2003.winter

ネコのいる生活

 私にはかわいいかわいい家族がいます。残念ながらニンゲンの子供ではなくネコですけどぉ。
 名は寅次郎といいます。命名したのはダーリンです。うちの寅次郎はトラ模様であることと、ダーリンが「男はつらいよ」の大ファンということもあり、こういう名前になりました。
 でも正式名で呼ぶことはほとんどないです。とらじろう、って長くて呼びにくいのです。なので普段は「ポンちゃん」と呼んでます。寅次郎はマンション暮らしなので外には出せず、完璧な家猫。もともと大柄なのですが、家猫である宿命「運動不足」のせいでおなかが出ていて「おなかポンポン」なのでポンちゃんです。
 年に一度の三種混合ワクチンの接種、健康診断は欠かしません。キャットフードもアメリカ製の「肥満猫用」のものを食べさせ、私の休日の日には大好物のかつおぶしをあげています。
 ネコには魚、といいますが、寅次郎は魚は食べません。刺身に興味を示しますが手でもてあそぶだけで食べようとしないのです。どうしてでしょうか?謎です。

 人見知りが激しく、よその人には全然なつきません。無理になでたりすると「シャーッ!」とまるで蛇のように音を出して威嚇します。一度うちの母に威嚇し、逃げ回るので捕まえようとするとひっかかれました。手の甲はみみずばれになりました。腹がたつので取り押さえようとしましたが、さらにひっかくのでこちらも腹が立ってお尻を叩くと毛を逆立ててはむかってきました。
 反省するということを全くしないネコです。実家で飼っていたネコはこちらが怒ると部屋のすみでしょんぼりしていたものでしたが、寅次郎に限ってはそんなことはあり得ません。
 寅次郎の頭の中では、この家で一番えらいのは私、次に自分、下等はダーリンです。そのことを容赦なく態度で表します。ダーリンが呼んでも見向きもしないし、よほど寒いときしかひざの上に乗ったりしません。私が遅くまで寝ないときはやむを得ずダーリンと寝ていますが、私がふとんに入るとダーリンは御用済み、すぐに私のところに来ます。その逆のパターンはあり得ません。考えすぎかもしれませんが、寅次郎はダーリンの部屋に集中的に「ゲロ」をするような気がします。一度はダーリンの靴の中にまでゲロのお見舞いをしたこともあります。何か恨みでもあるのでしょうか。

 夫婦共働きなので、寅次郎は昼間はずっとひとりぼっちです。やはり寂しいのでしょう。どちらかが帰ってくると玄関まで出てきて廊下で仰向けになり、お腹を見せて「かまって、かまって」をします。が、次に帰ってきた者に対しては出迎えはありません。
 でも最近は寒いので我々が帰っても押入れの中のふとんの中にもぐりこんだまま、出迎えはなしです。呼んでも出てきやしません。エサをやるか、こたつをつけるかするとやっと出てきます。
  
 全く薄情なネコです。そのくせ人がパソコンしたり新聞を読んだりしているとひざの上に乗りたがり、キーの上を歩いたり新聞の上に寝ころんだりするのです。出かける直前に限ってひざの上に乗りたがるのも不思議です。出かける気配がわかっているのでしょう。意外とかしこいです。
 私の休日もしっかり把握しているようです。昼まで寝ていると耳元でにゃーにゃーなきます。仕方なく起きてエサをやりますが、口をつけません。そしてかつおぶしがしまってある引き出しに向かってさらになき続けるのです。かなりかしこいです。

 帰ってひとっぷろ浴びたりトイレに入っているとしていると、急に大きな声でなくこともあります。「ポンちゃーん、おふろにいるよー」と言うとなきやんで、風呂場に来てじいっと待っていたりします。
 さみしがったり薄情だったり短気だったり、態度は日替わり、憎たらしいことこのうえありませんが、そういう「わけのわからないところ」が私にとって最大の魅力なのです。

 寅次郎は捨て猫でした。生まれたばかりの、まだ目が開ききらないうちに捨てられていたのです。
 乳離れしないうちに捨てられたネコというのは大人になっても「お乳を飲むしぐさ」をしてあまえるものです。
 私がふとんに入ると毛布に顔をうずめて手で「もみもみ」しながら毛布をちゅうちゅう吸います。そんな時はごろごろと喉をならし、とても幸せそうな顔をします。
 私にはニンゲンの子供はいませんが、プチ授乳体験って感じです。
 うちの母が「ニンゲンの子供っていいでえ。赤ちゃんってホンマにネコと一緒やでえ」とよく言いますが、それは違います!
 寅次郎は・・・我々より早く死んでしまうでしょう。ニンゲンの子供は親より長生きするのでその点はとてもうらやましく、「ニンゲンの子供は親より先に死なんのが魅力やなあ」としばしばダンナにぼやいては、寅次郎がやがてこの家からいなくなる日のことを想像して涙してしまいます。
 ダンナが無職の頃も、私が夜勤ばっかりしていた時も、ダンナが試験で苦しんでいた時も、就職が決まって大喜びした時も、私たち夫婦はずうっと寅次郎と一緒だったのです。
「この子かぁ、この家に福をもたらした『まねきネコ』はぁ」
 と、ダンナの親友がしげしげと寅次郎を眺めていたことがありました。そう、寅次郎はまねきネコに間違いありません。
 うちの親も寅次郎を愛しています。ひっかかれようと威嚇されようと、抱っこしようとしたり写真を撮ったり、先日はとうとうビデオカメラを持参し、「正月はトラちゃんのビデオを見よう」と喜んで帰っていきました。
 そんな両親をちょっとあわれに思う今日この頃です。

 今日も寅次郎は元気です。いつまでも元気でいてほしいです。。。
   

クリスマスなんか


 この時期になると街が賑やかで楽しい。あちこちに巨大クリスマスツリーが出現し、クリスマスソングが街中に流れる。一年のうちでもかなり好きな時期だけど、私にはクリスマスの楽しい思い出などない。どうしてだ?
 うちの親が悪い。私は幼稚園に入る前からサンタクロースの実態を知っていた。
私:「うちにはクリスマスプレゼントが来ないなあ」
母:「こないだお誕生日のプレゼントあげたやろ。ワガママ言うたらあかんの!」
私:「?」
母:「クリスマスは外国のお祭りやの。外国ではお正月の代わりにクリスマスをやるの。日本にはお正月があるからクリスマスは関係ないの」
私:「でもサンタが来るって言うやんか」
母:「そんなんウソや。子供が寝てる間に親がこっそりプレゼントを置いてるだけや。あっこ、ウソはあかん。ウソつきは泥棒の始まりやで」
 サンタクロースは赤い服を着てソリに乗って遠い国から来るのではなく、自分の親が化けているだけなのだ。
 大してショックでもなかった。サンタはひとりしかいないのにどうやって一晩で全世界の子供らの所に行くのだ?と子供心に不審感を持っていた私は「なるほどなあ」と感動にも似た感覚を持った記憶がある。
 幼稚園のクリスマス会。私は風邪で休んだ。友達が「サンタさんのプレゼントだ」と言ってカルタとケーキを家に持ってきてくれた。その時見せてもらったのか卒園アルバムの写真で見たのか覚えていないが、幼稚園の教室でサンタがプレゼントを配っている写真を見た。「誰が化けてんねやろ」と思った。多分用務員のおっちゃんか誰かだろうと。
 私はかわいくない子供だった・・・。しかしこれはウチの親の教育方針だったのだから仕方がない。「ウソはいけない。子供には真実を!」
 ちゃうちゃう!経済的理由でそう言わざるを得なかったのだと思われる。

 ダンナに聞いてみた。サンタクロースって信じてた?
「信じとったわ、おもいっきり!!!」
 ダンナは小学校の半ば頃まで本気で信じていたらしい。
「ウソやろぉ!気づかんふりしてプレゼントせしめたろ、って思ってたくせに」
 否。ダンナは本気で信じていたらしい。そんなもんなのかぁ。

 というわけで、私の子供時代はツリーは飾っていたものの、クリスマスパーティやケーキなどとは無縁だった。あまりにさみしいのでゴネたら、アイスケーキを買ってくれるようになった。でもまぁそれでじゅうぶん満足だった。しかしグレることもなくまともな職にも就き、結婚もできたからよしとしよう。

 しかし私の「クリスマス願望」は消えてはいなかった。大学生の頃、彼氏に「安いモンでいいから一度でいいからクリスマスプレゼントというものをもらってみたい」とぼやいてみた。彼はカラシ色のパジャマをくれた。それが初の「クリスマスプレゼント」だった。20歳にしてやっと手に入れたクリスマスプレゼント・・・とっくの昔に捨てたけど。
 今は・・・やっぱり私にはクリスマスなどない!ひと月に二度もプレゼントをねだるのはどうも気が咎める・・・←12月生まれなアタシ。
 しかも12月24日といえば年末の大繁忙期。毎年毎年シゴトが忙しくそれどころではない。
 人間、できないものだとわかっているとますますやりたくなってしまうもの。私の「クリスマス願望」は「クリスマス執着」にパワーアップした。どうしても祝いたい。だから結婚記念日を12月25日にしたのだな、実は。これならいやがおうにも祝わざるを得んだろう。
 しかし失敗だった。夫婦でどこかに泊まりに行ったり食事をしようとしてもどこも予約でいっぱい。だいいち仕事を休めない。私は己の判断のせいでクリスマスと結婚記念日を同時に祝うどころか同時につぶしてしまったのだった。
 ちきしょう、読みが甘かった!!!
 でも今年は土曜日だからよかった♪おかげさまで幸せなクリスマス&結婚記念日が送れそうです。和歌山の民宿に泊まって「幻の旨魚・クエ」のフルコースを堪能するのさ!←ホントはさ、夜景のきれいな神戸の高級ホテルに泊まろうと思ったんだけどさ・・・やっぱり予約とれまへんでした(号泣)。


関西空港旅客ターミナルのツリーです

大  阪 

 私は大阪生まれの大阪育ちだ。幼稚園から大学もすべて大阪府内、大学を出てからも大阪で働いているから、まさに一度も大阪から出たことがない。
 別にこの土地に執着があるわけではない。現に私は大学は京都の大学を第一志望にしていたし、将来家を持つなら神戸近辺がいいなぁと憧れているくらいだ。
 大阪人に対する一般的イメージとはいったいどんなものなのだろう。
 大阪といえば阪神タイガース?
 タイガースファンの人には申し訳ないけれど、あのランチキ騒ぎが「大阪人の姿」と全国の人々に面白おかしく語られるのはどうも納得いかない。だいたい、タイガースの本拠地は甲子園。甲子園は兵庫県だ。大阪ではない。それに本当のタイガースファンは道頓堀川に飛び込んだりはせず、家に帰ってテレビを見ながら試合の余韻に浸っていたのではないかと思うし、私の周りの阪神ファンは皆、そうしていたようだった。
 私は、道頓堀川に飛び込む人々をテレビで見ながら「他府県民の皆さんが大阪人のフリをして日頃のストレスを発散させているのだなぁ」と思ったりした。そう思うとなんだかうれしくもあった。

 ところで、よく「東京VS大阪」といった比較がされ、出版物もたくさん出ている。そこでは「大阪人は東京人をやたら敵視し、東京人はそんな大阪人を徹底的に見下してバカにしている」という図が浮かんでいる。
 実際のところどうなのかは知らないけれど、ハナシ的には「大阪が叩かれてののしられる方が面白おかしくキマル」のでそういった描かれ方をするのかもしれない。
 東京を敵対視している大阪人ってどれくらいの割合で存在するのだろうか。
 私は「東京の人」「関東の人」に対してなんらの敵対心も持っていないし、比較して楽しむような趣味もない。東京は日本の首都だ。大阪がいくら頑張ったってかなう相手ではない。東京に行くときは「都会に出る!」とわくわくするし、見るもの全てが大きく見えて「やっぱ東京は違うよなー」と感嘆する。
 が、どうしても「ここに住みたい」「働いてみたい」とは思えない。その理由は東京は怖いところだと思うから。何が怖いといえばやはり「言葉」が怖い。関東弁で話しかけられるとどうしても「叱られているような」「嫌われているような」感がつのる。
 最近、「東京大阪比較」なる本を買ってみた。今まで大阪から出たことのない私は関東人の方々と接する機会はほとんどなかったのでそのテの話には全く興味もなかったけれど、近藤さんのおっかけをするようになってからは関東の方々と接する機会が増えた。
 知らず知らずのうちに関東の方々に失礼な振る舞いをしているのではないか。そんな不安が私にこのテの本を買わせたのだった。外国へ行くときはその国の文化習慣を知り、理解してから行くべきだ。それと同じように関東人の習慣を知っておく必要が生じているのである。
 本にはいろいろと面白いことが書いてあった。たとえば・・・
 *街なかで有名人にばったり会った時の反応の仕方*
 関東人・・・有名人のプライベートな時間をじゃましてはいけないと遠くから黙って見守る。じろじろ見たりは決してしない。
 関西人・・・素早く駆け寄り「いつも見てるでぇ」と肩をたたく。べらべらしゃべりまくる。
 そうなのかぁ・・・これを読んで私は自分が関西人であることを改めて認識した。私は街なかでばったり有名人に出くわしたことはないが、出くわしたうえで向こうがそれほど忙しそうでもなかったら絶対話しかけると思う。「いつも見てますよ」「ステキですね」「あの時の話、共感しました」と感動したことを本人に伝えることが「礼儀」だと思うし、私自身も知らない人からそういうふうに声をかけていただいたら嬉しいと思うから。このHPを持って以来、知らない人から声をかけられたりメールをいただいたりする機会ができました。びっくりしますがやっぱりうれしい!
 いろんな出会いがあるのでHP持ってよかったと思います。嬉しいことばかりではないですけれど。。。「痛い」「怖い」「バカじゃないの」とおちょくられることもありますので。時々面倒になって「音楽のページは閉鎖や!」と思ったりすることも正直あるのですが、励ましてくれる人の方が多いので続けていこうと思います。
 おっと、なんか話がそれました。ここでもうひとつ面白いと思った話。
*すぐに忘れる関西人*
 ある政治家が関西を侮辱するような発言をしたのでそれをマスコミが大々的に取り上げて批判しようとしたが・・・関西の著名人何人かにインタビューをしたところ、皆「気にしてない」と口を揃え、マスコミが意図した「関東人にバカにされ、怒り心頭な関西人の図」は肝心の関西人が興味なさげな態度を取るので、立ち消えになってしまったという話。悪く言われても気にしない、すぐに忘れてしまうのが関西人の特徴だとその本では結論づけられていた。
 これもどうかな、と思ったけれど・・・。私が思うにインタビューを受けた関西の著名人たちは気にしていないどころか大いに気にしていたのではないかと思う。でもそれはイジけていたのではなく、「関東のヤツら、次はどんなことを言いよるんかな」と、関西人バッシングを面白がっていたんじゃないかと。そういう図太さが嫌われる原因になっているのでしょうが。
 何が一番で何が何より優れているのか、といったことはあまり気にしないのかもなあ。タイガースファンが「タイガースは万年最下位だからこそ存在価値がある」と堂々と(しかもどこか誇らしげに)言っている状況からして、たとえしいたげられようとも「唯一無二」であることに喜びを感じる精神は関東よりも数段上だと思う。まさにこれが嫌われる原因なんでしょうがねえ・・・。

 話がそれました。ええっと・・・テーマは「大阪」でしたよね。それでは大阪の魅力について書きましょう。
 ・・・・・・ええっと・・・・・・大阪の魅力ってなんだろ?大阪といえば「お好み焼」「たこ焼き」でしょうか?他府県から大阪に遊びに来る方々がたいてい「お好み焼とたこ焼きのおいしいとこつれてって」と言うのですが、、、お好み焼は「家で自分で作って食べるもの」だし、たこ焼きはそこらへんの屋台で買い食いするのが常なので、あらたまって「おいしい店につれてって」と言われると非常に困惑するのであります。
 つい先日も広島から友達がやってきて「大阪といえばお好み焼・たこ焼き・串カツだ」と言うのでガイドブックとネットで調べ上げました。彼は「どうして大阪っていうと串カツなんですかね?」と私に聞いてきましたが・・・私、全然知りませんでした。『大阪といえば串カツ?』初耳でした。
 というわけでどこへ行けば大阪名物串カツが食べられるのかをネットで調べましたら「新世界」にうようよお店があることが判明。新世界とは通天閣界隈のことを指します。
 新世界かぁ・・・あんなとこ、大阪人は行かへんでー。ずっと前も東京の友達が「通天閣に行きたい!」と言い、皆でひそかに「え・・・」と戸惑ったことがあります。あのあたりは「道ばたに注射器がごろごろ落ちている」と言われ、決して寄りついてはいけないと親や教師から固く言われていた場所であります。
 が、串カツ食べに行きました。行ってびっくり。以前は暗くて汚くてひっそりしていたのに今では一大観光地になっており、若い女の子もたくさんいました。道はきれいに整備され明るく賑やかで、女だけで行っても全然大丈夫な感じでした。
 串カツも結構イケました。ただこれを「大阪名物」と語ってもいいものかどうかは微妙です。何の変哲もない普通の串カツですんで。でも広島の友達は喜んでくれたようです。彼とはお好み焼とたこ焼きも食べました。まさに「食いだおれ」です。3軒ハシゴしたんですから!楽しかったです。
 大阪もなかなかイイトコですよー、皆さん。とりたてて珍しいモノやおいしいモノはないけれど、独特な喧騒・あけっぴろげな分、表裏がない陽気な人々・「なに言うとんねん、アホ!!」と笑いとばし、強くたくましく生きてる人たちがたくさんいます。もちろん大阪以外の土地でも強く明るく生きてる人が全国にはたくさんいらっしゃるでしょうが、大阪に来るとそれを肌で感じることが多いんじゃないかという気がします。そんなトコロです。
 何かつらいことがあったら能登半島や東尋坊へ行くより大阪へ出かけてみましょう。何かしら得るものがあるかもしれません。それが大阪の魅力かなあ。


撮影:ほし君(今夏、山で出会った友達)
ほし君、ありがと!楽しかったです。今度は広島焼きをおごってください。


ふたつの命


 数年前の11月のある日。会社で仕事をしていたら私宛に電話が入った。
「もしもし。ジイさんが危篤でな。明日まで持つかどうかわからんて」
 ダンナからの電話だった。
 めちゃくちゃ驚いた。だっておじいさんはつい先日までピンピンしていたのだから。
「階段から落ちて頭打ったんやて。打ちどころが悪かったらしい」

 ダンナのおじいさんは72歳だった。じっとしていることのできない人で、盆も正月も家族が反対するにもかかわらず仕事に出て、その他の時間は田んぼに出て米や野菜を作っている人だった。
「おーいっ、ケン!何をボサッとしとる!あれをこうしてそれをあれせい!!」
 ダンナは幼少の頃からおじいさんの商売(祭りの屋台・タイヤキ屋)の手伝いにかり出され。真夏には田んぼでスズメのおどし(目玉の模様をしている風船みたいなもの)を取り付けたり、実りの秋には稲刈り。
「ジイさんの言葉にはな、主語がないんや。あれをこうしてそれをあれせいなんて言われてもわからんちゅーねん!」
 結婚したばかりの頃、ダンナとふたりで帰ると、
「おお。いつもケンがお世話になっとります」とおじいさんは私に言った。
「お世話になっとります、って何やねん」ダンナは怒っていたけれど。

 おじいさんは学歴はあまりなかったけれど勉強が好きな人だった。子や孫たちのいらなくなった教科書を大切に保管し、それで一生懸命勉強していた。
「わしは貧乏で学校に行けなかったから子供や孫にはいっぱい勉強してほしい。そのための出費は惜しまない」と言っていたそうだ。
 決して高学歴ではなかったらしいが、おじいさんはどこかで祭りがあると聞けば車を飛ばしてそこへ出向き、一生懸命タイヤキを焼いた。そして山から水を引き、田んぼや畑を潤して米や野菜をたくさん作り、女房・娘たち・孫を養った。だから私は結婚してから一度も米を買ったことがない。
 そしてそれを苦労とも思っていなかった。おばあさんが「みんなが喜んで食べてくれるから作っとるんや、ほんまそれだけや。だから喜んでくれればそれでええんさ」とよく言っていた。
 おじいさんはまさに『実力で家族を養って守ってきた人』と言える。子供の頃は貧乏で進学は断念したけれど、子供たちの教科書や本で勉強し、特に歴史などには詳しかった。
 子や孫にも厳しかったらしい。子供は女の子ばかり3人だったが、女だからといって容赦はしない。勉強はもちろんのこと、ダンナの母が学校でケンカに負けて泣きながら帰宅するとおじいさんは、
「負けたんか!ケンカに負けるようなヤツは家には入れん!やりかえして来い!」と玄関で母を追い払ったそうだ。

 人の人生なんて何が起こるかわからない。
 おじいさんからの最後の電話。セリフは、
「おい、お前らんとこはちっとも『米を送れ』って言ってこないな。ちゃんと食べとるんか!コンビニの弁当なんか毒も同然やぞ!」
 共働きで忙しい私たちは家で米を炊くことをめったにしなくなっていた。
 その数日後のことだった。危篤の知らせが入ったのは。

 おじいさんは階段から落ちてから10日ばかり植物状態で病院のベッドに横たわっていた。
 一度だけダンナとお見舞いに行った。白衣を着てマスクをして帽子をかぶって病室に入った。
 おじいさんの手に触れてみた。暖かかったけど手荒れがひどくてガサガサだった。ああ、この手でみんなを養ってきたんだなあと思った。働いて働いて日照りの日も雨の日も雪の日も、この手で。

 数日後、おじいさんはとうとうあの世に行ってしまった。
「ジイさんは殺しても死なんぞ、と思っていたけどなあ」ダンナがつぶやく。
 親戚総出で写真の整理をし、アルバムを作り、それを見ながらおじいさんの想い出を語り合った。おばあさんや子や孫や婿に囲まれながらいろんなところに旅行に出かけたおじいさんの写真はどれもこれも笑顔だった。
 不幸な事故で逝ってしまったけれど、しあわせな人生だったと思う。

 火葬の前にみんなで手紙を書いた。私は遠慮したけれど、ダンナの妹に「あっこさんも書いてあげて」と言われて書くことに。
「おじいさんの生き方はかっこいいです。憧れです」みたいなことを一言書いたと思う。
 自分の足で歩いて商売をし、自分の手で畑を耕し、一家を養ったおじいさん。何の見返りも期待しない。ただみんなが喜ぶ顔が見たかった、それだけを楽しみに働いてきたおじいさんの生き方は私にはとても真似できないと思った。
 火葬場で最後の別れ。棺桶の蓋が閉められる直前に、私は自分の両親を連れて駆け寄った。
「今までたくさん助けていただいて感謝しています。ありがとうございました」
と言った。
 結婚してから4年間、ダンナは無職だったけど、何不自由ない生活を送れたのはいろんな人の助けがあったから。おじいさんやおばあさんやお母さんが米を作り、我が家へ送ってくださったからだ。
 ダンナの就職が決まったとき、おじいさんはダンナの職場のビルまでやってきてビルを見上げながら、「あぁ、ケンはこんな立派なとこに就職が決まったんやなぁ」としみじみ語っていたそうだ。
 そんなおじいさんとおばあさんに孝行しようと、私たちは神戸ディナークルーズに招待する計画をしていて、フランス料理と中華料理とどちらがいいかとお伺いをたて、おじいさんの意向で中華料理にするとまで決めていたが、実現には至らなかった。それが今でも心残りだ。


 この1年後。偶然にも同じ日にもうひとつの命があの世へ旅立った。
 大学時代のゼミの後輩H君。。その知らせを受けたのは年が明けてから、先生からの年賀状でだった。
 ゼミ生・先生をはじめ、彼と親しかったサークルの仲間、そして彼のご両親とともに『偲ぶ会』が行われた。
 彼は弁護士になるのが夢だった。一旦、民間企業に就職したものの夢をあきらめきれず、再び夢に向かって駆け出した矢先の死だったそうだ。
 お母さんが両手に小さな箱を抱えていた。生前の頃は体格のよかったH君がこんなに小さな箱に収まっているのがなんとも不思議な感じがした。
 お父さんは遺品をいくつか持参して私たちに見せてくださった。
 一枚の紙。
 H君の几帳面な小さな字でびっしり埋め尽くされていた。
 内容は「人生設計書」みたいなものだった。O年O月に退職、O年までに司法試験に合格、O年に修習を終えて弁護士に。O年までに親からの借金を返済・・・。H君は自分に厳しい人だった。親からの借金なんて踏み倒せばよかったのに。
 彼は目標に向かって退職を決め、それまで住んでいた会社の寮も引き払い、新しい住家も決め、引越しも完了させていた。
 新たな生活に向かうまえにふと、思いたっだのだろう。会社の寮のビルに出向き、屋上で物思いにふけっていたらしい。そしてそのまま帰らぬひとになった。10階から飛び降りたH君は即死だったという。
 ビルの中から屋上へ続く扉は、防犯上、外側(屋上)からは入れない造りになっていた。H君はその扉が閉まって帰れなくならないようにと扉に靴を挟んでいたそうだ。
 彼は逃げ出したのではなかった。夜空の星を眺め、今までの自分に訣別し、そして靴を履き、重い扉を開けて新しい夢への一歩を踏み出そうとしていた。最後の最後まで。
 夜空の星があまりにキラキラしていたから、ふと空を飛んでみたくなったのだろう。そう思う。

親バカ・子バカ・ジジバカ・妻バカ


 敬老の日の9月20日、剣道の試合を見に行ってきた。
 うちのダーリンは子供の頃から剣道をやっている。両親が剣道マニアだったせいでダーリンはものごころついた時から竹刀を握らされ、それ以来剣道から遠ざかったことは一度もないそうだ。
 私は剣道なんてまるで興味がないが、ダーリンが出る時はときどき見にいく。何回見てもよくわからないが、普段見ることのできない勇ましい夫を見られるのは楽しい。
 朝7時に叩き起こされ、しぶしぶ支度を始める私。去年の試合は昼過ぎからだったのに今年は朝から出るのだというダーリン。確か午前中は子供の試合ばかりのはずなのになんで?
「8人グループで対決するんやけど、うち6人は子供、あとの2人は大人。そういう試合に出なきゃなんなくなった」
 ということだった。
 会場に着くとギャラリー多数。今まで私が行った大会は大人の試合ばかりだったのでギャラリーも少なかったが、今回は子供が多数出ることもあり、しかも敬老の日ということで子供の親、祖父母がカメラ片手に一生懸命になっていた。
 胴着と袴に着替えたダーリンが試合会場にやってきた。この試合に大変なプレッシャーを感じているようだ。
「こわい・・・オレがかっこ悪い試合をして負けたらエライこっちゃ。ここにおる子供とおばちゃんら、全員敵にまわすことになる」
 私に耳打ちをするダーリン。せっかくウチの子ががんばって勝ったのにアイツが台無しにした、なんて思われるのか・・・。
「勝ってや。とにかく勝たなあかん!親バカを敵にまわすと恐ろしいで」
 
 試合が始まった。親バカ・ジジバカたちのカメラがいっせいに回り始める。こんな賑やかな試合は今まで経験したことない。こりゃ、子供らも大変なプレッシャーに違いない。が、6人の子供達はあっけなく全員敗退。同時に親バカ・ジジバカたちも壁際に遠ざかり。
 そして大人のMさんが登場。ここで大人の威力を発揮してほしい。が、Mさんも負けてしまった。
 そしてラスト。大将(剣道の試合では最後に試合する人を「大将」と呼ぶ)、いよいよウチのダーリンの登場。そして壁際から妻バカも登場。ビデオカメラを回す。
 ダーリンの胴着袴姿、りりしーい♪ この大会にはたくさんの人が出場しているが、ダーリンが1番のオトコマエだ。そして私は彼の『ツ・マ』なのだーっ。
 オホホホホホホホホホ。
 そして!ダーリン、勝った!ダーリン、ステキぃぃぃぃ♪
 しかし相手チームの大将、気の毒だな。子供全員勝ったのに最後で大人が負けるとは・・・・・・。

 次の試合は昼過ぎだそうだ。相当な待ち時間がある。ダーリンは昼寝をしに控え室に行ってしまったので私はとりあえず喫煙コーナーへ。
 剣道のベテランそうなおじさんたちが煙草をふかしながら、話し込んでいた。そこへおばちゃんがひとり登場。
「あー!なんてこった!次、OX会と当たるねん!OX会にはK君がおる。彼はOXの若手選手でな」

 耳、ダーンボ

 OX会のKとはウチのダーリンのことではないか。

「え!OXのK?知らんなあ。どんな選手や、背は?横幅は?」
 一緒にいたおじさんが身を乗り出しておばさんに聞いていた。

「背は高いけど横幅はない。ひょろーっとした子や」

 ひょろーっ??? ダーリン、結構マッチョやけどな。でも胴着を着るとかなり痩せて見えるのは事実だ。

「なんや、幅がないのか。だったら大丈夫や」

 なんや、『大丈夫』だとー!?OXのKは痩せて見えるけど脱いだらスゴイんやでー!!

「で、K君はどんな剣道をしよるんや?(動きの)速い剣道か?」
「全然!」
「あぁ、それなら大丈夫や」

 いかにもOXのKは大したことないという結論で話は終わった。おばちゃんは、
「とにかく私も彼のこと、情報収集しとくわな!」と立ち去っていった。
 私はすぐさまダーリンに携帯電話をかけた。
「あんた!今、喫煙コーナーで『OXのKは大したことない』みたいな噂されとったで!絶対勝たなあかんで!」
 と私のほうが血気盛んになってどーする。

 妻バカモードは炸裂するばかり。親バカ・ジジバカは微笑ましいが、妻バカは世間から見て暑苦しいだけだと自覚はしているものの、そうならずにいられないのがこの私。

 午後の試合はチーム戦ではなく個人戦。ダーリンは去年、この大会に初出場にて優勝し、大きなメダルを手にしたのだ。しかし今年は仕事が忙しく、なんと2ヶ月も竹刀を触っていない。が、
 いきなり3人に勝った。よしいい感じだ。
「Kさん、調子いいねぇ!なんといってもディフェンディングチャンピオンやからなー。強いわあ!」
 と、知らない人に声をかけられた。
 ホホホ、そうよそうよ、ウチのダーリンは『チャンピオン』だからさ!

 次の試合まで時間が空いたので私は外に出て撮影済のビデオを再生し、ダーリンの雄姿を鑑賞。
 そこへ男の子の兄弟が3人近づいてきた。うわ・・・ヤな展開だ。
「何、見てんのー?」「これ、なんで映ってんのー?」「どうやったら映るのー?」「この音どっから聞こえんのー?」「この窓、覗いたら映るのー?」「僕も映りたいー」

 巷の親たちはこんな質問にまともに全部答えているのか。なんで映ってんのーと聞かれても説明できんし、仮に説明したってわからんだろうが。
「これで映したから映ってるの」と私は自分でもわけのわからない返答を繰り返し動揺しまくり。
 みなさま、もうとっくにおわかりだろうが、私は『子供』がとてもニガテ。子供が近寄ってくると、まるでニシキヘビを首に巻かれたかのような動揺と「やめてー!!」感が募るのだ。かといって冷たくその場を立ち去る勇気もない。子供には優しく接するのがオトナの常識である。
 そしてますます動揺しまくり、いっそう間がもたないので、カメラを撮影モードに戻し、子供らを映してやった。そうして予想どおり子供らは大喜びし、カメラを取り上げてしまった。兄弟で映しあいっこをして大はしゃぎ。

 落とすなよ、そのカメラ・・・10万以上してんだぞ。10万稼ぐのにどんな苦労をしたか君らにはわからんだろうが。レンズに指紋をつけてくれるなよ、いらんとこいじくって壊してくれるなよ、この先試合が控えてるんだから。

 滝のように流れる冷や汗をぬぐいつつ、なんとか間を持たせようと「お父さんも試合に出てるの?」と1番下の子に聞いてみた。
「そうや。僕のお父さん、剣道強いねん」
 親バカならぬ「子バカ」に遭遇。
 フフ・・・君のお父さんがウチのダーリンより強いということはありえまい。なんてったってダーリンは『チャンピオン』なんだからさ。
 私は心の中でひとりニヤついた。こんな子供にまで対抗心を燃やす妻バカなのであった。
  
「はい、返して。次の試合が始まるからね」
 と私は大嘘をついて子供らからカメラを奪還した。ああどうやってもやはりやっぱり私は子供がニガテ。

 おまえのような人間にこそ、子供を産み育て、人間としての成長を遂げてもらいたい。

 はぁぁぁ、家に帰ったらまたダーリンにそう言われるんだろうなあ。極めて厳かな口調でさ。

 仕方なく会場に入った私はひたすらダーリンの出番を待つ。数時間後、ふたたびダーリン登場。
 前々年度優勝のI氏との対決。I氏はダーリンと同じOX会のメンバーだ。OX会は大阪でも結構強い剣道部らしく、上位の試合は同じ会のメンバーでの『潰しあい』になるそうだ。
 ダーリンはここで力尽きた。。。やはり練習量の違いが出た。あーあ。

 これで帰れるのかと思ったら、次は団体戦があるとのこと。早く家に帰って英検の勉強をしたいのになぁ・・・・・・というのはタテマエで、私はさきほど腕を3箇所、蚊にかまれたのであった。カメラを構える右腕を集中攻撃され、すっかり意気消沈。夏の終わりの蚊は大きく、かまれるといつまでもかゆいのが特徴だ。
 妻バカの威力も蚊の食欲にあっさり撃沈。
「早く帰りたいよお、かゆいよお」
 カメラを回しながらつぶやいたので、この声はしっかりビデオに残されているであろう。
 団体戦はあっさり負けてしまった。チャンピオンとしての力を出し切れなかったダーリンはすっかりヘコんでいたが、2ヶ月も練習しないで優勝するなんて、世間はそんなに甘くないで、ということで納得させる。
 そうやな、そんなに甘くないわな。とダーリンもすんなり納得。
「ちゃんと練習したらまたすぐにチャンピオンになれるわ!」
 励ますことも忘れずに、私はダーリンの手をとった。
「こんなとこで手ぇつながんの!離しなさいっ!」
 はぁぁぁ、また叱られちゃったわい。

 そして9月25日。またもや朝からダーリンの追っかけを。今度は職場の剣道部の一員として参加。
 この大会はかなりレベル高の雰囲気が。出場チームには自衛隊、拘置所や刑務所の名も。
 余談だが、うちのダーリンは高校生の時に、
「君、自衛隊に入らへんか」
 と、試合後に肩を叩かれる経験を何度もしているらしい。
 自衛隊・刑務所・拘置所のみなさんはやはり強い強い!!みんな「剣道を見込まれて職場に入った」エリート集団ばかりなのだから。
 そんな激戦大会で。なんとマイダーリンは、オホホホ、準優勝させていただき、大きなメダルを手にしました!
 そして表彰式。私は役員側の席を陣取り、フラッシュたきまくってデジカメ撮影。誰がどう見ても「あのカメラ女はKの妻」、正体バレバレである。
 そして帰りには「勝利の美酒」を・・・と言いたいところでありますが、ダーリンは休日出勤のため職場へ直行。
「K君、奥さんがせっかく来てくれたのに、ひとりで帰らせるんか?」
 と、同僚に責められていたが、
「あー、うちの嫁はこれから西宮でコンサートでね。若いピアニストの追っかけしとるんですわ。今度ニューヨークまで行きよるんです。オレ、仕事やのに」
 一同失笑。
 ということで、妻バカモード終了。私は次のターゲットを近藤嘉宏さまに絞り、西宮へと駆けつけたのだった。
 数時間後、今度は人ごみ押しのけ、近藤さんの写真を撮っていた私でございました。
 はたしてこういうのは何バカと言うのだろうか。

袴の下はノーパンらしいです   2位の表彰を受けるダーリン 夫婦でニヤリ


嵐 の 一 日

 8月30日、夕方。
「雨が降ってきたわ」と向かいに座る同僚Sさんが言った。
 今日は関西に大型台風が接近するという。朝はわりと天気がよかったので大したことないだろうと思っていた私。
「今日、帰れるかなぁ」と心配するSさんに、
「帰れるやろー」とのんきに返答した。

「今日のアジア向けのフライトはキャンセルです」
 17時頃になって上司が言った。へー、そんなにひどい台風なのかぁ。ま、ラッキーかしら、フライトないんだったら仕事量も減り、慌てなくていい。
 定時(22時30分)になったのでタイムカードを押し、さっさと帰り支度。私は仕事場ではいたってクールだ。自分の仕事さえ終わればいつも矢のように帰る。
「あっ、ちょっと待って!」Sさんが帰る私を引きとめた。
「止まってるって。電車も車も全部」

 私の勤務地である関西空港というところは海の上に浮かぶ島で、陸地へ渡るには橋がひとつしかない。橋は2階建てになっていて、下は電車、上は高速道路になっている。
 電車はしょっちゅう止まる。台風でなくとも風が少しきつかっただけで運休になる。でもそのかわりに代行のバスが出る。上の高速道路まで通行止になることはめったにない。
「なんかさ、潮が入ってきて水浸しらしいで。橋だけじゃなく島内のバスも走れないらしい」
 Sさんがそう言うので外を見てみた。
 視界は全て水に浸っていた。強風にあおられて波打っていた。あわわ。このまま海に沈むんじゃなかろうか。
「こんなとこで死ぬのはイヤだなぁ。オレはさ、自分の死に方はちゃあんと決めてるんだから、こんなトコでは絶対に死なんぞ」
 隣に座る大先輩T氏がつぶやく。
「死に方、もう決めてるんですか?」
「うん。オレはな、最後の最後まで『アイツはすげえヤツだなぁ』と周りに思わせつつ死ぬんだ」
「それは実現できそうですか?」
「まぁね、フッ・・・・・・」
 T氏は自称「セクハラキング」だ。
「40過ぎて独身なんてのはさ、やっぱりどこか変なんだよ」
 と自分で認めてはいるが、やはり変な人である。仕事中にベラベラ話しかけてくるのではっきり言って困るが、この業界での経歴は立派なもので、通関知識はもちろん、成田や伊丹でも働いてきた人なので経験も豊富。現に今、T氏は来年開港する中部国際空港で豊かな経験を生かして土台を作ってほしいと上司に頼み込まれているほどの人なのだ。
 もうひとつ言うと人の噂話にも異様にくわしい。
「もう辞めたけど、覚えてるか?Kさんていただろ?OX君はあの子にフラれちゃったんだ」
「えー、ホンマですか?ガセちゃいますのん?」(訳:ガセネタじゃないんですか?)
「ホンマや、マジで告白したんや、で、フラれたんや」

 タイムカードを押してしまったが、ぼうっとしてるのもなんなので仕事をすることにした。風はますます強くなり、やがて建物が揺れ出した。道路まで止まってしまってるのだからタクシーも呼べず、どうにもこうにも帰れない。しかもいつ復旧するかもわからない。今日は月曜日、週の初めからこんなでは今週の仕事はまさに修行になってしまうだろう。一度狂った体内時計はそう簡単にはモトには戻らん。この歳になるとねえ。
 風がますます強くなり、窓ガラスがガタンガタンと音を立て始めた。
「わ、割れるかも・・・」
 向かいに座っていたSさんはカーディガンを着こんだ。
「これなら、割れてガラスが刺さっても大丈夫かな?」

 いやぁ・・・大丈夫じゃないと思うけど・・・

「今夜はここでビバークだ。いいじゃないかよー、ここは山小屋と違って食いモンもあるし冷房も効いてるし」
 T氏は40過ぎて独身なだけあって非常に多趣味だ。意外なことに登山も趣味のひとつに入っているらしく、その件に関しては私と話が合う。T氏は机の下からスナック菓子を出してきた。
「しょーがねーなぁ、せっかく貯めてるけどこういう状況じゃあ出さないわけにもいかんだろ」
 T氏は机の下に大きな紙袋を置いていて、そこにはたくさんのお菓子が詰まっている。
「はい、コレうまいぞ。オレの買う菓子にはな、絶対にハズレはない。オレはうまい菓子しか買わないんだ!!」
 自信満々で振舞ってくれたポテトチップス。見たことない銘柄のものだったがなかなかおいしい。
「な?うまいだろ?な、な?」
 T氏の相手は疲れるが、彼の能力は・・・認める。
「ほんと、おいしいですねー」
「オレはうまい菓子しか買わん!!」

 0時を過ぎたので我々は仕事を辞め、漫然と時を過ごした。
「1時頃がピークだそうです。どうする?ホテル泊まる?」
 と、上司が言ってきた。私の場合、家が遠いのでタクシーで帰るもホテルに泊まるのも結局は同じくらいの費用なのだ。
 うーーーーん・・・もうちょっと待ちます。
 ホテルのチェックアウトというのはたいてい10時か11時頃でしょう?私の明日の勤務は14時15分から。そんな中途半端な時間にホテルから追い出されるのも退屈だし・・・それよりもなによりも、私は家が心配!
 ダンナも今夜は泊まりだ。最近は仕事が忙しく、泊り込みで徹夜の毎日を送っている。ということは家にはネコしかいない。
 ネコは一晩くらいほうっておいても心配はないが・・・・・・私が心配したのは『鍋』だった。

 前日の晩に野菜スープをいっぱい作ったのだ。私は料理が嫌いなので1週間持ちこたえられるほど大量のスープを鍋いっぱいに作った。冷蔵庫には入りきらないほどの大鍋で。これに毎日2回火を通せばなんとか腐らずに食べ続けられるだろう。恐るべき怠惰心。
 ちょうどその前日に栄養士をしている友達に会い、「冬瓜を入れるとおいしい」と言われたので私は冬瓜をたっぷり入れていた。
 冬瓜なんて珍しい食材、一生料理することないと思っていたが。
 やはり変わったことをしたのがいけなかったのか、この大嵐!!!
 私は「冬瓜」などを料理したことを激しく後悔。
 Sさんが気の毒そうに私を見る。
「あー・・・瓜系はアシが早いよ」

 うわああああ、あの大量のスープ、全部ゴミになるんかぁっ!

 まさに不幸のどん底だ。今夜はココに泊まってそのまま翌日の勤務。そして家に帰ったら・・・
 臭いスープを流しに捨てる自分を想像し、悲しみに打ちひしがれた。

 『アシが早い』とは『腐りやすい』という意味。ところで 『アシが早い』って、関西弁なのかな?

「今、ふたりでちょっと外に出てみたんですけど、すっごい風ですよー!」
 Y君が雨に濡れた顔を拭き拭き席についた。Y君と一緒に外へ出てみたというF氏は風にメガネを飛ばされたそうだ。
「Fさんね、外に出た瞬間、メガネ飛ばされたんですよー」
「アハハ!マンガみたーい!!」
 Sさんが笑いこけていた。
 深夜に仕事もせずお菓子食べながら過ごすひととき。なんかおもろくなってきたぞ。これで明日が休みだったら言うことないのになー。

 深夜1時。雨と風は猛威を振るい、まるで地震のように建物が揺れる。
「今から歩いて橋を渡ろう!そして六甲山へ登ろう!英雄になれるぞー!!」
 T氏のテンションはますます上がる。
「制服着て登りましょうかね。山頂に社名の入った旗でも立てましょうか」
 T氏のボケに気の利いたツッコミを入れなければとプレッシャーを感じる自分であったがイマイチだ。
「でもその前に『探さないで下さい』って手紙を残さなきゃな。捜索費用はバカ高いからな。ヘリ1台100万だからな。何が何でも探すな!死んでも探すな!!」
 あぁもうツッコミきれない。どうすればよい?
「Aさん、今ごろ家で残念がってるぞ。あいつはな、嵐が大好きなんや。まるで子供!」
 今日はたまたまオフであったA氏は大の『嵐好き』で風や雷を聞くと興奮してはしゃぎだすそうだ。さすがT氏、なんでも知っている。

 1時がピークだと言っていたのに2時を過ぎても相変わらず。さすがに疲れを感じた私とSさんは休憩室に移動。そこでは派遣社員の女の子たちが「ババ抜き」をして楽しんでいた。そこに加わりしばし「ババ抜き」を。それにも疲れ、テレビ観賞。台風情報もしっかりチェック。
「あー、眠い、おなかすいたぁ」
 よく考えれば夕方5時に弁当食べたきり。冷凍食品オンリーの弁当・・・ひもじいよぉ、わびしいよぉ・・・(某氏が某国でピアノを弾くなんて言うからアタシャこんなにビンボーなんだ)。
 まともな食も摂らずにお菓子ばかり食べるので胃が痛くなってきた。あー・・・しんどい。いつになったら橋が開通するのか、全く見当もつかない。いつまで待てばいいのかわからない、この苦しさ。派遣社員さんたちは夜7時からの出勤なので元気そうだけど私とSさんの疲れはピークに達していた。
「あー・・・横になりたい・・・」
 マジでテントとシュラフ(寝袋)を持ってくるべきだった。

「もーすぐ橋、通れるよ!今から試験走行だって!」
 あー・・・助かった。
 4時になり、やっと橋が開通。上司がタクシーを呼んでくれたので急いで帰り支度を。
「明日は適当に出勤してください」
 こんなことを言ってもらえるとは!前の部署なら絶対に無理な話だ(私は今年の7月から今の部署に異動した)。
 そうして私は朝の6時過ぎに帰宅。
 おかげさまで鍋は無事だった。火を通し、一口食べてすぐ寝た。爆睡!!!

 数時間後、出勤。
 みんなヘロヘロ。そこへ涼しい顔をしたA氏が出勤。
 T氏がすかさず、
「見てみろー、あの涼しい顔を!今日の仕事は全部まかせようぜ!」
 A氏は苦笑いしながら、
「大変だったみたいですねー。でもオレ、ちょっと残念です・・・」

「ほらな。アイツ、ホントに嵐が好きなんだ。子供だろ、子供!」
 なんでも知ってるT氏なのだった。

 はぁ・・・今週の勤務は体内時計が狂ったままだったので、すんごく疲れました。もうこんなことはコリゴリです。

S k y

 空を飛んでみたい、というのは誰しもが持っている想いだと思う。
 山へ行くといつも「この斜面をだーっと駆け下りて大地を蹴ってこの空に浮き上がれたらどんなに素晴らしいだろう!」と思う。
 実は一度、空を飛んだことがある。「パラグライダーで」だけどね。
 低地で研修をうけたあと、リフトで小高い丘に登り、風が来るのをひたすら待った。パラグライダー半日体験コース、というのに参加したのですが、結局飛んだのは2回だけだった。いつでも飛べるというわけではなく、いい風が吹いてくるのを待たなければならなかったから。
 丘の上で随分待った。参加者は4人。私は2番目に飛ぶことになっていたけど、インストラクターが、
「あなた、一番に飛びましょうか」
と言い、順番を変えてくれた。どうやら「早く飛びたくてうずうずしている」のが顔に出ていたらしい。

 いい風が来た。大地を蹴って空を飛んだ!飛びすぎて車道に着地して叱られた。パラグライダーでは「大地を蹴ってはダメ」なんだそうだ。宙に浮いても「地面から離れたくないよぉ」とばかりに、じたばたと走るマネをしなければならないらしい。結構かっこ悪い。
 2度目のフライトは言われたとおりに実行。今度はうまく飛べてほめられた。

 時々購入する山岳雑誌にこんな内容の投稿が載っていた。
「昔は仲のいい友人とふたりでしょっちゅう山に登ったものですが、今では仕事と家庭が忙しく、山からすっかり遠ざかってしまいました。
 仕事でたびたび出張するのですが、飛行機の中から外の景色を見ていて気付いたのです。山をやっていた頃、大好きだった山の頂上を私の乗っている飛行機が毎回通りすぎることを。
 その話を友人にしました。友人は今でも休日のたびに山に登っています。友人は「じゃあ今度オレがそこから旗を振ってやるよ。今度の出張はいつだ?」と聞くので私は「O月X日の何時頃に通り過ぎる」と言いました。
 当日私はわくわくしながら窓の外を眺めていました。そしてあの山の頂上を見やると・・・長い長い布が風にたなびいているのが見えたのです」
 
 いい話だわぁ・・・。そんなことされたら私、飛行機の中で泣いちゃうな。

 今、私は大阪市内に住んでいる。この家を探すとき、私は病気で寝込んでいたのでダンナがひとりで住居探しをしてくれた。「どんな家がいい?」とダンナに聞かれ、私が出した条件はただひとつ。「空が見える家」。狭くても古くてもいいから窓から空が見えればいいと思った。
 都会の空は狭いけれど、青空、曇り空、雨空、夜空。空が見られることがしあわせだと思う。しんどい、つらいと言いながら、私がなかなか今の仕事を辞められないのは空港で働いているからかもしれない。飛行機が大空に飛び立っていくさまは毎日何度見ても飽きることはない。

 ところで、どうして空の色は「青」なのだろう?

「太陽の光はもともと無色ですが、プリズムで色を分けると、波長の短い方から順に、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤と、虹のような七色になります。日光が空気の中を進む時、空気中の浮遊物(細塵)に衝突すると波長の短い光線は散乱されます。その散乱された青系の色が私達の目に届き、空が青く見えるのです」 ***高橋健司・「空の名前」/角川書店 より***

 空が青いのってすっごい偶然なんだよねぇ。
 素晴らしい偶然だなぁと思いませんか?だってもし空が黄色や緑だったらどーよ?「抜けるような黄空」「真っ緑な空」・・・・・・・。
 人間の寿命、短くなりそう。。。今よりもっと凶悪犯罪が多発してそう。戦争も絶えなさそう・・・。
 空が青くて本当によかったと思う。

 青い空も大好きだけど、私が一番好きなのは「山で見る夜明けの空」。
 太陽が昇ってくる直前の、光をうんとためこんだ雲海の美しさ。そして、ためてためてぐぐーっと出てくる太陽の力強さ。言葉を失うほどの威力です。
 そして昼間の青い空。
 そして落日のとき。本当に名残惜しそうに沈んでいく太陽。空に雲に鮮やかな光を残しつつ沈んでいきます。雲海を照らす残り陽のなんとまばゆいこと。
 そして夜空を埋め尽くす星の瞬き。
 地球もこれらの星と同じ「ちいさな星」なんだなぁ、あの星から見える地球はどんなふうに瞬いているのだろう、今見えている星の光は何年前に放たれた光なんだろう、とか考える。
 地球から100光年離れた星の光は100年かかって地球に届く。だからもしその星が今爆発しても、その光を地球上で見られるのは100年後。もしかしたら今私が見ているあの星、とうの昔に爆発して今は存在していないのかもしれない。
 存在しないものが見えている。。。そう考えるととてつもないロマンを感じませんか?
 
 残念ながらこういう空の色は高い山に登らなくては見られないけれど。
 大きな空が見たい、いろんな色の空が見たい。
 だから私、山に登りたくなるんかな。
 

R i v e r

 夏といえば水のあるところに出かけたいものです。
 普通は海やプールに出かけるんでしょうが、私は海とプールは好きではないので行かない。なんで好きではないのかというと、子供の頃にこれらの場所に遊びに連れてってもらった記憶がほとんどないからかも。
 それに私は基本的に水が怖い。小学生の頃はプールがひたすら怖くて、小学校4年まで放課後の水泳特訓を受けさされていたのです。
 息ができない恐ろしさ、視界はぼやけ、聴覚も奪われ、そして何よりも「外界から遮断される」という恐ろしさ・・・・・・どうしてみんなはあんなに楽しげに水に潜ることができるのだろう。
 大人になってからしばしば「スキューバダイビング」をやらないかとお誘いを受けたけれど、全部断ってきた。あんな重たい機材を背負って、足の届かない水中へ潜るなんて絶対にいやだ!!!そこにどんなに美しい世界が拡がっていようとも、自分の命にはかえられない。

 でも川は好き。子供の頃、泳ぐといえば川だった。実家から車で少し行ったところに泳げる川があった。なので両親は私を時々そこに連れて行ってくれた。車ではなく歩いて行ける距離にプールもあったけれど、そこへは連れて行ってくれなかった。貧乏な家庭に生まれた子供の悲しいさだめ・・・・・・・。
 小学校5年のとき近所に仲のいい友達がいて、その子の母親が奄美大島の出身だったので、私も一緒に連れて帰ってもらったことがあった。
 そこで毎日のように川で泳いだ。川は海と違って狭いのでそこに集まる地元の子供達ともすぐに仲良くなれたし、岩や木がたくさんあったのでそこに登ったりそこから川に飛び込んだり、一日遊んでも退屈しなかった。
 私にも子供ができたら、海やプールよりも川に連れて行きたいと思う。

 ダーリンの実家はとっても田舎なので川で泳げる。海も近い。
 最近ではお義父さんが鮎採りに凝っていて、2年前の夏は私も一緒に川で鮎採りに参加した(もちろん密漁ではなくちゃんと免許を取ってます)。
 数メートルある網で周りを囲い、網にひっかかった鮎をガシっとつかんで、頭を指で何度もはじいて気絶させて採る。
 結構たくさん採れたけれど、しばらくするとオッサンたちの団体が訪れ、それからはぱったりと鮎が採れなくなった。
 オッサンらは我々よりもさらにでかい網を持っており、我々よりも広範囲にわたって網を張り、流れてくる鮎を根こそぎ持っていってやろうという意気込みだった。
「まるで少年の草野球に大人が入り込んできたみたいよのぅ」
 と、義父はぼやき、我々は場所を変えるべく網を片付けた。オッサンらは申し訳なさそうに、自分らの網にかかった巨大鯉を2匹くれた。
 鯉ってグロテスクね・・・・・・。唇が気持ち悪いの〜〜〜。片手ではちょっとしんどいくらい重たい巨大鯉を車に積み込み、我々はさらに上流へ。
 そこにはあんまり鮎はいなかったけれど、ウナギがいた。ダーリンが見つけて数時間粘ったけれど、ウナギは岩の下にもぐりこんだまま身動きしなかったそうだ。
「天然ウナギなんて食える機会はめったにないぞ!ちきしょう、あの時・・・・・・」
と、今でもダーリンは当時のことを振り返り、悔しさをあらわにする。

 つい先日行った沢登り。この遊びは日本独特のもの。外国には人が遡行して遊べるような川はないそうだ。川とその周辺の大自然に触れられるのは日本だけだそうです。
 自然保護のためには「立ち入らないことが一番」だとは思うのですが、こんなに素晴らしい自然に直に触れないなんて、とってももったいないと思うのです。だから「ちょっとだけ入らせてねー」と思いつつ、岩に抱きついたり土の上に寝ころんだり。
 水の流れる音っていいですよねぇ。こんなに癒される音楽は他にないと思う。なので私は山へ入る時にはCDやラジオや音の出るものは一切持って行きません。
 真夏の森の中、遠くから聞こえる沢の音。ほんとにホッとします。

 ああニッポンの山と川よ!その美しさ、いつまでも!!!
 これからも遊ばせてくださぁい!

M o u n t a i n


 夏は一番好きな季節です。それもこれも全て「山」に行けるからです。
 毎年、梅雨に入るとワクワクするのです。「これが明ければ夏が来るのだー」って思うと。
 スコーン!と突き抜けるような青い空、もくもく湧きたつ白い雲、木々は生い茂り、花が咲き・・・そう思うといてもたってもいられない。

 どうして山に登るの?どーしてこの暑い盛りに重い荷物を背負って歩き続けなきゃなんないの?仕事だけでもクタクタなのに、わざわざそんなにしんどい思いしなくったって。山の何がそんなにいいの?

 よく言われる。実によく言われる。本当によく言われる。
 正直言ってうっとうしい・・・・・・。わかってほしいと思うけれど、わからない人にはわからなくていいや、とも思ってしまうので、適当にかわしてしまう。
 わからない人にはどんなに言葉を尽くしてもわかってもらえないだろうし、わかる人は私の目の色を見ただけでわかってくれると思うし、逆に「言わなくていいよ」って言ってくれると思う。
 山の、自然の素晴らしさは言葉ではとても言い尽くせない。言葉にするとどうしても安っぽくなってしまうような気がする。だから「山の何がいいの?」って聞かれるのがうっとうしいと思ってしまう。そんな野暮な質問するなよぉぉぉぉって・・・。

 どうして山に登るのか?と聞かれて「そこに山があるから」って答えた人がいるのは有名だけど、私はちょっと違う。
 「どうしてそんなに飲むの?」と聞かれて「そこにビールがあるから」って答えるみたいな軽ーいノリみたいな感じに聞こえて、なんかイヤ。
 もっと大事なこと、例えば、、、そーだなぁ、、、私にとって山に行くことは「ウンコする」みたいな感じ。行かなかったら苦しい。強烈な便秘でおなかがパンパンに張ったみたいに苦しい。
 
 山に行く前日はザックに荷物を押し込む。その重さにゲンナリすることは事実。仕事帰りに夜行バスに乗り、苦しい姿勢でよく眠れず、バスから降りると重いザックを背負って歩く。
 これ、ツライ。ゲンナリする。何年やっててもそう思う。
 あぁ、また来てしまった。
 暑いなぁシンドイなぁ・・・帰りたいなぁとまで思うこともある。

 なんででしょうねぇ。自分でもよくわからない、どうして山に登るのか。だから人に聞かれてうっとうしいと思ってしまうのかも。自分でもわからないことを人に聞かれるんですから。

 子供の頃、「アルプスの少女ハイジ」が大好きだった。あんなきれいなところに行ってみたいな、という気持ちは常に心のどこかに持ち続けていた。
「あれはスイスという国の話だよ」と母に教えられ、大人になったらお金持ちになってスイスに行ってみようと真剣に考えた。
 ハイジがフランクフルトに連れて行かれ、お屋敷の物置にある大きな絵画を見て「お山に帰りたい」と泣くシーン。
 子供の頃、その場面を見て「あー、やっぱりおうちに帰りたいんだなぁ、大好きなアルムおんじやヨーゼフやペーターに会いたいよなあ」としか思わなかったけれど、今はもっと違う感情が湧く。
 ハイジはおんじよりもペーターよりも犬よりも、あの土地に執着していたのだ、と。

 私は毎夏、長野県へ行く。長野の冬は長くて厳しい。私はいつも「一番いい時期にしか」行かない観光客で、普段は大阪市内でなんの不自由もなく便利に暮らしているから、そんな私が『長野県は素晴らしい!アルプス万歳!』と声を大にして主張するのははばかられるけれど・・・

 それでも言おう、
 長野県は素晴らしい!アルプス万歳!!! 

 山ではいろんな出会いがある。
 29歳の時の夏、「20代最後の思い出に」と、剣岳に単独でチャレンジした時、四国在住のご夫婦に出会った。9月だったので山はひっそりしていて、山小屋には私とその夫婦の3人だけだった。
 今でもそのご夫婦とは年賀状をやりとりし、今回はあの山に登りましたと報告しあっている。
 翌年には東北の山で出会ったおじさまがとても親切にしてくださった。
 東北の人はほんとに優しい。なんといっても東北弁の響き・・・まるでフランス語のように「鼻にかかった甘い響き」がなんともいえず好き。タクシーの運転手さんも優しかったし、お寿司屋さんに入った時もビールを一杯サービスしてもらったし♪
 早池峰山(はやちねさん)という山に「ハヤチネウスユキソウ」という花が咲く。エーデルワイスに一番近い品種の花で、とても可憐で美しい。それ見たさに一人で山に登った。
 出会ったおじさんも単独行。農業で生計を立てていたけれど、今は山岳ガイドをして余生を楽しんでいる人だった。
 初めは正直、警戒した。アヤシイおっさんではないかと。
 でもいたるところに立っている早池峰山岳パトロール隊の方々と親しげに口をきいていたので安心し、道中ほとんど同行させてもらい、自分のところの田んぼでとれたコシヒカリのおにぎりや←(激ウマ!)、わさびビールなどをご馳走になった。帰り、林道をふたりで歩いていると後ろから車に乗った紳士が、
「林道歩くの大変でしょう。乗せてってあげますよ、家はどちら?」
と、声をかけてきた。私達を親子と思ったらしい。
 同行のおじさんが登山口の駐車場に車を止めていたので、そこまで乗せてってもらい、そこから先はおじさんの車で花巻空港まで送ってもらった。
 農業の苦労話、日本の政治がいかに農業を軽視しているかについておじさんは熱く語ってくれた。農業をやっている人はお金持ちが多いという印象があるけれど、そういう人は皆、二毛作や温室を抱えて、一年中働きどおしだそうだ。
「冬の寒さよりも、雨や台風よりも、米を作れないことが一番つらかった」
 減反政策で苦しむ農業従事者の悲しい気持ちを直に聞けたのも貴重な体験でした。

 人との出会いも楽しいけれど、一番楽しいのは自然との出会い、そして自分との出会い。
 とっぴょうしもないことが起きるわけではないけど、広い空を見ていると心が晴れるし、山の上だけを通り過ぎてきた風をからだいっぱいに浴びるのは気持ちがいいし、厳しい自然条件の中で強くたくましく咲く、高山植物の可憐な姿に心洗われる。
 ただそれだけなんですよね。広い空がいい、風がきもちいい、花や木々の緑がきれい。だから山に行きたいと思う。それだけ。これ以上言いようがないのです。
 それと・・・
 目の前の風景に感動できる自分がしあわせ。美しいものを美しいと思える自分が好き。
 自分のことを好きだと思える瞬間。下界ではほとんどありませんので。
 昇る朝日に沈む夕日に満天の星空に、きれいな空気に花に水に、山へ行ける自由を与えてくれる家族に会社に、それら全てに感謝することのできる自分の心に、乾杯! 

 こうして長々書いても、どうして山に登るのかとの問いに対する明確な答えは出てきません。
 大自然を目の前にして毎回思うのは「生きててよかった」ということ。
 日頃「死にたい」と思っているわけではありませんけれどね(笑)。
 
 

だんだんバカになっていく
  

 部署異動になってからというもの、残業ほとんどなし。そのうえ仕事内容がとっても単調・・・。一日中机に向かって字を見る仕事で目が疲れるので、家に帰ってから本を読むこともなくなった。なのでココの更新もなかなか進まない・・・。
 最近、自分がだんだんバカになっていくよーな気がしている。

「うちは土日が休みだし残業ないからプライベートが充実しますよ。僕は通信教育で大卒資格をとりました」
 と、同部署の先輩が言っていた。そして私にも何か勉強するように勧めるのだった。
「何か始めるんだったら楽しいことがいいですねー。勉強系はちょっと・・・」
 と逃げ腰になっていると、
「もったいない!そうだ、あっこさんは法学部を出てるんだから行政書士でも取ってみたらどうですか?」
「行政書士ねぇ・・・・・・通関士並みに無意味な資格ですよねぇ」
 先輩も「そーだよね。僕も行政書士は取る気がしませんわ」と。

 だったらなんで私に勧めるんやぁっ!!

 実は大学生の頃、行政書士を取ろうと思ったことがある。半年間の通信講座をバイト代で買い、はりきって勉強を始めたが・・・あまりにつまらないので2ヶ月でやめてしまった。
 でももう一度法律の勉強をするのも面白いかもしれない。今の仕事に慣れたら考えてみよう。

 今、自分にとって必要なのはやっぱり「英語」の勉強だということはわかっている。英語ができると会社では高く評価してもらえる。英語を習うのであれば会社がお金を出してくれるし。
「よし、今年は英語を勉強しよう!!」
 と、私は本屋へ行き、問題集を購入。今年こそ日常会話くらいはマスターしようぞ!と、もはや何十回目になるだろう、この決意。。。

   めざすは英検準1級

 と、ココに公表しておけば少しは勉強に身が入るかなぁ・・・・・・
 落ちても笑わないでねーーー♪←過去に一度落ちてまぁす。
 会社では英検よりTOEICの方を勧めているけど、英検はTOEICと違って『合否』で結果が出るところがよい。力のある者は受かる、そうでない者は落ちる。
 
 というわけで今年の夏は仕事と勉学にいそしむことに決めた、決めたぞ!

 私は英語には大変なコンプレックスがある。
 でも昔は英語の勉強が好きだったし、中学の頃は英会話同好会に入っていて、将来は翻訳家か通訳になりたいと思っていた。
 高校に入ってからもその意思は変わらず、卒業したら外大もしくはどこでもいいから英文科に行こうと思っていた。
 ところが受験が近づくにつれ、英語の勉強が苦痛になってしまい、とうとう放り出してしまった。英語は得意教科のはずだったのに、予備校の小テストでは0点ばっかり取って立たされたことも・・・・・・。
 クラス全員の点数経歴を表にしたものがひとりひとりに配られ、デキの悪いのは順番に立たされ、クラス中の視線を浴びつつ先生の批評を受けるという授業があった。私も公衆の面前に立たされ、
「君はねぇ、0点が多いなー、これはこの先かなりキビシイぞ」
 と批評を浴びた。受験英語から逃れるわけにはいかないけれど、受験が終われば逃れたい、この苦痛からいっさいがっさい逃れたい。
 というわけで英文科へ行くことはあきらめ、法学部へ行くことにした(軟弱)。
 
 法学部という選択をしたことについては正しかったのかそうでなかったのかは今でもよくわからないけれど、高校までに全く勉強したことのない分野だったので新鮮ではあった。
 それに結構おいしい思いもできるのだよな。
「法学部」というだけで大抵の人は尊敬の眼差しで見てくれる。特に「女が法学部」というのは「よほどデキルんだな、コイツ」みたいな。
 この誤解は一般社会においてだけではなく、おんなじ大学内でも浸透しているから驚く。
 今の部署でも同じ大学の出の人が2人もいることがわかったので、その人たちに話しかけてみると、「へぇ、そうやったん?で、学部はどこ?」と聞かれ「法です」というと「ひぇー」ってな感じ。「同じ大学じゃないですかー」と言うと「いや、法学部の人はやっぱり何か違う!まともな人が多いよね」と彼らは口を揃えた。

 「法学部の人は何か違う」というのは言えてるかもしれない。まともなのかどうかは知らないけどね。
 法学部出は変わり者が多く、周りの人間が特別な根拠もなしに「すごい!かしこい!」とおだてるので、妙なプライドができやすい。
 そうなると、もはや手がつけられない。中途半端な知識と理屈をこねまわし、自己中心的な分析を行なっては自己満足に浸りだす←まるでココの管理人。

 我こそが正義である、なぜならば我は「法学部」だからだ!

 そう言った意味では「何か違う」と言えるかも・・・(恥)。
 ※ほんとにまともな人もいますけどね。

 果たして、法学部出は「デキル」のか。これには異議あり。
 よく考えてみよう。。。例えば法学部の入試科目に『法律科目』というものが特別にあったとして、それをクリアしなければ受からないというのであれば話はわかるが、入試の問題は全学部似たりよったりでしょうが。そして実際の入試でも法学部は他の学部と比べて競争率が低いことが多い。
「他の学部も受けたけど落ちた。法学部しか受からなかった」
と言う学生は案外多い。
 なので「法学部生はカシコい」というのは全くの誤解である。
  
 でも他の学部に比べて堅実な人が多い。法律を学んでおけばどこへ行っても無駄はならんし、つぶしもきく。そう思って法学部を選ぶ人が多いようだし、私もそう思っていた。
 実際、社会に出てから何かを身につけようと思ったら法律の勉強は欠かせないので、難しい文言を見て拒絶反応を起こしているようでは大そう生きにくい。
 法学部を出てよかったと思うのはこういう時くらいかなぁ。

 法学部は地味な人が多い。特に女性は・・・美人が少ない。男子学生が多いからさぞかしもてるだろうと思いきや、男子学生たちは文学部のおしゃれな女子学生や近隣の短大とのコンパで忙しく、法学部女なぞ眼中にはない。
 法学部女も無数の男子学生が周りを埋め尽くしているために、最初はドキドキしたりするが1年もすればそういう状況に慣れてしまって「男が空気」になってしまう。そうして結局4年間、浮いた話もなく終わってしまうのだなぁ・・・(沈)。

 今、少子化と不況のおかげで大学は大変な経営難である。とにかく学生の確保を、とどこの大学も躍起になっていて、昔では聞いたこともないような新学部ができていて驚く。「現代こども学科」って何やねん!?←某女子大の新設学部。
 本屋で英語の問題集を買ったついでに、「大学受験案内」本を見てみた。今、大学はどうなっているのだろう。
 私が出た大学も専攻コースの多様化が進んでいて、「法曹」「公務」「国際」などのコース選択ができるうえ、「デイタイム」「フレックス」などと時間も選択できるようになっているみたい。
 それはそれで面白いかもしれない。
 それにしても泣けますなぁ・・・偏差値の暴落!同級生たちから時々聞いてはいたけれど。「知ってる?ウチの大学、だいぶ下がってるで」と。どれくらい下がっているのか、ついでだから見てみることにした。
 ・・・・・・泣けますなぁ。少なくとも5つは下がってる。偏差値なんて今ではどうでもいいことですけど。でもD志社やK学は今も変わらず60以上をキープしていた。やっぱりくやしい!!これでよいのか!? せめてろくじゅうだいはキープしようぜ、わが母校!!!
 「どんな人にも等しく教育を」という意味では偏差値の暴落はよいことかもしれない。でも・・・自分だけではなく、世の中全体がバカになってきているような気が・・・。

 なんか話がそれましたけど、、、
 脳みそ退化しないように、これからも努力していきたいと思う今日この頃です。
 10月、英検頑張ります。。。
「君は0点が多い」と言い放つ先生の姿が今も脳裏にやきついて離れませんが。

Dear My Friends

 やっぱり傘を持ってくるんだったなぁ。そう思いながら角を曲がった。
 すると、こちらに手を振る女性がひとり。彼女は高校時代の友達。吹奏楽部で青春をともにした仲間だ。
 この日は大阪府立K高校吹奏楽部9期生の「同期会」の日。
 卒業して16年。今でも年に2度ほど集まっては楽しい時間を過ごしている。

 夜6時から開宴のはずなのに、時間きっちりに来たのはさきほどの彼女と私だけ。冷房のよくきいた個室で皆の到着を待つ間、しばし歓談。
 私はテナーサックス、彼女はトランペットを吹いていた。彼女は今では二人の女の子のママ。16年経っても子供を二人産んでもちっとも変わらないその体型・・・。そんな彼女と話していると、いろんな意味で焦りが・・・。うぅぅ。
 6時をわずかに過ぎると男性二人がご到着。部長のS君ともうひとり。
 S君とは久しぶりの再会だけど、ココのBBSに時々遊びに来てくれていたので、そんなに久しぶりな感じはしない。ただ、「ヒゲボーズ」というハンドルを使っていたのでヒゲはやしてボーズなのかと思っていたらそうではなかった。しかし16年経っても消えぬ「部長としての威厳」とお肌の美しさに感動。
 BBS書き込みのお礼と奥様の近況を聞いてみた。奥様はロシア語が堪能で、たいそうな美人。
「北方領土に仕事で行った。途中までメールが使えたけれど、今は音信不通」だそうだ。
 それと気になるのは、S君と一緒に入ってきたもうひとり。こ、こんな人、ウチの部にいたっけ?思い出さなくては失礼だと一生懸命記憶の糸をたどるも、挫折。
「誰だっけ?」
 正直に尋ねると、軽音部のM君、ということだった。でも彼は1週間ほどうちの部に在籍していたそうだ。へぇ、そうやったんかぁ。
「なぁ、幹事はどうした?6時から始まるいうてんのに4人しか来んとは、とても社会人の集まりとは思えん」
 S君がぼやく。そのぼやきもなぜだか威厳が感じられるのだ。

   4時から合奏!

と、尻を叩かれたあの日々がついこのあいだのことのようだ。

 それからしばらくして続々と人が集まりだした。総勢14名。今回は9期生22人のうちの半数以上が集まった。
 いつも思う。どうしてこうも皆、変わらないのかと。もちろん皆それぞれ今は仕事を持ち家庭を持ち、環境はバラバラだけど、久しぶりに会ってもなんの違和感もない。
 灼けつくような真夏日にすっかりぬくもってしまった楽器を手に走り回った日々、雪の降る日は冷たくなってなかなか音の出ない楽器に一生懸命息を吹き込んだ。コンクールでは泣き、笑い、時にはいざこざもあり、放課後遅くまで輪になって話し合った。
 所詮、高校生の部活動。演奏会を開いても観客のことなどあまり頭になかった。いかに客を集めるか、どう儲けるかなどという泥臭い世界からは無縁のところにいられた私達。
 それでも真剣に「よい演奏」を追及し続けた。なんのためだろう。楽器で食っていたわけでもないのに。
 あれほど頑張れたのは・・・K高吹奏楽部の威信がかかっていたからだろう、と思う。「これが私達の音楽なのだ」と。そして「これが私たちなのだ」と。
 今思えば、私達は自分の心のよりどころである「K高吹奏楽部」というもの自体を守り、そしてそれを外の世界に認めさせたかったのだろうと思う。
 吹奏楽部は単なる暇つぶしのための部活動ではなく、「identity」そのものだった。そして私達はそれを守りたかったのだ、きっと。自分のために。
 自分のために「identity」を守ること。
 なんの疑いもなく、ただそれだけに情熱をかたむけらること。
 なんの疑いもなく、手をとりあい、突っ走れたこと。
 
 大人になってから気付いた。きっとみんなもそうだろう。自分のために「identity」を守ることの難しさを。
 制服を着ていた頃には何の疑いもなく軽々とやってきたこと。それは実は大人になってからではなかなかできないことなのだということを。
 あの頃、当たり前の日常だった「楽器を吹く毎日」が、実は素晴らしい奇跡の連続だったことを。
 だから16年経っても、私達はこうして集まることができるのだろう。
 
 世間にもまれ、大人になって、いろんなことを覚え、たくさんの人に出会った。
 私達は昔話はあまりしない。元気だったのか、今どうしてるのか、仕事はうまくいっているのか、お子ちゃんはいくつになったのか。
 それぞれ別の場所で、それぞれに生きている。

 私達はもう右手に楽器を持ってはいない。楽器を持たなくとも、奏でるべき音楽がなくとも、それはたいしたことではない。
 放課後の音楽室での合奏、コンクール舞台裏でのあの「泣きたくなるような」緊張感、指揮者のN君がタクトを振り上げた瞬間、舞台にこだます、「全員が息を吸う」音。自分達の奏でる音がホールの壁にしっかり反響していたこと、観客の拍手と笑顔。
 それらの記憶を言葉で語るのは難しい。でも心にはちゃんと焼きついている。
 自分達が守ってきたもの、自分の、自分達の、K高吹奏楽部の「identity」。

 そしてそれは色あせることなく、それぞれの心の中で輝きを失わずに存在し続ける。それは単なる思い出を超えたところにあるもののような気がする。
 今の生活も楽しい。今、一番大切なものはもちろん「今現在」。毎日楽器を吹いていたのは、もはや16年も前の遠い過去のこと。
 あの頃に戻りたい、というのではない。そういう日々を過ごせたこと、あの頃の記憶を今も持ち続けられること、そのことが本当にうれしい。

 ありがとう。
 この素晴らしい奇跡の記憶を、私に残してくれたみんなへ。

 *ヘヘ・・・照れるのぉ・・・Miyan、これでどや?いつも幹事ごくろうさまです。
  参照・miyanとのコラボ diaryのページをどうぞ。


ゴキブリとの格闘
 

 人類の永遠の敵ともいうべき、あの黒光りする物体・・・。しかし気の毒だとも思う。同じ生き物でも犬や猫はあんなにかわいいのに、ちょっと黒いからって、ヌルヌルしていそうだからってあそこまで忌み嫌われる動物もいない。

 しかし・・・同情の余地なし。

 今のところに引っ越す前に住んでいた家での出来事。
 よく晴れた春の日だった。ベランダにはあたたかな春の日ざしが届いていた。冬の間ベランダに置きっぱなしで手をかけなかったシクラメンの鉢。そうだ、久しぶりに太陽に当ててあげよう。そう思った私はベランダに出てシクラメンの鉢を持ち上げた。

дёжкяйюфчэдёжкяйюфчэ!!!!!

 あまりの出来事に声も出ず、寝ていたダーリンを起こしに行った。
 円形の鉢底の形そのままに、大小さまざまのゴキブリがビッシリと身を寄せ合っていたのだった。
「うぅぅぅぅぅぅぅ・・・・・・もぉ立ち直られへん、ショックや・・・・・・」
 ダーリンは寝床で眠そうにしていたが、私が泣きつくと起きてくれた。
「なんや、どないしたんや?」
「ベ、ベランダの・・・シクラメンの鉢の下にな・・・うぅぅぅぅぅ」
 ゴキブリ、と口に出すのもおぞましい。しかし言わなければわからない。早く報告してダーリンに退治してもらわなければ、私の手にはおえない。
「ゴ、ゴキブリがいっぱい・・・ビ、ビッシリ・・・大人も子供もおるみたい。色の濃いのと薄いのと入り乱れとったからな・・・」
 ゴキブリ、と口にした瞬間蘇る、鉢の下にビッシリ詰まったゴキブリの様・・・。許せない!いつからうちのベランダに住みついていたのだ?
「なんであんなとこにゴキブリがおるんや?ここ4階やのに!台所には一匹もおらんのになんでベランダにおるんやぁッ!」
「隣の家から来たんやろう。ホラ、ベランダに空き缶捨ててはるやろ、隣の家」
 隣の家はゴミ回収日まで、ベランダにゴミを貯めていた。そこからゴキが湧いたのだろうとダーリンは言う。
「なんでウチに逃げてくるんやぁッ!しかも寒いからってあんなところに潜んで卵産んで家庭を育んでいたとは絶対許さん!!!」
「そやなぁ、家賃もらわなあかんなァ」
 ダーリンは寝巻きのままベランダへ。鉢を持ち上げニヤリ、とこちらを向いた。
「袋と割り箸持ってきてくれ」
 ベランダで、ガラス越しにダーリンが微笑む。私は言われたとおりに袋と割り箸を持ち、ガラス戸を数センチ開けて手渡した。
「イヒヒヒヒ。ようけおるわ・・・でも半死にや、箸でつまんでも動かへん。よし終わった、終わったぞー、オイ、なんや開けてくれ、開けてくれよーっ!」
 いくら袋に閉じ込めているからといっても、ゴキブリが家の中に入ってくるのが許せない。私は思わずガラス戸のカギを閉めてしまったのだった。

 結婚してからは台所でゴキブリを見かけたことはないが、実家にはたくさんいた。私の母はゴキブリなど手馴れたモンだった。見つけるやいなや、
 バババババ
 と、ものすごい勢いでティッシュを連続引き出し。その手をそのままゴキの上に!
「捕まえたぞ」とひとこと吐いたあと、物体の包まれたティッシュを両端からジリジリとねじるのだ。

 うわー、ブチブチいってる・・・うわぁぁぁ、クサっ!!!

 これが自分の親だとは・・・信じたくない。どうしても信じたくない。
 そんな母でもゴキの反撃にあったことがある。私が中学生の頃だっただろうか。ティッシュ攻撃に失敗し、ゴキは冷蔵庫の上にあがってしまった。
「ちきしょう!逃げられた!!」
 母はたいそう悔しがり、棒で冷蔵庫を叩いたのだった。すると・・・あぁ、思い出したくもないッ!!!ゴ、ゴキブリが、、、あの黒い物体が、、、

 ぶうううぅぅぅん、と空を飛んだのだった・・・そして、そして、

 母の首に留まったのだった。

 一同絶叫、母はもちろん、そばで見ていた者も全員絶叫。

 つい先日も母は「ゴキブリを手で捕らえるなど、とんでもなかった」と娘時代を回想していた。私もいつか母のように「ゴキブリをティッシュでねじってブチブチ」やる日が来るのだろうか。
 あぁ・・・・・・。

 

占  い
 

 女の子は一般的に占いというものが好きなもんである。
 私も「女の子」の頃は占いが大好きで、占い師のもとに何度か通ったことがある。
 さて、占いといってもいろんな種類があるけれど、一番よく当たるのは四柱推命かなぁ。
 星占いはイマイチだと思う。私は射手座だけど、一般的な射手座の性格とされる「明るく活動的なあなたはいつでもクラスの人気者」というフレーズに違和感を感じながら子供時代を送った。私は地味で友達も少なく、間違ってもクラスの人気者ではあり得なかった。ただ「飽きっぽい」というところは当たっているかな。
 血液型はもっと違う。私はA型だけど、「真面目で几帳面なあなたは周囲への心配りも得意。あまり気を遣いすぎてストレスをためないようにしましょう」などの言葉にはひたすら閉口してしまう。アタシのどこが几帳面だってえの?
 相性診断も信用できない。射手座は同じ射手座、そしておひつじ座としし座との相性がいいとされてますが、どーなんだろ?身内でしし座がひとりいますが、私とは正反対の性格だし、会社には射手座人間が結構います。うちの会社は『バースデーホリデー』なるものがあり、誕生日は特別休暇が取れるのです。だから自分と同じ月の生まれの人は誰なのかばっちり把握できるのです。
 でも共通した性質なるものは把握できず。おとなしい人もいれば賑やかな人もいるし、イマイチよくわかりません。
 非常に仲良くしてもらってる友達の中で一番多い星座は私の場合は双子座。
 双子座の人は素敵です。知性とユーモアのバランスが絶妙でとにかく一緒にいて面白い。
 次に多いのが意外にも山羊座の人。射手座と山羊座は相性が悪いとされているのにもかかわらず。山羊座の人は一見派手だけど、びっくりするほど真面目な人が多い。彼女たちの計画性と堅実さは立派だと思う。でもオカタイ雰囲気など微塵もみせないところがすがすがしくて好き。
 身内にはうお座が多い。ダンナ&姑&私の母、みんなうお座だ。うお座の人は優しくておおらかな人が多いので、気軽にワガママが言える。安心して弱みを見せられる貴重な存在といえます。
 一方、血液型ではA型はO型と相性よしとされるみたいだけど、私にはO型の友達は・・・いたっけな???大学時代に何人かいたけど今は疎遠だなあ。私、B型の人って結構好きです。独特のあつかましさが。こちらは友達だと思っていないのに近寄ってくるので、その無邪気さにほだされ、いつのまにか友達になっている、という感じ。

 まあ、占いなんてアテにならないこと間違いない。私は結婚してからはめっきり占いには通わなくなりました(まあ占いとは基本的に恋愛のことを見てもらいに行くもんですもんね。今、真剣に通ってたらコワイわ)。
 一番信用できないのは「タロット」。あんなその場限りのカードの組み合わせで何がわかるものか!星座占いは生年月日がモトとなるので何らかの統計が取れそうなものだけど。
 ところが2年ほど前、タロット占い師のもとへ出かけた私。
 心斎橋によく当たる占い師がいる、と会社の女性陣の間で評判になっていた。とにかく当たるから、と彼女たちがしきりに言うので場所を教えてもらって出かけてみた。
 すごーーーーい列。占い師は平日の13時から商売を始めるらしいが、13時きっかりに行った私はバカでした。一番早い人は10時くらいから並ぶらしい。
「3時間待ちは覚悟して」と言われていたけど、私は、「んなわけないやろ、平日やし」とナメてかかっていたのです。

 ところでもうすっかり「恋愛沙汰」から遠ざかりきってしまった私が、なぜ占いになど行く必要があったのか。
 ズバリ、転職の相談!!!←ゴメンネェ、つまんなくて。
 私に夜勤ばっかりさせる会社の方針に嫌気がさしていたところに、集英社の新人賞の1次予選に通った私はすっかりその気になり、「こんなつまらん仕事からは足を洗って専業主婦になり、執筆活動にうちこむのだ」などという妄想に浸っていたのでした。
 長い待ち時間の間に読みかけの文庫本をバッグから取り出し、ヒマをつぶしていたところ、本の上に影が差した。顔を上げるとそこには。
 うちの会社にパートで来ているEさんが立っていたのだった。彼女も私と同じ夜勤チームのメンバーだった。夜勤明けにこんなところでご苦労さん、と余裕をかませばよいものを、私はうろたえてしまった。
「あっこさんも並んでるんですかぁ、ココ、当たるんですよ、で、何を見てもらいに?」
「えッ、マァ、私もいろいろ考えることがあるのよー。つらいわぁ、つらいわぁ」
 と思いきり不自然な対応をしてしまった。

 Eさんは独身だ。きっと彼女も大勢の未婚女性と同じく『恋愛運』を見てもらいに来たのだろう。わ、私はどう思われてるんだろう?結婚してラブラブダーリンがいるということは会社でも知れわたっているのに、どうして私のような人間がこんなところに何時間も並んでいるのだ?
 あー、きっとEさんは会社の人に言いふらすんだろうな、「あっこさんが占いに並んでいた!」って。
 も、もしかしてあっこさんトコって『実は仮面夫婦?』
 なんて思われやしないか・・・。しかし、
 あっこさんは会社を辞めようとしている?
 と、本心がバレるのもマズい。
 そしてこの占い師、やたらに声がデカイのだ。

「あー、アナタ、彼とは別れた方がいいわ!!この人ね、アナタの他にもう一人オンナがおるよ!アナタはいわゆる『都合のいい女』ってやつね!」
「留学したいの?できないと思うわぁ!アナタの都合で中止になるんじゃなくて身内の都合で中止になるよ!」
 などと、私の前に並ぶ女の子たちはコテンパにやられているのだ・・・。
 そして私の番が来た。並んでから3時間後のことだった。私はEさんがどこに並んでいるのか何度も振り返った。幸い、遠い。声は聞こえなさそうだ。よかった・・・。

 占い師は歌うような口調で「ハイ!今日は何のご相談?」
「仕事運をお願いします」
「ハイ、仕事運ですね。他には?」
「じゃあ金運」
「ハイハーイ!」
 占い師はカードをめくり始めた。

「仕事運って?転職したいの?アナタ、今の会社辞められないわ」
 ガーーーーン!!!
「してもいいけど、今以上の待遇で働ける会社はないと思うわ。いいじゃないのー、あなたはよく頑張ってるし、みんなに好かれて何も文句ないはずだけど?」
「でも・・・・・・」
「こんな仕事を私にさせるな、って感じでしょう。上司があなたに『申し訳ない、もう少しガマンしてくれ』って一生懸命頭を下げてる姿が出ているわ」
「はぁ・・・」
「辞めてもいいけど、会社が困ると思うわぁ」
「他にやりたいことがあるんですけど・・・」
「それってお金がかかることでしょ?」
 と、結局は会社を辞めてはダメということで結論づけられた。
「じゃあ次に金運いきましょうか!」
「・・・はい」
 今以上の発展は見出せないとの結論を得た私はすっかり意気消沈。言われるがままに金運へ。
「あなた、仕事よお頑張ってよお稼いでるねえ!女の人なのに感心!」
 ・・・まぁ、そりゃ夜勤ばっかりしてりゃあ夜勤手当だけで結構なモンだ。
「だけどよお出て行くね!稼いでも稼いでもちっとも貯まらん。ねえ、どうしてあなたってこんなにお金ないの?ダンナさん何をしてるの?よほど甲斐性なしなのね・・・」
「ええ・・・無職なんですよお」
「あぁ、だからなのかぁ、だからこんなにビンボーなのね・・・」
 そして、カードはしまわれ、でっかい水晶玉が出てきた。

「さぁ、これに両手を当ててください!さあ祈りましょう!お金が貯まりますように!ダンナが甲斐性なしなばっかりにこんな目にあって!チキショーチキショーコンチキショー!!」

 占い師は最初から最後まで歌うような口調を崩さなかった。私は水晶玉に手を当てながらひそかにうなだれた。
 アタシ、転職の相談に来たんだけどなあ。。。

 この占い師はある雑誌に大きく載っていたこともある。その後も人気はとどまるところを知らず、現在ではメールで予約しなくては見てもらえないそうだ・・・。
 でももーいーや。別の占い師探そう。。。誰かいい人知りませんか?

My mothers(Vol.2&3)


 ダーリンの母は48歳だ。私との年齢差は13。どう考えても親子の歳ではない。
 なので「親」というよりも「姉」のような存在だ。

 彼女は高校時代に剣道部に入っていて、部活の顧問をしていた同校の教師と恋愛結婚。高校卒業と同時に結婚した彼女は翌年にかわいい男の子を出産。続いて2人の子供を産み、大学に行きたいという夢も捨て、子育て一本の20代を送った。
 ダーリンが大学に入学すると彼女は離婚。新しい人生を歩み始めた。仕事をし、あちこちに旅行に行き、大学にも通いはじめた。子供たちも手が離れたことだし、ちょっと遅れてしまったが青春を謳歌しようという感じか・・・・・・。
 青春時代を全て捧げた我が子のひとり、長男はなかなか成績も優秀で、将来弁護士になりたいと言い出した。弁護士か!それはいい!自分の息子が弁護士に!それはいい!
 と、思っていたのに、大学生活も後半になってきた頃、息子は言った。
 カノジョができた♪と。聞けば息子より5つも歳が上だという。
 だ、だまされている!
 田舎育ちの息子が都会に出て行って、年上のオンナにひっかかった!!と思った、と言葉を濁しつつ言っていたことを私は覚えている。

 ダーリンは学生時代、妹とともに西宮(兵庫県)に住んでいた。私はよくそこに遊びに行っていたが、ある日母がやってきた。
 母は宅配ピザを注文し、私とダーリンと母は3人でピザを囲んだ。ガーリックのたくさんのったピザだった。おいしそうなのに私はなかなか手が出せなかった。彼氏の母と初めて会ったのにパクパク食えるわけがない。
「おい、ひとりでバクバク食うな。あっこにゃんにも分けてやれよっ」
と、ダーリンは言ってくれたが、
「自分で取らないモンが悪い」
と、冷たく言い放たれ、私はますます縮こまってしまった。

 結婚後。
 新居にやってきた母は部屋という部屋に全て入り込み、押入れもクローゼットも開けまくった。
「ふーん、きれいにしてるやん」
 きれいにするのにどれだけの時間と労力がいったか・・・・・・。整理箱を買い込み、服もがらくたも完璧に整理整頓。押入れの中もチェックされるということを充分に予測していたからね。
 で、冷蔵庫の中もチェックが入った。
「ま、これくらいの方が冷気がよく回っていいわな」
 がらんとした冷蔵庫を見て母は言った。

 結婚後しばらくしてダーリンの実家に里帰り。父母は離婚して別々の家(とは言っても車で5分ほどの超近距離)に住んでいるので私たちは最初に父の家に帰った。すると母から電話が。
「なんでそっちばっかり行くの!?アンタら米や野菜やら送ってあげてるのにこっちに顔を見せんとはどういうこと!?嫁がもっと気を利かさなあかんやろ!」
と、こっぴどく叱られ平謝り。
 そしてまたある日には。
 我が家にダーリンの友達が遊びに来、深夜にもかかわらず彼らは車で出かけていった。そこへ母から電話が。
「あ、今さっき友達が来て、一緒に出かけていきました」
と正直に言った私がバカだった。
「何やて!ケン(ダーリンのこと)は弁護士になるって言うてんのやから、遊ばしとったらあかんやないの!自分のダンナもきちんと管理できんでどーすんの!!ったく、最初からそんなふうやったら困るわ!」
 と、またもやこっぴどく叱られた。
 とうとう私はダーリンにぼやいた。
「なんでアンタが友達と遊びにいくのに私が叱られなあかんの?」
 ダーリンは、
「叱ってるんとちゃう」
「な、なんでやっ!『きちんと管理もでけへん』って言われたんやでッ」
「あっこにゃんのことが好きやから、ああやって遠慮なく物を言うんや」
と、ダーリンはへらへら笑ってちっとも相手にしてくれなかった。

 そしてある年の夏。私はダーリンと利尻島に出かける計画をした。利尻島にある『利尻岳』に登りたかったのだ。それを聞きつけた母は、
「私も行く!」
「なんでオマエがついてくるねん!」
とダーリンは怒っていたけれど、結局一緒に行くことになった。
「おかあさんて、山が趣味やったん?」
「いいや、聞いたことない」
 私たち3人は関空から飛行機に乗り、利尻島へ向かった。私は窓際に座っていたけれど、
「あっこさんはこんな景色珍しないやろ?席変わって」
と言われ、仕方なく席を交代。関空で働いているといっても飛行機に乗っているわけではない。空から自分の職場を見るという機会はめったにないので私だって窓際に座りたかったのに・・・・・・。
「ちょっと静かにせえよ、ホンマようしゃべるなあ」
 ダーリンが閉口するほど母はよくしゃべる。ダーリンと知り合ったばかりの頃、私はダーリンに対して『ホンマによくしゃべる男・・・・・・』と思っていたけれど、上には上がいたのだ。この親にしてこの子あり、とはこのことだ、と思う。とにかく「しゃべってないとダメ」らしい。でもこういう人って好きなんだなあ。私があまりしゃべらないタイプなので、たくさん話してくれる人だと気がラクなのだ。うんうん、そうですねえ、ああ、そうなんですかぁとあいづちを打ってればいいんですもん。それに母の話は面白い。大学生活の話、仕事の話、山の話、旅行の話、剣道の話と話題も豊富でかなり博識だし、何よりもいつも明るく前向きなところがとても素敵だと思う。魅力的だしまだ若いのだから恋愛もしてほしい。
「いい人いないんですかぁ?」
と、無遠慮に聞いてみたこともあるけれど、「全然!」とかわされた。でもどこかの山頂に登ったときに嬉しそうに電話してた相手は誰だったんだろう。。。

 そして私たちは利尻岳山頂を目指した。途中、中高年のツアーと出くわして前に進めないので列から離れて順番待ちをしていたらダーリンがつぶやいた。
「俺らもああいう歳になったらステッキ(足に負担がかからないように使う、スキーのストックみたいなもの)を持たなあかんなぁ」
 私は喜び勇んで母のもとへ走った。
「今ね、ケンちゃんが『俺らもああいう歳になったらステッキ買わなあかんなあて言うてくれました。歳とっても私と一緒に登ってくれるんやと思って嬉しかったです♪」
「ふーん」て感じ。
 で、山頂にたどりつき、私たちは写真を撮った。母のことをおかあさん、と呼ぶ私にツアー客のおばちゃんたちが驚いて声をかけてきた。
「どっちがおかあさんなの?!」と・・・・・・。母は歳も若いが見た目はもっと若い。なんとも複雑だ。。。

 下山後、民宿にて。
「なぁ、なんでケンみたいなブサイクと結婚したん?こんなブサイク、横に連れて歩くの恥ずかしないの?」
「ケンちゃんは私の理想にピッタリなんですぅ」
 この時からか。ダーリンの身内関係の人々はダーリンを『ブサイク』とは言わなくなった。というのも身内内で、『これからはケンのことブサイクって言うたらあかん。あっこさんがかわいそうやから』という話になったらしいのだ。めでたし。

 そして今。
 私と母はダーリンほったらかしで山に登っている。大山、霧島岳、阿蘇山、八ヶ岳、北アルプス。
 何がきっかけでいつからこんな関係になったのかよくわからない。母が何がきっかけで山を始めたのかすらわからない。しかし時々電話をしてきては、
「いいツアーを見つけた。今度の休みはいつ?」
と聞かれる。
「え?ケン?留守番させときゃいーのよ」
 ええっ!『ケンの管理』はどうなった?ま、いいか・・・・・・。
 ふたりで登るときもあれば、私の友達との山行に誘うこともある。母は私の友達の中に入っても全然違和感がない。息も切らさず話題を提供してくれるので楽しい山になる。
「あんなおかあさんがいて、あっこちゃんはいいなぁ」
と友達にうらやましがられることしきり。そうだろう、うらやましいだろう!エヘン!
 山ネタまだまだ続く。
 阿蘇にふたりで登ったときのこと。
「あのー、モデルになってくれませんか?」
と声をかけられた。スポーツ新聞社の記者だった。今、登山は中高年の間で大変なブームとなっており、どこの山へ行っても年寄りばかりで若い人が少ない。モデルになってくれ、とどこかの出版社や新聞社に声をかけられたという話は友達からもよく聞くので「やっと私にもまわってきたか!」と二つ返事でOK。壮大な阿蘇の外輪をバックに私と母は写真を撮られた。
「お、おい、あんまり仲良くしてくれるなよ」
と、ダーリンはその話を聞いて慌てた。全国紙のスポーツ新聞になど載ったら父に見られるかもしれない、と言うのだった(今でも母と私が仲良く山に出かけているということはダーリンの父には内緒にしてある)。
 ダーリンの心配もむなしく、数日後私たちは実名入り&ほとんど一面割きのでかい記事にされた。でも幸い父には知られることはなかった。ホッ。
 今でもその記事は大切に保管していますので、ご覧になりたい方はお見せしますよ♪

 てなわけで、嫁姑関係は至極円満です。
 至らない嫁ですが、これからもよろしくお願いします。仲良くしてくださって、おかあさんありがとう。

 長くなったので次はさらっと。
 もうひとり「母」の存在が。今はまだ『母』ではないが、近い将来『母』になるかもしれない人がいる。
 ダーリンの父の恋人。歳はいくつか知らないけど、姑より更に若い。父と彼女は正式な結婚はまだだが、実家に遊びに行くと彼女は、
「ただいまー!」
 と言いながら仕事から帰ってきて、夜になると父の部屋で寝る。
「なぁ、私は彼女のことをなんて呼んだらいいんかなぁ」
 実家からの帰りの電車でダーリンに相談。数日後、
「りっちゃん、て呼んだらいいてりっちゃんが言ってた」
 ということだったのでそうすることにした。
 彼女も父母と同じく剣道好きな人。私は母の剣道は見たことはないがりっちゃんの剣道は見たことがある。
「どうや、よう動くやろ。あの歳になってもあんだけ走って打てるってのは立派や」
とダーリンはしきりに褒めていたが・・・・・・。

 りっちゃんの介護は誰がする?そりゃ私だろう。
 しかし、溌剌と竹刀を振り回す彼女の雄姿を見ると、
「この人の方が長生きするかも・・・・・・」って感じだ。
 介護しつつされつつ、彼女とは仲良くしていかなきゃならん。
と、そんなことを考える今日この頃です。

My mothers(Vol.1)


 もうすぐ母の日。というわけで私の「母たち」について書くことにしよう。
 どうして母たちなのか。それは私が既婚者だからであります。ダンナの母も「お母さん」でしょ?
 まずは第1弾として私の実の母について。

 彼女は山陰地方の生まれである。生まれて間もない頃、日本国は真珠湾攻撃などという今の時代では到底考えられないことをアメリカに対してやってのけたのだった。
 当然、苦労は絶えなかったようだ。田舎だったため戦禍は免れたものの、両親は早々に亡くなり、母は養母にひきとられることになった。そして高校卒業後に就職のために養母とともに大阪に出てきた。
 子供の頃の母は文学少女だったらしい。独身時代は本格的に「芥川賞」を目指し、同人会にも所属していた。その会の中には難波利三がいて、彼はのちに直木賞を受賞。実は母と難波氏は友達なのだ。
 そういうアカデミックな部分を持っていた母だったが、小学生の頃は運動会ではいつも1等賞を取るなど、運動神経もなかなかで、中学時代にはバレーボール部に入って活躍していたそうだ。今では太って見る影もないが。
 母の就職先は大阪市内の一流ホテル。そこでレストランのウエイトレスをやっていた。父と出会って結婚してからは専業主婦になり、早々に私を産んで子育てに追われることとなったが、母は時々懐かしそうに短かった社会人時代の話を私にしてくれた。テレビドラマを見ていると「あ、この人、会ったことあるんやで」ときれいな女優さんのことを話してくれたりした。
 母の勤めていたホテルには著名人も多々訪れていたらしい。女優ばかりではなく、現在某都知事のI原S太郎氏や皇后美智子様など。都知事の方は当時作家をしていたらしく、朝早くからレストランに朝食を食べに来ていたらしいが、最初にジュースを持っていくと「なんで最初にジュースなんか持ってくるんだ!早くメシ持ってこい!」と母を怒鳴りつけたそうだ。仕方なくメシを持っていってもひたすら原稿に何かを書いていてありがとうの一言もなく、なんて常識のない、余裕のない人だろうかと母はあきれたらしい。
 そして皇后美智子様はとっても凛としていて、目がたいそう美しかったそうだ。「ホンマ、なんてキレイな人なんやろう」とその瞳に吸い込まれそうになった、と。
 その他、外国人の客が「ケチャップ」と言うのがどうしても聞き取れず困った話や、独身時代はホテルの友達といろんなところに遊びに行った話や、夢中になっていた映画や本の話などをまだ子供の私に向かってしてくれた。それはどんな子守唄や童話よりも面白かった。
「なんで仕事辞めたん?」
と、私は子供心に疑問に思った。社会人時代を語る母はそれほどまでに眩しく見えたのだった。
「昔は結婚したら女は家庭に入る、ってのが当たり前やったから」
 と、母は仕事を辞めたことを後悔しているふうではなかった。なので私も大人になったら母のように年頃になったら結婚して子供をたくさん産んで専業主婦になろうと思っていた。
 子供の頃、「あっこちゃんは将来何になりたいの?」と親戚に聞かれたりすると「普通の人」と答えていた。普通の人=専業主婦のことである(ただし幼稚園などの外の社会ではそう言うとなんとなく格好がつかないので「看護婦さん」と言うことにしていた)。
 しかし、結婚して3人の子供を抱えつつ家にこもっているという生活は本当のところ、母には合っていなかったとみえる。
 母は私が小学生の頃、病気がちだった。夜中に救急車で運ばれ、私が目覚めた頃には母は隣にいなかった、ということがあった。その当時の母はいつもイライラしているか疲れた顔をして寝ているかだったので、私は作文に「お母さんの病気が早く治ればいいなあとおもいます」などと書き、「うん、うん、そうやなぁ、私が元気じゃないとあんたらがかわいそうやよなあ」と母に抱きしめられた記憶がある。一方で「お母さんは育児に疲れた」などと私に面とむかって言うこともあったので、そういうことも考慮すると母はかなりまいっていたと思う。
 それではいけない、と思ったのか、母は私が小学校も高学年になると急にPTA関係の活動に熱心になりはじめた。そしてついには「会社勤め」を始め、再び社会に復帰したのだった。おかげで私は学校から帰ると夕食の支度をしなければならず、学校から帰ると台所で鍋をゆすったりしていたが、それでも母が生き生きと元気に外へ出て行くことが嬉しかった。
 きれいな服を着て、お化粧をして、電車に乗って都会へ出ていく母の姿。経済的に潤ってくると食卓も華やかになるし、母の仕事が早く終わった日には私は母の職場の近くまで出て行き、映画を見たり食事をしたりした。私は家にいる母よりそんな母の方が好きだった。
 と、私がこんなふうに思うのも幼少時代に家で真面目に専業主婦をしていてくれたこと、私がある程度親離れをした年齢になっていたからかもしれないが。

 母は実はかなりの人格者だと思う。それは今でも尊敬している。
 母の周りには自然と悩める人が集まってくるような気がするのだ。
 子供の頃、私の家の近くには子供のための施設があった。事情があって親と一緒に暮らせない子供がたくさんいた。そういう子供は学校でいじめられたり、施設で問題を起こしたりして逃げ出したりすることがあった。
 ある日、うちの車庫に男の子がひそんでいたらしい。母はどうしたの、と声をかけ、家に招き入れてお菓子をご馳走し、日がな一日その子と話をしたり、ウチの前で犬と遊んでいるいじめられっ子に話しかけたりしていた。
 子供の私としてはそういう態度はうっとうしかった。いじめられっ子や施設の不良が自分の家にあがりこんでいることがみっともなくていやだった。
「なんでそんなこと言うの?話をしたらすごくいい子やで。なんであんないい子がいじめられてるんかお母さんにはわからんわ」
 と、母はのんきな口調で言うのだった。

 私は子供時代、本当に主義主張のない子供で、人見知りも激しかったので学校生活にもあまり馴染めず、友達も少なかった。父や母がせっかく授業参観に来てくれても手を上げて発言することなどなく、運動会ではいつもビリ。自分の子供がこんなだったらさぞかし退屈だろうと思う。
 そんな私が初めて自分の主張をしたのが高校進学の時だった。
 私の生まれ育った市では高校進学の際に「地元集中」という方式が取り入れられていて、高校間の学力格差をなくすために「遠くの進学校」には通わず、地元の高校に通いましょう、という考えが教師の間で徹底されていた。
 私は地元の高校に行きたくはなかった。というのも私の地元高校は2年前にできたばかりという新設校で、学力も低く治安も悪く、私にとってなんの魅力もない「暗くて寂しい高校」だったからだった。とにかく地元から出たかった。内気で友達の少ない私は「私のことを知っている人の少ない」場所で、新たな自分を構築すべく頑張ってみたかったのだ。
 しかし担任と早々から波風を立てるのは賢明ではないと思い、私は中3の冬まで担任に「地元の高校に行きます」と言っていた。それを冬になって突然ひるがえしたのだ。とは言っても「ひるがえした」のではなく最初から地元の高校には行くつもりはなかったので「やっと本心を見せた」と言った方が正しい。
 当然担任は激怒。「騙していたのか!」と。「裏切り者」「あんたみたいに外の世界に馴染めない子が地元以外のところでやっていけるわけない」と担任からはさんざんこきおろされ、母は何度も学校に呼び出され、しまいには校長にまで呼ばれる始末。父は面倒くさがって「高校なんかどこでもええやないか!」と言っていたが、母は最後まで私の味方をしてくれた。
 そうして私は念願の「外の高校」に進学し、今でも濃い付き合いをしてくれる友達を得、部活で青春を謳歌することができた。
 私が高校に入ると母は都会で働くのを辞め、家の近所でパートを始めた。部活で忙しい私はもう台所で鍋をゆすることもなくなり、母の負担は大きかったと思う。それでも母は私が高校の部活(吹奏楽部)で楽しそうにしているのを喜んでくれ、演奏会を心待ちにしてくれた。
「子供が楽しいと親も楽しいねー」などと言いながら。私と一緒になって「青春疑似体験」をしていたもよう。
 私が大学受験に失敗した時も就職試験に失敗した時もいつも励ましてくれたのは母だった。私は母の力に乗り、快適な学生時代を過ごすことができた。
 
 しかしいつでも味方だったわけではない。大学時代に付き合っていた彼氏を家に連れて行くと母は最初は喜んでくれたが、その彼氏が私と「結婚したい」意志を表明したときから一転したのだった。
 急に「あんた、もっともっと勉強しなさい」と言い出した。子供の頃、私は親から「勉強しろ」などとは言われた記憶はなかったので驚いた。
 その彼氏という人は地方出身者で、結婚するとなると当然私も彼の故郷に帰らなければならないという状況。
「アンタ、ほんまにそれでええんか?せっかく大学まで出たのに、田舎で仕事も見つからず専業主婦になるんか?」に始まり、「彼はいい人には違いないけど、覇気がない。あんなおとなしい人はアンタには合わない」、「彼は顔はきれいだけど背が低いからみっともない」などと言い出した。私は母と大喧嘩をし、泣かせたこともあった。
 が、今思えば母の目に狂いはなかったと思う。いい就職を見つけて社会を知ってからでないとオトコを見る目もできない。まだ若いのだからいろんなことを経験しなさい、見る目を養いなさい、ということの裏返しで私に「勉強しろ」と言ったのだろう。
 母に言われなくともその彼とは破綻し、私は仕事に邁進し、世界一素晴らしいダーリンと出会うこととなった。ダーリンは元カレとは全く違うタイプの体育会系で、全然おとなしくもない。誰にでも馴れ馴れしいウチのダーリンは母に対しても馴れ馴れしい。「ママさぁん♪」と母のことを呼び、「なぁ、ママさん、いったい娘にどんなしつけをしてきたの?」などと平気で言い放つ。それでも「アンタ、ホンマにいい人を見つけたねぇ」と目を細めているのである。

 母はホテルで働いていた経験があるほどの、インターナショナル感覚を持ち合わせているにもかかわらず、海外旅行に行ったこともなかった。パートで働いて得たお金も全て生活費にまわり、今はわびしい年金生活者だ。
 こここそ「働くオンナ」の力量の見せどころ!何も自分の贅沢のためにだけ働いているわけではないのだ!!
 私は母を海外に誘った。自分のおこづかいだけ持ってきてくれればいい、と。
 母と行った上海は楽しかった。SARSが流行する数ヶ月前だったのでまさにグッドタイミングだった。蟹が大好物な母に上海蟹をご馳走し、最終日には「上海一の高層ビル」にあるレストランで「フカヒレと燕の巣とどっちがいい?」と聞くと「燕の巣」と母は言ったので私は清水の舞台から飛び降りた。
 旅行から帰って写真を現像し、アルバムに貼り付けたあと母に渡した。
「なんか、わたし、生き生きしてるなぁ!」
 と、母は上海での自分の写真を見て喜んでいた。
 燕の巣がおいしかった、と言われるよりもこの言葉の方が嬉しかった、娘としてはネ。
 でもあんなこと、もう二度とできないよー。今度は国内旅行にでも誘おうか。
 
 あんなに「勉強しろ、社会に出ろ」と言っていた母だったが、今では「仕事をやめなさい」と言う。「女は子供を持ってこそ一人前」と私をカタワ扱いしたりする。
 しかし経験上母の目は確かだ・・・・・・。ここは黙って従った方がカシコイような気が・・・・・・。
 上海よりも蟹よりも燕の巣よりも、やはり「孫の顔」なのね。アタシって無力だわーーーん。

 最後になりましたが、おかあさんありがとう。
 なんだかとってつけたような締めくくりだな。

気になるサボテン


 私の家から会社まではドアツードアで2時間かかる。電車に乗ってる時間は1時間以上。帰りは寝るか本を読んだりするけど、行きはCDを聴きながらぼんやりと車窓の風景を楽しんでいる。
 途中、「和泉府中」という駅がある。線路の向こうは広い駐車場になっていて、そこにはものすごく大きなサボテンがあった。
 それはそれは大きなサボテンだった。そんなに太くはないけど、とにかくものすごく背が高い。そばまで寄って見たことはなかったけれど電車の中から目測で5メートルくらい?

 私はサボテンが怖い。あんなものを自分の家の中や庭に飾る人の気がしれない。あのとげとげ・・・怖いじゃないか!!
 見たくないのに毎日目に入る巨大サボテン。電車が止まるたび私の真横に「いらっしゃい」とばかりにそのサボテンは位置するのだから。

 サボテンの何が怖いかというと前述のとおり「トゲ」がすごい、という他にまだ理由はある。
 ヤツは真夏でも真冬でもずーっと「緑色」をしている。それが怖い。植物というものは春に新芽が出て花を咲かせ、夏は青々と葉を茂らせ、秋には紅葉し、そして冬には枯れて茶色くなる。それがおおかたの植物のありようというものだ。
 ところが・・・ヤツは暑かろうが寒かろうが何の変化もなくそこに「じーーーっ」とたたずんでいる。雨の日も風の日も揺らぎもせず同じ呈だ。ヤツは生きているのか死んでいるのかすらわからないほど、常に「不動」なのだった。

 ところがある日、ヤツが突然大輪の花を咲かせた。ピンク色の毒々しい花を。昨日までは確かにいつもと同じ「直立不動」であったのに!あのとき私がどんなに驚いたか、普通の人にはなかなか想像できないだろう。まさに「衝撃」の一瞬だった。
 全く突然にあんな大きな花を咲かせるヤツがますます怖くなった。
 が、怖いけど気になる。まさに「怖いものみたさ」で私は毎朝サボテンの様子をチェックし続け、それがひそかな「楽しみ」にさえなり、やがてそれは「愛着」へと変わっていった。
 日照りが続く日には「あぁこの日照り・・・他の草花が枯れていく中でもヤツは相変わらず青々として・・・ムリしてるんじゃなかろうか」と案じ、寒い冬には「あぁこの寒さ・・・中の水分が凍ってやしないだろうか」と案じた。
 そして強風の吹き荒れる日には「あぁこの風・・・折れやしないだろうか」と案じながら、風に吹かれて『ボキリ』と折れたサボテンが自分の上に倒れこんでくる姿を想像し、ひとり恐怖におののいたりした。

 それは私のひそやかな楽しみだった。

 ヤツについての情報がほしくなった私はある人に聞いてみた。彼女は同じ会社の人で、ヤツのそびえたっている「和泉府中」駅から通勤していて、子供の頃からそこに住んでいる地元民だ。いったいいつからヤツはあそこに存在しているのかどうしても知りたくなった。
「なぁなぁ、駅の駐車場に生えてるサボテンのことなんやけど」
 彼女の反応は意外なものだった。
「サボテン?知らないです」
「えっ!ホームから見えるやん。すっごいでかいの!」
「んんん・・・そういえばあったかもしれません。あの駐車場には得体の知れないいろんな植物が生えてるんですよねー」
 と、ハナシはそこで終わってしまい、なんとも気まずい感じだった。

 恐怖から愛情へと変化した私の心をよそに、ヤツは逝ってしまった。
 ある日突然姿を消してしまったのだ。折れたのか、切られたのか、別の場所に植え替えられたのか・・・消息はわかるはずもない。
 残念だ。
 突然に花を咲かせたときのように、突然帰ってくるのではないか。私はその期待をいまだ捨てずに駐車場をチェックしている。
 しかしヤツはまだ帰ってきていないのである。

名古屋コーチンの悲劇

 ある日ふとチキンカレーが食べたくなった。
「なぁ、土佐ジローでカレー作りたいんやけど。カレー粉も普通の固形ルーじゃなく、いろんなスパイスが袋に入って、凝ってるやつで」
「おぉ!それはええなぁ」
 ダーリンも大喜び。
 土佐ジローとは高知県のブランド鶏である。なぜこの鶏に興味を持ったかというと、ウチのネコ(寅次郎・とらじろう)と名前が酷似しているから。それだけ。
 しかし土佐ジローは高価なのだ。100グラム800円。
「は、ハッピャクエン!?」
 ダーリンの同意はやはり得られず。
「名古屋コーチンにしなさい。昨日セールしとったさかいに」
 名古屋コーチンがセールに?妻より夫の方がスーパーの安売りに詳しいとは!

 翌日スーパーに出向くと、名古屋コーチンが確かに安売りになっていた。100グラム450円のところを400円。大した値引きでもないが、土佐ジローの半額だ。
「200グラムください」
と、店員に言う。しかしこれは切り売りではなく、枚数売りなのであった。
「1枚280グラムになりますけど」
と言われ、ちょっと顔を赤らめつつ、それで結構です、と言う。慣れないことをすると緊張するものである。
 そしてカレー粉へ。さんざん迷った挙句、稲のもみがらみたいなものや唐辛子、赤白緑の粉がセットになった本格カレースパイスを購入。野菜はじゃがいも・たまねぎ・にんじん・まいたけ。
 よおし、がんばるぞ!!!

 野菜の皮をむき、名古屋コーチンをカット。私は鶏の皮が嫌いなのでいつもべりべりはがして捨てるが(ダーリンにはひどく怒られるけれど)、今夜は高級鶏なため、皮もいただくことにした。
 準備完了!
 棚から大鍋を取り出し、油を入れて熱する。この鍋はよおく熱さないとコゲツクのだ。油から煙が立つまでじっくり待つ。

 ボオオッ!
 なぜか火がついた。慣れないことをするからいけない。とりあえず息で消そうとしてみた。
 い、いかん、ますます火は燃えさかる。
 こういう時はどうすればよいのだっけ?水を入れちゃあなんないことは知っている。濡れたタオルをかぶせればよいのだっけ?慌ててタオルを水に濡らしかぶせようと・・・
 しかし火は激しく燃えさかっており、タオルをも燃やしてしまう勢いなのだ。
 私の頭の中はマンション全焼の図でいっぱいに。か、火災保険ってどの程度まで効くんだっけ???
 思い余って蓋をした。酸素がなけりゃあ火だって燃え続けることはできまい。

 あたりに静寂が・・・。
 ダーリンに電話する。しかし留守電やーーーッ。こんな時に限って!めげずにもう一度ダイヤル。つながった!!
「今な、鍋を温めてたらな、も、燃えたんやーーッ」
「で、どうしたんや?」
「蓋した」
「それでええんや。酸欠で消えてるわ。あ、でも中の空気が冷えたら鍋が開かんくなるかもしれんから、開けてみ」
「あ、開けるんか・・・・・・?」
「大丈夫やから」
「ボカーン!言わへんかっ???」
「大丈夫、大丈夫」
 ダーリンは幾分冷ややかな様子。
 恐る恐る蓋を開ける。白い煙がもうもうと。
「あ、あ・・・煙が出てる・・・けど火は消えてるわ。あーよかった。で、アンタ今何してんの?」
「仕事」
「あーゴメンゴメン。じゃあな!」

 料理再開。
 今度はテフロン加工の中華鍋を取り出した。これなら熱さなくても焦げつかない。初めからこうすればよかったのだ。
 油を少し注ぎ、カレースパイスに同封されていたもみがらみたいなものと唐辛子を炒める。そうして名古屋コーチン、たまねぎ、にんじんを。
 うーん、いい色ね!名古屋コーチン。やっぱり高い鶏は見た目もおいしそう。
 きつね色になったところで先ほどの大鍋復活。炒めたものを鍋に移して水を入れ、じゃがいもを放り込む。
 ことことこと・・・。辺りにカレーのいい匂いが。そうして赤白緑のスパイスも投入。
 ますますいい香り。そこへダーリンが電話をよこしてきた。
「どうやぁ?おいしいのできそうかぁ?」
「うん!ええ感じやで」
「名古屋コーチンのカレーやな!」
「そーや!」
 ダーリンは嬉々として「今から帰るからな!」と言いつつ電話を切った。

 もーすぐダーリンが帰ってくる!結婚して何年経ってもこの瞬間が私にとって至福のときなのだ。
 黄色く煮立ったカレーは愛のしるし♪ご飯も炊き上がったし我が家は幸福な夕餉の香りに包まれていた。
 悪いけどちょいといただこう。スプーンでルーをすくい、口に運ぶ。

 ん?

 辛い、けど・・・なんとも間の抜けた後味が・・・。
 水の入れすぎか・・・?でも一応辛いことは辛い。あとから来るこの水臭さはなんなのだ?
 塩を入れてみる。変化なし。醤油を入れるべきか、それともソースか豆板醤か?しかし下手にあれこれ入れると余計におかしくなるかも。
 そういえば見た目もなんだか・・・さらさらしてる。タイカレーなどはさらさらしてるもんだが、今日買ったのはインドカレーと書いてあった。やはり失敗か、このさらさら感は。
 水溶き片栗粉で必死で固める。明らかに失敗のこのカレー。なんとか見た目だけでも取り繕うべし。味のことはダーリンに相談しよう。彼ならなんとかしてくれるはず。
「大阪駅に着いたぞー♪ご飯炊くの忘れてへんかぁ?」
「忘れてへん」
「おいしいカレーでけたかぁぁぁ♪♪♪」
「うん」
「じゃあ急いで帰るわなー♪♪♪」
「うん!早く帰ってなぁ♪」
 ダーリンのあまりに嬉しげな様子に私はカレーの失敗のことなどすっかり忘れてしまった。
 ああ、私は幸せ者。夕食にカレーをこさえたくらいで、ここまで喜んでくれる亭主がいるだろうか?
 
「ただいまー」
 ダーリンが帰ってきた。水臭いのに匂いだけはカレー。そんな香りで包まれた台所にダーリンは大感激。
「ん、うまそうや。早速食べようか」
 鍋の蓋を開けつつダーリンが言う。皿にご飯をよそい、カレーをかける。そしてテーブルへ。ダーリンは服を着替えてテーブルの前にちょこんと座り、高級カレーの登場を今か今かと待っている。とうとう私は白状した。
「実はな、あんまりおいしくないんや・・・」
 がっくりと肩を落とすダーリン。しかしある程度覚悟は出来ていたような感じも。
 カレーを口に入れ、さらにガッカリするダーリン。

「なんでや?なんでこんなことになったんや?」
 この言葉、実は今回が初めてではない。
 まるで家が災害にでも遭い、全てが失われたような口調。
 なんで、なんでこんなことに・・・?
「このカレー何時間かけて作った?」
「1時間くらいかな・・・」
「あぁ・・・1時間でうまいカレーができると思てんのか?」
「スパイスの容器には『30分でおいしいカレーの出来上がり!』って書いてた」
「俺はカレーを作るときは3時間はかけるよ」
「えええっ!3時間も!?せっかくの休日に料理に3時間も!?」
「料理は愛情や!」
 愛情不足なのか、私は。うなだれる私にダーリンは語り始めた。

「名古屋コーチンさんに申し訳ないと思わんか?せっかく死んでもらってウチの鍋に入ってくだすったのに。こんな風に適当に料理されて気の毒や。コーチンさんに失礼よ!」
 この言葉、実は今回が初めてではない。コーチンさんは初めてだが、魚料理を食している時、言われたことがある。「おさかなさんに失礼だ」と。
 私は魚の食べ方が上手くない。実家にいるときも母によく叱られたものだ。
「まだまだ身が残ってるやないの!そんな食べ方したらダンナさんのお母さんに叱られるで!」
「魚の食べ方くらいでとやかく言うような人間の息子になんて嫁がん!」
と反論していたものだったが、結婚してからダーリンに「おさかなさんがかわいそうや。せっかく命を犠牲にしてウチの食卓に乗ってくだすっているのに」と言われたのは身にしみた。私が動物モノに弱いことをよく心得たうえでの発言か。
 それからというもの私はよほどのことがない限り、魚は骨までいただくことにしている。

 哀れな名古屋コーチンさん・・・。
 とある鶏小屋で友達と幸せに暮らしていたところをとらえられ、ある日突然恐怖のどん底に突き落とされた。あぁ短きわが生涯よ、あぁ友よ。。。
 そうして切り刻まれてスーパーへ。噂によれば、共に過ごしたあの友は高級料亭に卸されたという。そうして腕のいいシェフに料理され、たくさんの人に喜ばれ、そして原価の数倍もの利益を上げることができたらしい。
 それに比べてオレはどうだ?あの恐怖はなんだったのだ?スーパーで安売りされた挙句にこんなシロウト主婦に適当に料理され、マズイマズイと言われつつ食われてしまうのか・・・納得できない!!!

 名古屋コーチンの哀しい叫び。
 ごめんなさい、コーチンさん・・・・・・。

酒 談 義


 春と言えば花見、花見と言えば・・・酒でしょう。
 というわけで、今回は「全く個人的に好きな酒」を紹介しましょう。

(ビールの部)
 なんといってもサッポロの「YEBISU」がいいですねー。共働きになってからは我が家ではコイツが主流です。あの奥深さ、どっしりとした飲みごこちは他を寄せつけません。
 とはいってもコイツはちと高い。。。ので「キリンラガー」も贔屓にしております。ちょっと甘い感じがいいですね。
 外国モノでは「禁断の果実」「ヒューガルテンホワイト」が好き。どちらもベルギーのビールです。酵母が沈殿するので瓶を振りつつ飲まなくてはなりません。まったりとしていながらフルーティーなところがgoodです。ビールが苦手な人にもおすすめです。

(焼酎の部)
 最近焼酎にも注目しています。米・麦・芋・栗・ゴマ・しそ・黒糖・・・いろいろ目移りして困ります。焼酎好きの友達(よっちゃん/旅行記アフリカ編参照)に教えてもらった「兼八」
 これは旨いです!!!麦焼酎です。一口飲めばトリコです。麦のこうばしーぃ香りが脳天にまで響き渡ります。思い出しただけでもヨダレが・・・。
 でもこれ、酒屋で売ってるの見たことない。呑み屋でもめったに見かけないのですよね・・・(苦悩)。
 ところで「ロキシー」って知ってます?ネパールの焼酎です。
 ヒマラヤトレッキングに行ったとき、「酒が飲みたい」と言ったらガイドさんがどこかの民家からもらってきてくれました。
 喜んで口にするも・・・「ウッ!」
「おいしい?」ってガイドさんに聞かれたので、「うん、おいしい」と作り笑顔で対応。
 せっかく民家からタダでわけてもらったのに、まずいとは言えまへん・・・。

(ワインの部)
 基本的に赤が好き。ドシーンとした重ーい渋ーいヤツ。キンキンに冷えた辛口の白もよし。
 実は私、ブドウはあまり好きでないので甘いワインはちょい苦手。(でもプレゼントしてくださったら喜びます)。
 去年のバースデー、ダーリンとイタリア料理を食べたときに飲んだイタリアワイン「キャンティクラシコ」。一口飲んだ感想は・・・「うわァッ!」
 クール&ドライな男に思いっきり足蹴にされたような感じです。惚れた男にせっかく花束渡したのに、目の前で叩き返されたような。なんと言いましょうか、殺伐とした荒涼とした・・・。でも飲んでいるうちになじんできます。彼はそんなに悪いヤツではありません。照れ屋で愛想がないだけです。
 私はとりつかれた様にデパートの酒売り場をさまよいました。彼を探して。
 でも「キャンティクラシコ」という名前は特定銘柄名ではなく、どうやら地名かなにかのようで、同じ名前のワインがたくさん並んでいて、何本か試飲してみましたがどれもあの時の彼とは違いました。
 誰か彼を見かけたらご一報を。黒いボトルです。王冠をかぶった白鳥の絵のラベルが貼ってあります。

(日本酒の部)
 甘口が好き。でも日本酒ってのは辛口が主流なのかしら?甘口の日本酒ってあまり売ってなくないですか?需要が少ないのか、製造が難しいのか・・・?まぁ辛口の酒も旨いですけれど。でもやっぱり米の甘い味がにじみ出ているような優しいお酒が好きです。にごり酒とか最高!
 日本酒の名前っていいですよねぇ。ロマンがあります。旅に出たら一番の楽しみはその土地の「地酒」です。私は登山が趣味なので山の名前がついた酒にはつい手が出てしまいます。「北アルプス」「立山」「大雪渓」等々。
 一昔前までは「上善水如」(じょうぜんみずのごとし)など、あっさりしたものを好んでいましたが、今はもうちょっとしっかりした味のものが好みです。
 しかしまぁ日本酒ってのはどうしてあんなに「来る」のでしょうね。酒は呑んでも酒には呑まれない、と自負している私も、実は一度だけゲロゲロしちゃったことがあるんだなー。。。
 29歳の年の末・・・仕事の関係で税関職員と呑み会をしたときのこと。ウチの会社の人はなぜだかノミスケが少ない。せっかく呑み会やっても誰も呑まないのだからしらける。そこで私が借り出され・・・
「あっこさんは日本酒が好きなんですよ」
と、皆が口を揃えて税関職員たちに向かって言う。
「おお、そうかそうか。それならどんどん注文しよう」
ということになり、つがれるままに呑みまくる。
 あとで知ったことですが、その時来ていた税関職員の中でもひとり、酒に強い男の人がいて、
「税関VS民間企業」よろしく、その人と私とどちらがよく飲むのか皆でひそかに注目していたらしい。
 結果、あちらはお開きのあと呑み屋のトイレで吐き、私は呑み屋を出てからホテルで吐いた(家に帰れなくなってホテルに泊まった)。時間差で私の勝ちね!!
 でもそれ以来、人前では日本酒を呑むのを慎んでいます。連れて帰ってくれる人を確保しない限りね。帰り道安心して抱きつける人(ダーリン♪)を確保できない場では呑んでもコップ二杯どまりです。
 もし私があなたの前でコップ三杯以上呑んだ場合、それはかなり「脈アリ」です。
 あぁ〜ん、そんなステキな男性が現れないものかしらん♪
 あ、そうそう「ひめぜん」ってもう一度試してみたい。どんな味だったかよく覚えてないけれど、印象に残っています。

(カクテルの部)
 最近、ジンも旨いな、と思えるようになりました。以前はジン特有の「金属を口に含んだような冷たく無機質な苦さ」が苦手だったのですが。
 一番好きなのはウォッカベースのカクテル。ウォッカはクセもなく、透明できりりとしてスコーンと突き抜けたような強さがあるので好き。大抵の人はええーっ!っと顔をしかめるのだけど「ブラッディーマリー」とか好き。ウォッカ&トマトジュースね。おいしいのになぁ。一度どこぞやの一流ホテルのバーでこれを注文したら塩やコショウやタバスコやら野菜スティックやら目の前いっぱいに並べられて驚いたことが・・・。
 でも最近はあまり呑まないなあ。というのもウチの母が
「トマトジュース飲みながらタバコを吸うと肺ガンになる確率が倍増するらしい」
というネタをどこかから仕入れてきたから。
 なので今では「バラライカ」「カミカゼ」などを好んで呑んでいます。どちらもウォッカ&ホワイトキュラソー&レモン(ライム)ジュースのお酒だそうです。カミカゼの方が辛口な感じかな。
 カクテルは果てしなく奥が深いので、これから勉強しなけりゃなあ。カタカナって覚えにくいけどな・・・アタシ、暗記モノ弱いんだよな・・・(悩)。

(その他)
 ウイスキー、ブランデーはやや苦手。水割りや炭酸割りなら飲めるかな、程度。いつかブランデーグラスの似合うオンナになりたいです。
 まだまだ人生経験が足りません。

 とまあウダウダ書きましたけど、とにもかくにも酒は旨い、楽しい!
 これからもたくさんの出会いと「ステキな友と楽しいお酒の会」に恵まれますように。