生命維持装置のわずらわしいコードを引き抜いて、包帯で巻かれていない肌を探す方が困難な、重い身体を引きずって。
極限を超えた痛みに悲鳴をあげる五体が、果てそうになるのを堪えながら。
ひとり世界に取り残された孤独に耐えかね、ひしゃげた心臓が血を流しても。

導かれるように、取り憑かれたように訪れた、ここは。ジャミール。魔の山。
妖しい夕闇に、十重二十重に染まる山々を背に。滅び行くシルエットが-----冷たく、胸を、貫いた。



ムウの館-----と、呼ばれていた、その塔は。



かつて、美しい主の不思議な力によって、天に向かい毅然と佇んでいた姿は、見る影もなく。
いまは、廃墟と呼ぶにふさわしい危うさで揺らぎ、いつ倒壊してもおかしくない、そう思える儚さで、そこにあった。



誰か、この胸の矢を抜いてくれ。



貫かれた心臓からダラリと流れ出す鮮血が、あたり一面に散らばったなら-----すぐに、逝けるのに。
気力も体力も底をつき、一歩も動けなくなってしまった両足が、膝からくずおれる。
手をついて衝撃を緩和することもできない身体は、大地に根を張った。
瞳に、しずくが生まれる。


涙が、止まらない。


冷えた身体は死の手前にあるのに、青ざめた顔を伝いながら地中に吸い込まれる涙は、温かくて。




自分がまだ、生きているのだと教えられる。

あのひとがいない自分がまだ、生きているのだと知らされる。

もう痛みさえも感じないのに、呼吸の仕方を忘れてしまったというのに、まだ、生きている。




こんな呪わしい存在に、神が等しく"明日"をもたらすならば。これほど残酷な仕打ちに、どうやって耐えなければならないのだろうか。




ここで出会ったことも、ここで血を流したことも、ここで知り得たことも、ここで愛し合ったことも、

あのひとの声、あのひとの瞳、あのひとの髪、あのひとの優しさ、あのひとの大きさ、あのひとのすべてを、

思い出という箱に閉じこめて、抱えていけというのだろうか?




出来ない、できっこない。




お互いがお互いを必要とするようになって、新しく生まれ変わった自分が好きだった。

尊敬する師がいて、愛すべき兄弟がいて、信頼できる仲間がいて、女神を守る。

そんな己に"生"を与えたのは、他でもないあのひとだったから、自分が好きになれた。




交わるときに感じる痛みや悦びも、ひとたび眠りにつくと、嘘のように遠いのに。

どこまでが自分なのか分からないほどに、キツク、フカク、アツク、繋がっても。

違う生命が脈打ち、異なる肉体を持つふたりだから、変わらざるを得ない、体温。




汗ばんだ肌が、名残を惜しみながら冷めていくたびに、ふたりは別々の人間であると。気づかされるのが寂しかったから。




あなたを確かめたくて、俺を知ってほしくて。

何度も何度も求めては、注がれる熱さに夢中になった。

何度も何度も果てては、甘く気怠い刻印に酔いしれた。

"あなたを愛する自分が好き"なんだと、あなたはちゃんと、知っていた?



それなのに。



失う、あなたを失う。

遠くなる、あなたが遠い。

例え、逢えなくなっても、瞳を閉じれば永遠に映ると信じていた姿が、遠すぎる。



今日は、あなたの中指にあった指輪の模様が思い出せなかった。
  明日は、あなたが緩く結っていた髪止めの色が思い出せないかもしれない。
    じゃあ、明後日は?
      明々後日は、どうなるの?
        あなたの、なにを忘れてしまうのだろう......?



耳元で囁かれる甘美な言葉や、身体がとろけそうな愛撫や、ときに激しすぎる苛烈な挿入や。

それでも驚くほどの優しい小宇宙に包まれることや、まどろみの中、慈愛に満ちた眼差しで見つめられることや。

愛し合って、得られたすべてを、思い出せなくなっていくのか?

汗ばんだ肌が、熱を失い乾いていくように、あなたとの記憶は失われていくのだろうか?



イヤだ、そんなことには耐えられない!



寒さに震える血の通わない指で、首もとを乱暴に掴み、嗚咽を堪えようと掻きむしる。
弾みでちぎれた中国服の釦がひとつ、地面をのたうち回るように転げたあと、強風に煽られ飛ばされた。
夜のとばりに包まれたジャミールの山々に、反響だけを残して、あっけないほど簡単に落ちていく。


カラン...カラン...カラン...


空虚な響き。予期せぬ死のリズム。
自分の運命に驚きを感じながらも、ただ重力に引かれて落下していく釦を-----羨ましい、とさえ思う自分は。
生と死と、どちらに支配されたいのか。
考える間もなく、答えは分かっているのに。



星よ、叶えて欲しい、俺の望みを...!



やっとの思いで身体を反転させて、まるで祈るように、夜空へ手を伸ばした。
冴え渡る夜空にきらめく無数の星々は、掴めそうなほど近い。むごいほど、綺麗だ。
長く手を挙げ続けることも辛く、くちびるの上に置いた左手の甲に、歯を立てた。



そのとき。



どこからともなく飛来した白い雪が、手の平に吸い込まれるのを、見た。
ふんわりと。
雪ではなかった。溶けずに、吸い付く、この感覚、この香り、懐かしい。
やんわりと。
ひらいた指から飛び立つ、はなびら、ひとひら。あのひとの愛したカタチ。


『ああ、動かないで...ふふっ、紫龍。あなたにはこの花が良く似合うね...』


花が、舞う。
白い、花が。
あでやかで、あざやかな香を散らしながら。
大地に広がる黒髪の上を、花から花へ飛ぶ蝶のように、軽やかに。

あなたの祝福を受けた、あの日と同じリズムで。

懐かしさに瞳を閉じたとき、手を振り招く、あのひとの姿が見えたような気がした。
夢のように美しくて。もう一度、出会えて嬉しくて。


ほころんだ口元から、音にならない名前を呼んだとき.............闇は静かに訪れた。





「.........紫龍.........?」





力尽きる寸前、風の中から聞こえたのは、誰の声だったんだろう.........?










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