2003.autumn

修 羅 場


 私は今でこそ「ダンナひとすじ」の貞淑な妻であるが、若い頃、俗にいう「ふたまた」をかけていたことがある。
 
 近所に住んでいたゴウちゃんは、私よりひとつ年下の男の子。彼はとにかく元気な人で、友達が大勢いた。私も彼に連れられていろんな友達と遊んだが、彼の交際範囲は私には把握できないほどで、「出会った人は皆お友達」みたいな彼の感覚にはちょっと戸惑ったこともあったが、それでもとても楽しかった。
 彼のこんなオープンな性格に心惹かれたのは言うまでもないが、何よりも彼は私が声をかけるといつでもつきあってくれたのだ。要するに「ヒマな人」だったのである。「いつでも遊んでくれる」彼の存在は私にはとても好都合。

 一方、ノリちゃんという人は、私よりひとつ年上でだいぶ大人びた感じの人だった。彼はゴウちゃんと違って忙しい人で、彼に会うのは週末がほとんどだった。それはそれでよかった。というのもゴウちゃんは絵に描いたような幸せな家庭に育った人で、平日はおかあさんの手作りの焼き菓子の匂いに包まれ、そして毎週のように週末はおとうさんの車で家族旅行をするのだ。
 ゴウちゃんのいない週末はノリちゃんと。私は彼らを思いのままに使い分けていたので何不自由なかった。
 ゴウちゃんは外に遊びに行くのが好きな人だったが、ノリちゃんは家で音楽を聴いたり本を読んだり絵を描いたりするのが好きな、物静かな人。
 平日は外で大勢と、週末は部屋の中でしっとりと。なかなか楽しい毎日であった。
 ゴウちゃんは近所に住んでいたので両親ともども家族ぐるみのつきあいで、私はいつぞや母から、
「アンタ、ゴウちゃんと結婚したら」
と言われたことがあった。
「とんでもない!」
と私は母の勧めを足蹴にしたが、ゴウちゃんと一緒に生活できたら楽しいだろうなぁとなんとなく考えたことはあった。
 しかし最大のネックは彼が『年下』だということだった。
「ケンちゃんと結婚したらゴウちゃんと一緒に暮らせるから、ケンちゃんと結婚しようか」と母に言ったら母は驚いていた。
 ゴウちゃんにはケンちゃんという兄がいて、その兄という人はなんと私と同じ日の生まれ。歳も一緒。
 しかし全く同じ日に生まれた人であるという認識だけで、それ以上の興味は湧かず。。。彼はひょろりとしていて体もあまり丈夫そうではなく、私には用のない男だった。

 まぁ、いずれにしてもゴウちゃんもノリちゃんも真剣に結婚を考えた相手ではなかった。
 ゴウちゃんの方でも同じだったようで彼とは一度もそんな生臭いハナシになったことはなく、私の交友関係にも寛大だった。なので私はゴウちゃんとノリちゃんが仲良くなってくれて3人で遊べたらいいなぁと思い、二人を引き合わせてみた。
 ゴウちゃんは「出会った人は皆お友達」感覚のお気楽な人だったのでよかったが、問題はノリちゃんの方だ。
 自分がいない平日にこんなヤツと遊んでいるのかとイジケだしたのだ。ノリちゃんは忙しい人なので友達も少なそうで、私以外の友達がいるのかどうかあやしげだったので、ゴウちゃんみたいな友達ができたらノリちゃんも楽しいだろうにと思ったのが間違いだった・・・・・・。

 ノリちゃんは会うと時々「昨日は誰といた?」などと私に詰め寄るようになり、私は苦し紛れな返答を繰り返した。会える機会の多いゴウちゃん、友達の多い元気なゴウちゃんも魅力的だが、かといって音楽や本に詳しい知的なノリちゃんを失うのは惜しかった。
 そしてある日ノリちゃんは切り出してきた。
「僕とアイツとどっちが好きか」と。
 私はとっさに、
「ノリちゃん」
と答えた。ノリちゃんは満足げな様子。
 そしてしばらくしたらとうとう、
「結婚しよう」
と言ってきた。私はまたしても、
「うん」
と言ってしまった。結婚しようと言われればそれも悪くないかも・・・などと軽く考えてしまった。
 そうしてノリちゃんと私は婚約者の間柄になり、彼も安心したようだったが、なにせ彼は大変に忙しい人だったので、近所に住む「ヒマ人」ゴウちゃんとのつきあいも切れずじまいでそのままズルズルと。ただの友達なんだからいいではないか。
 ゴウちゃんもごくたまに、
「オレとアイツとどっちが好きや」
と聞くことがあったが、もちろん私は
「ゴウちゃん」
と言っていた。私も相当なワルであった。しかし彼はノリちゃんのように私を束縛することもなく、ましてや結婚を口にすることなどなかった。こういうところが「お気楽」なのだった。
 そうして『平日ゴウちゃん・週末ノリちゃん』のライフスタイルを崩すことなく、またバレルこともなく、私は楽しい日々を送った。

 しかしそんな都合よく世の中が回るわけではないのだった。
 ある日、私はゴウちゃんと彼の家の庭で座り込んで話をしていた。
 そこへノリちゃんが通りかかったのだ!!彼はゴウちゃんの家の庭に無断で入り込み・・・・・・
 ぎゃああああーーーっと泣き叫びながら私の髪の毛を引っ張り、私を連れ出そうとした。
 あまりに突然のことで私もぎゃあああああーっと泣き叫んで抵抗した。
 こういうのが「修羅場」って言うのかしらね。

 今から30年以上前の、苦い思い出である。
 こどもは「純真無垢」だというが、それはどうだろう???
 こどもの世界も意外とドロドロしていることはほぼ間違いない。

 実はこの「修羅場」のシーンは私の記憶には残っていない。私の祖母が現場を見ていて、のちに私に語ってくれたのだ。
「あの子、なんちゅう乱暴な子や、思たわ」と。

 ゴウちゃんは私の隣の家に住んでいた。仲良くなるのはごく自然なことだろう。それに年下だったので幼稚園にも行ってなかった。彼には兄と姉がいたが兄は私立の幼稚園に通っていて、姉は小学生。なので平日昼間は当然のごとく「ヒマ」だったのだ。
 ノリちゃんはどこか遠くの私立の保育所に行っていたようだ。だから平日はほとんど会えなかった。彼は私の家から5分くらい坂道を登ったところに住んでいたが、彼の家には行ったことはない。
 ノリちゃんはいつのまにか引っ越していなくなった。別れの挨拶をしたかどうかも覚えていないし、ノリちゃんの名前も覚えていない。いや、最初から「ノリちゃん」としか認識しておらず、当時もフルネームで覚えていたのかどうかもあやしい。
 ゴウちゃんは私が中学に上がる歳まで隣に住んでいたけれど、ノリちゃんの記憶は大変あやふやだ。

 今、どちらかに会わせてやる、と言われれば、私は迷わずノリちゃんに会いたいと言うだろう。とにかく記憶が薄いだけに興味が尽きない。ノリちゃんと過ごした日々、会話などは覚えていても、彼が私より年上だったことや週末だけしか会えなかった理由はのちに母から聞きだして得た情報である。ちなみにノリちゃんのフルネームは母ですら忘れてしまったという。
 彼は私を覚えているだろうか・・・。
「ノリちゃんはおとなしくていい子だったけど、なにかいつも寂しそうな感じの子やったなぁ。。。きっと両親が共働きやったからやろ」
 と、私の母は振り返る。
 両親が家におらず、おじいさんと暮らしていたらしい。保育所も遠くだったので近所に友達もできず、私だけが唯一の心のよりどころだったに違いない、と思うとなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。

 ノリちゃん、元気かなぁ・・・会いたいなあ・・・・。今でもあんなに「やきもちやき」なんかなぁ・・・。


あの日のこと


 1995年1月17日。
 私はこの日の前日、父の部屋で眠りについた。当時法律事務所で働いていた私は翌朝あさいちで堺の裁判所に行かなければならず、いつもよりかなり早起きをしなければならなかったので、寝坊したらいけないと思い、階下にある父の部屋で寝たのだった。
 目覚まし時計が鳴る15分ほど前に部屋が揺れた。
   あー、地震かあ。
 よくあることだとそのまま眠ろうとしたが部屋の揺れはおさまらなかった。
   今日のは長めだな。
 もう一度目を閉じようとした瞬間、私は逃げ出していた。
  動くな!じっとしてろ!!!
 父が叫んで私を取り押さえた。
 私と父はふとんの上で息を殺した。
   ウワワワワ!!
 恐怖で叫んだのは初めての経験だった。
   地震や!地震やっ!!はよ逃げな!みんな何してんの!!!
 母が二階から駆け下りてきて悲鳴をあげた。その声も家中が立てる音にかき消されてしまいそうな感じがした。
 やがて揺れはおさまった。
 家族全員が居間に集まった。皆しばらく無言でいたが、父がテレビをつけてみようと言ったのでつけると
「ただいま地震がありました」とアナウンサーが言い、それで終わった。
   そんなもんか、だよなぁ。
 父が伯父に電話をかけた。地震ごときで親戚の家に電話をかけるのも初めてのことだった。
「大丈夫やったか?今の地震結構揺れたけど」
 伯父たちも揺れの大きさに驚いていたようだが、まあこんなこともあるだろうよ、というような感じ。
「南海電車が不通になっています」
 テレビから声が聞こえる。
「あっ、えらいこっちゃ、堺に行かれへん」
 私は南海電車に乗って出かけるつもりにしていたので慌てたが、まあそのうち動くだろうよと思い、支度をして家を出た。
 駅まで乗っていくバスは全く普通どおりに動いていた。ところが駅に着くと、JRも阪急も不通だという。
 通勤客が公衆電話に列をなしていて、私もその列に並び、弁護士に電話した。話をしている最中にも大きな揺れが起こった。
「なんか全域電車が止まってるらしいから、今日のところは様子をみよう」ということになり、家に帰ろうとしたが、さっきまで正常に動いていたバスまでもが不通になっていて、仕方なく弟に頼んで駅まで迎えにきてもらった。
 家に帰るとテレビがついていて何気に覗くと神戸の上空からの映像が映っていて、高速道路がうねうねとねじまがって倒れているように見えた。
「上から見たら倒れてるように見えるんやなあ」
 と言いつつテレビに近寄ると、本当に倒れていたので驚いた。
  これは大変なことになった。
 この時やっとコトの大きさが理解できた。

 私よりももっと遅くに実情を把握した人がいた。
 私の友人はこの日、海外旅行から帰ってきた。着陸直前に機内アナウンスで地震のことを知ったそうだ。
 しかし「神戸で地震があったそうです」とだけで、詳しいことは一切伝えられず、飛行機から降りてから家に帰るまでの道中で実情を知り、とても驚いたそうだ。アナウンスがあった時間にはもう日本中が神戸の惨劇にパニック状態になっていたはずなのに、アナウンスでは「ちょっと地震があったみたいです」みたいなニュアンスだったそうだ。
 これは意図的なものだったと思うけれど。

 なぜ6000人もの人が死んだのか。どうして自分は生き残ったのか。
 あの時、自分の存在意義をこれほどまでに深く考えたことはなかった。それは皆同じだろう。
 生き残った自分に何ができるのか。
 被災者の方々は家族を失いながらも家を失いながらも、見知らぬ人々の救出に懸命になり、瓦礫の下から人を救い出した。
 無事だった人は線路をつたい、何キロもの道のりを何キロもの荷物を背負って歩き続けた。全国から救援物資が届き、街はボランティアたちであふれかえった。自分に何ができるのか。できることをしたい、誰かの助けになりたい、誰かから今、自分が必要とされている。
 いてもたってもいられない。慣れ親しんだ街が跡形もなく消えていった今、自分はどう行動すべきなのか。

 多くのボランティアの人たちにまぎれて、私も何度か神戸に足を運んだ。ボランティアのセンターには全国から寄せられた物資が山積みにされていて、私たちは各自適当に見繕って街へ出かけ、「何か必要なものはありますか」と被災者に聞いて回るというシステムになっていた。
 むなしい活動だった。自分のできることなんか何もなかったから。
 今、何がほしいですか?と能天気に聞く自分が情けなく、最後の方は誰とも口をきかずにセンターに戻ってしまった。
 今、何がほしいですか?と聞くと、皆、「家がほしい」と言うのだ。
 個人のボランティアレベルではどうしようもないほどの打撃を受けたことが、この街の風景を見てどうしてわからないのか。
 政府は何をしているんだろう、国はどういうつもりでいるのだろう。
 誰か、本気で助けてほしい。本当にそう思った。
 
 私の家もかなり揺れたが風呂の壁に亀裂が入ったくらいで、家族も親戚もみんな無事だった。
 6000人もの人がすぐ近くで死んだけれど、私の親しい人は誰一人として死ななかった。なので結局のところ多くの人の死は私にとっては他人事に過ぎなかった。
 その後しばらくしてあるテレビ番組を見た。なんとなく見ていただけだったのだが、突然ひとりの女性の顔がアップで映ったので驚いた。
 彼女とは大学の同期だった。法学部は女子が少ないので、友達ではなくとも女の子ならだいたいの顔は把握できていた。彼女は友達の友達、という感じで、2回ほど話したことがあるのを覚えている。
 ゼミが決まったばかりの、3回生の頃。ゼミの授業の一環で図書館見学をしていたときのこと。彼女は背後に突然やってきて私の腕をつかみ、耳もとでささやいたのだった。
「なあ!もしかしてこのゼミ、女子ひとり!?」
 私が入ったゼミは21人いたが女子は私ひとりだった。
「うん、まあ」
 私がうなずくと、
「いいなあ、いいなあああ!!ウチなんて女子が半分近く占めてんねんで!どーゆーこと!?」
 と、彼女は私をしきりにうらやましがるのだった。
 次に彼女の声を聞いたのは就職活動が始まった4回生の春。神戸の大手菓子メーカーの紙袋をぶらさげた彼女は、
「とりあえず、お菓子メーカーは回ってるねん。行ったらお菓子もらえるもん」
 と、無邪気に笑うのだった。
 彼女は結局、兵庫県警に就職し、婦警さんになった。
 私がテレビで見たのは、兵庫県警の婦警の出動式の様子だった。制服を着てきりりと整列する婦警たちの中に彼女の顔を見つけた。彼女の顔はブラウン管に大きく映り、名前まで出ていた。
  あー、あの子、婦警になったんだっけ?そうだったよなあ。
 と彼女のことを懐かしく思うと同時に、あー、あの子、ホントにいなくなっちゃったんだ、と思った。
 ブラウン管の中で微笑む彼女。名前のあたまには「故」の文字が出ていた。
「彼女は本当に明るくて、正義感が強くて、婦警は天職だったと思います。今日は彼女も一緒に出動します」
 彼女の遺影を胸に抱えた、同期の婦警がそう言った。
 ゼミで紅一点だった私をしきりにうらやましがっていた彼女。これから就職し、恋愛をし、結婚して子供を産んで、と夢いっぱいだったんだろう。まさか数年後にこんなことになるとは夢にも思わなかっただろう。
 考えてみれば、顔見知りが亡くなったというのはこれが初めての経験だったような気がする。

 おととし、神戸市内にある復興住宅を訪れる機会があった。それは駅から遠く離れた高台にそびえたっていた。
 駅からバスに乗り、下り、歩き、急な坂道を登ってやっとのことでたどりついた。今日はその復興住宅の秋祭りがあるという。
 真新しいマンションが何棟も立ち並び、お祭りの日とあってはさぞかし賑やかなのだろう、と思った。
 が、人影はほとんどなく、祭りの会場もほんの一角で行われていて、出店もカレーライスとやきそばくらいで、私たちが到着したときにはどちらもとっくに売り切れた後だった。
 ちょうどカラオケ大会が終わり、盆踊りが始まった。踊っているのは数人のお年寄りばかり。しばらく見ていたがつまらないので辺りをうろついてみた。
 誰もいない。日曜の昼間なのにひっそり。新しいマンション群には決まって新婚夫婦がたくさん住んでいて、子供のはしゃぐ声がうるさいものだ。
「ここは復興住宅やから。お年寄りが多いんや」
 一緒に来たダンナがそう言った。
「今でもな、孤独死が絶えんのやで。ケンカも起こって人が死んだりするんや。復興とは名ばかりや・・・」
 しばらくしてダンナは仕事で自分がお世話させていただくことになった、この祭りの委員長に挨拶に行ったので、私はその復興住宅の集会所に行ってみた。
 そこに住んでいるお年寄りたちはいろんなサークルを作っているようで、その集会所では手作りの作品が展示されていた。洋服、手さげ、のれん、ざぶとん、絵を描いている人もいたし俳句を詠んでいる人もいた。
 それぞれに楽しみを見つけて仲良く暮らしてらっしゃる様子に少し救われた。
「すごいですね!みなさん才能を持ってらっしゃる!」
 若い男の人の声がした。お年寄りばかりの中で、彼の声はひときわ目立って聞こえた。ダンナにあの人、誰?と聞くと民間のボランティアグループの人だという。この祭りの運営の手助けをし、音楽団体を呼んだりして祭りを盛り上げるために尽力したそうだ。
 震災の時だけのにわかボランティアではなく、今もこうして息の長い活動をしている人たちの存在を知り、また少し気持ちが救われた。

 集会所に展示されていた品はどれも素晴らしかったが、私が一番惹かれたのはある男性が書き連ねていた俳句だった。
 大部分が最近詠んだものもようで、句ごとに簡単な説明がついていた。
 その中にひとつ、震災の年の暮れに詠んだものがあった。(震災の年、姫路に身を寄せていた頃に詠んだもの)とだけ説明書きがしてあった。残念ながらどんな言葉の連なりだったのか忘れてしまったが、内容は覚えている。
 除夜の鐘を聞きながら思うのはひたすらに神戸に帰りたい、それだけだった。除夜の鐘に重なる汽笛の音がその思いに拍車をかけていた。神戸に帰りたい。
 五七五の短い句の中にこめられた万感の思いがひしひしと伝わり、私はしばらくその場に立ちつくし、何度も何度も読み返した。
 神戸に帰りたい。彼はどうしてそんなにも神戸に帰りたいと思ったのだろう。親戚の家に身を寄せつつも。神戸では誰とどんなふうに暮らしていたのだろう。彼の家族は友達は今どこでどうしているのだろう。今、こうして神戸に戻ってきて、彼は何を思って生きているのだろう。ご本人に聞かなければわかりえないが、あえてこの場にこうしてあの時詠んだ句を発表していることに、何か重要なメッセージがこめられているのではないだろうか。
 神戸に帰りたい。
 ここは神戸だ。彼が帰りたかったという神戸。
 やっと帰ってこられた喜び。姫路でのつらい生活をなつかしみ、この句をここに発表したのだろうかと思う一方で、彼が本当に帰りたかった場所はここではないのかもしれない、とも思った。
 
 彼が本当に帰りたかった場所とはどんなところだったのだろう。

 今、神戸の街は完全に復興したといえるだろうか。
 私にはよくわからない。
 この震災がきっかけで始まった、神戸の冬の風物詩『ルミナリエ』。全国から多くの観光客が集まる、関西の一大イベントであるが、あの灯が灯る瞬間。あんなにきれいなものを見ながらも心がちくりと痛むのはどうしてだろう。

 復興、復興と言うけれど。本当の意味での復興はどんなに努力したってもう二度とありえないと思う。とてもつらく悲しいことだけど。
 6000人の命は決して生き返らないのだから。

 復興、再生という言葉を簡単に口にすることに、私はやっぱりためらいを感じる。


寅 次 郎

 ある秋の夜のこと。私は眠り、夫は勉強に励んでいた。
「猫がないてる。もう何時間もずっとないてる」
 夫に揺り起こされ、私は夫の部屋へ。
 確かに猫の声がする。みーみーみーと激しくないている。
「もう何時間もずーっとないてる・・・・・・」
 夫が悲しげな顔をする。私たちはそれぞれ実家で猫を飼っており、大の猫好きなのだ。しばらくじっとなき声を聞いていたが、いたたまれなくなり、私たちは上着を羽織って外へ出た。
 大型トラックが行き交い、地響きする道路の脇にダンボール箱が置いてあった。そこは街灯もなく、夜はもちろん昼間でも人通りのほとんどない場所だ。
 おそるおそる箱を開けてみると、小さな小さな命がふたつ。まだ目も開いていない。
 ないているのはトラ猫だけだった。茶色と黒のまだら猫は既に弱っている。トラ猫はまだら猫の上に乗っかり、みーみーみーと激しくなきまくっていた。まるで自分だけでも助けろと言わんばかりの勢いだ。
 とりあえず箱ごと連れて帰ったが、トラ猫がうるさくなくので気が気でない。当時住んでいた部屋はペットを飼うことは禁止されていたからだ。
 夫は勉強を中断し、夜明けを待って始発で私の実家へ箱を持って行った。私の実家ではその半年くらい前に10年近く飼っていた猫が死に、両親は大変寂しがっていた。絶対飼ってくれるに違いない。二人とも確信していた。2匹いるが問題はない。私の実家では2匹飼っていたこともあるからだ。
 ところが予想に反して母の言葉は、
「かわいそうだが、元の場所に戻してきなさい」
 だった。
 10年飼っていた猫に対する喪失感と今までの世話に疲れて、もう猫を飼うのはこりごりだ、と言うのだ。確かに私も含めて父や弟たちはかわいがるだけかわいがって、エサやトイレの世話など一切しなかった。
 その日、仕事帰りに実家へ行くと、夫が小さな哺乳瓶で猫たちにミルクをやっていた。生まれてすぐに捨てられて、私たちに拾われるも飼えないからとこんなところまで連れてこられ、さらにそこでもまた「いらない」と拒絶された猫たち。それでも生きようと一生懸命だ。小さな腕を伸ばしてちゅぱちゅぱと口を鳴らしてミルクを飲んでいる。
 とりあえず私たちは両親に頼んでしばらくの間だけ面倒をみてもらうことにした。
 そして翌日から飼い主探しをした。夫の実家、友達、私の会社の同僚、友達・・・・・・。しかし意外に猫は不人気であった。まず私の友達は子持ちが多く、対象者は限りなく無に近かった。独身の友達も鳥やハムスターや魚を飼っていたりしてこれまた失格。
 しかし再び捨てるなんてそんなことできない。生まれてきたからにはしあわせになる権利がある。
 数週間後、実家から電話が。まだら猫の嫁ぎ先が決まったという連絡だった。父の知り合いだ。ほっとしたと同時に寂しさに襲われた。
 拾ってきた時にはぐったり弱っていたまだら。私の母の世話のもと、すっかり元気になった。
 そうしてめでたくまだらはもらわれていった。今では元気に走り回り、カーテンによじ登ったり壁を引っかいたり、悪の限りを尽くしているそうだ。
「よかったけど寂しいなあ・・・・・・」
 夫は肩を落としていた。そしてトラ猫が残った。まだらが行ってしまってすっかり寂しくなってしまった私たちは、トラ猫を『寅次郎』と名づけ、引き取る決意をした。
 住んでいた部屋を引き払い、ペットOKのマンションを借りることにした。そして私たちは今、平和に暮らしている。
「僕もあっこさんの家の前で箱に入って待っとこう。拾って養ってくれる?」
 会社の同僚が言った。なかなかおもしろいこと言うなあ。
 寅次郎は拾ってやったうえに、その冬のボーナスを全て投げうって引っ越しまでした私たちに恩返しする気配もなく、眠る私の顔にパンチを見舞ったり、夫の勉強机に上がってペンや消しゴムを全て床に落としたり、ノートを噛みちぎったりする。おなかがすくと壁に飛びついたりして暴れる。叱っても叩いても反省するどころか背中を丸め、毛を逆立て、目尻をつりあげながらはむかってくる。
 多分自分が猫だとは思っていないのだろう。私たちに対する恩も忘れている。それならついでに『生まれてすぐに捨てられた』ということも忘れてほしい。寅次郎は初めから私たちのかわいい猫だったのだ。
 私は毎日廊下に出迎えに来てくれる(実はエサが目当て)寅次郎の頭を撫で、眠る夫の頬に口紅の跡をつける。
 そして我が家は今日もたいそう平和である。

*****寅次郎はこのようないきさつで我が家にやって来たのでありまする。私は大変な猫バカで、今や寅次郎のいない生活など考えられません
 去年、私の妊娠が発覚したときに「寅次郎はどうする?赤ん坊と猫の共同生活は絶対によくない!」と周りからさんざん言われ、夫は新たな引き取り手を捜そうとしましたが私は断固として譲らず。しかし周りもそんな私を断固として許さず・・・・・・「子供と猫とどっちが大事やねん!新しい飼い主探しなさい!」と。仕方なく2,3あたってみたものの・・・「猫はいらん、犬なら欲しいけど」なんて言われたり。挙句の果てには「もう処分するしか」とまで。
 毎日泣いて暮らしました・・・・・・。間違っても処分などさせないけれど、そういうことを言われたこと自体が悲しくて。そして子供が生まれたら寅次郎とはさよならしなくてはならないのだ、と思うと。(今、これを書いているだけでもウルウル・・・・・・)。
 憔悴しきった私を見かねて、ダーリンはコードレス掃除機を買ってくれました。「この掃除機軽くて便利やからな、毎日掃除機かけてみんなで仲良く暮らしていこう」と言ってくれました。

 そうそう、これからも仲良く暮らしていくのだ、私たちは!!

 以上をもちまして終了です。古い話を読んでいただいてありがとうございました。

蛸 と 私 と

 私の趣味は山歩き、夫の趣味は釣りである。私たちはお互いの世界を尊重しあっている。私はフリーター時代、貯金をはたいてネパールにヒマラヤの高峰を見に行った。どうしてもエヴェレストが見たくて。ひとりでツアーに参加して行こうと思っていたのだが、夫が心配のあまり気も狂いそうになりながら追いかけてきた。
 あの頃はよかった・・・・・・。今では私が単独で(日本の)山に入ることもやすやすと許してくれる。
 でも私は夫にあの山々の美しい風景を見せてあげたいと思うのだ。夫は至極迷惑そうだが、それでも年に一度は私たちはザックをかついで山に入る。
 なので私もたまに夫につきあい釣りに出かける。私たちの住まいは海に近い。またまたチャリンコ部隊出動だ。
 夫はチヌ(黒鯛)狙い、私はとにかく何かを釣るのが目標だ。
 しかしそれにしても大阪の海は汚い。陸にもゴミが散乱している。どうにかならないものか、釣り人たちよ!
 ある日、夫の友達のやっちゃんがやってきた。やっちゃんは、夫が学生の頃バイトしていた進学塾の講師仲間であり、年齢は私のひとつ下である。夫の連れてくる友達はみんな夫と同い歳か年下なので、私はやっちゃんのような自分と同世代の男の子が遊びに来てくれるのが嬉しい。
 やっちゃんは大のカラオケ好きで、結婚前はよく3人でカラオケに行った。私が古い歌を歌っても「おーッなつかしい!」と、喜んで聴いてくれるのでなんとも気分がいい。
 久しぶりに3人でカラオケに行き、その後我が家で飲んだ。そして夫はやっちゃんを夜釣りに誘った。蛸が釣れる時期のことだった。
「大阪湾の魚なんか食えるか、アホ」
 やっちゃんは夫の誘いを一蹴した。それでも夫はしきりにやっちゃんを誘った。『蛸が釣れるから』と。やっちゃんは、罪のない魚を針で釣り上げるなど残酷なマネはできない、とか、釣り餌の虫に触るのがいやだとかあれこれ理由をつけて拒絶し続けていた。
 蛸を釣るのには蛸に似せた形の釣具を使う。私は蛸を釣り上げる瞬間を見てみたいと思ったが、翌日は早朝の勤務が控えていたため辞退した。
 そして結局彼らは夜の蛸釣りに出かけることとなった。
 翌日早朝勤務だというのにすっかり夜更かししてしまった私は、リビングに寝ころんだ。あと3時間もすれば起きなければならない。ベッドで真剣に寝てしまうのは不安だった。
 座布団を敷き、クッションを枕にしながら毛布にくるまり眠っていると、あっという間に夜が明けた。しぶしぶ起き上がり、まだ薄暗い部屋を見回して驚愕した。
 やっちゃんが壁にもたれて三角座りをしていたからだ。聞けば彼は結局釣りには行かなかったというのだ。電気もつけず、この部屋で何時間もじっと座っていたのかと思うとなんとも複雑な気持ちがした。
 やっちゃんと朝食を食べ、私は出勤した。会社から帰ると、夫は満面の笑みを浮かべながら蛸を切り刻んでいた。
「初めて釣った、蛸!」
 私は悲しくなって尋ねた。
「ひとりで釣りに行ってんて?」
「うん。だってやっちゃん、どうしてもいややって言うから」
「・・・・・・深夜に妻がひとりで眠る家によくもまあ」
「あっはっは!僕はやっちゃんを信用してるから」
 確かにやっちゃんにはそんな気はなかっただろう。ただ本当に蛸釣りがかったるかったのだということはわかる。それに私も、やっちゃんと深夜の暗い部屋で何時間もふたりきりで過ごしたことに関しては特に嫌悪感も感じない。
 でもなんかおかしい。
 まず『信用してる』とはどういうことだ?夫はやっちゃんが私の眠る家に引き返そうとしたとき、『信用してるから』と、快く手を振ったというのか。
 ああ確かにそうだろう。やっちゃんは友達の妻をどうにかしてやろうなどとそんなことを考える人ではない。信用のできる人だ。
 信用できるのはわかった。私が一番疑問に思ったのは夫の気持ちだ。
 信用できても気分が悪くないのか?
 海は逃げない。蛸などいつでも釣れるではないか。私が夫の立場ならその日は蛸など釣りに出かけない。せっかく久しぶりに会った友達をそんなところに無理やり連れて行くなんて失礼ではないか。
 そう、夫はやっちゃんよりも私よりも蛸を選んだのだ。
 どんなに信用していても愛する妻と自分の友達がふたりきりになることに夫の心は少し曇ったろう。いくらなんでも少しくらいは何か感じてくれたはずだ。
 それでも夫は蛸を選んだのだ!心の曇りよりも強い、蛸への想い。今、まな板で切り刻まれている、その蛸・・・・・・私はそれに負けたのだ!!
 ヒマラヤの高地を旅すると決意した私に、『山とオレとどっちが大事なんや!』とすがるような声を出していた若き日の夫。
『蛸と私とどっちが大事なんや!!』
 私は心の中で絶叫した。

*****ノーコメント。

特 効 薬

 結婚生活も軌道に乗り、極貧からも脱出した私たちは平和に暮らしていた。
 ところが夫がじんましんに悩まされるようになったのだ。原因は不明。変なものを食べた記憶もない。きっと疲れているのだろうと思い、ゆっくり眠るようにとだけ言っておいた。夫も軽く考えており、病院で薬をもらいそれを黙って飲んでいた。
 しかし半年過ぎても治らない。おなかのあたりに赤い湿疹ができている。
 私は夫に帰省を勧めた。空気のきれいなところに行って親もとでゆっくりすれば治るかもしれないと考えたのだ。
 ところが全く回復しない。今度は病院を変えてみたらどうかと勧めたが、夫はふんふんと聞き流していた。
 原因はなんだろう。私も私なりに悩んだ。ずっと家にこもって勉強ばかりしている夫。何かとプレッシャーも感じているだろう。そして夫は寂しがり屋である。外に出ず、いつもひとりきりでいることにストレスを感じているに違いない。
「気分転換にバイトしてみたら?駅前のコンビニで早朝3時間だけのバイト募集してたで」
 3時間だけなら勉強にもさほど差し支えないだろうし。朝早く起きれば生活のリズムも作れる。バイト代は全て自分のおこづかいにすればいいし、そうすれば本代の足しにでもなるだろう。何よりも友達ができる。今の夫に必要なのは話し相手なのだ。
 当時私は昼間の勤務になっており。残業続きの毎日で『めし、ふろ、寝る』が精一杯。共にベッドに入っても私の頭の中は『明日寝坊しないこと』そのことでいっぱい。早く寝なくては、早く起きなければ。そう思うと胸がどきどきした。ああ、もうあと数時間しか眠れない!イライラしている時に限って夫はベッドの中ででれでれする。若い夫を持つ身ならではの苦労だ。かわいそうだと思いつつも、あまりに疲れていてこちらはそれどころではない。
 ある日とうとう夫がキレた。
「疲れた、疲れたばっかり言うな!」
 めったに怒らない夫が怒るので驚いた。
「玄関開けたらまず『ただいま』と言え!『疲れた』って言う前にな!!」
 もっともである。が、その時の私は夫の言葉にふてくされた。働く者の気持ちなど夫にわかるはずもないし、わかってもらおうとも思わない。私たちはしばらくお互いに口をきかなくなった。
 数日後、夫がつぶやいた。
「引越したい」
「引越す?なんで?」
「人目が気になる。誰にも会わないですむ場所に住みたい」
 私は仰天した。人一倍寂しがり屋な夫なのに・・・誰にも会わずに住む場所へ行きたいとは!
「なんで?なんで?」
「隣の奥さんたちが僕のこと、怪しんでる」
 夫は私が昼間に会社に行っている間、リビングで勉強しているらしかった。そして窓を開けてテラスに下り、大切に育てていたきゅうりやトマトの苗に水をやったりして気分転換をしていたのだ。
 テラスの前は駐車場になっており、若い奥様たちが集まって子供を遊ばせたりしつつ、夫に不審気なまなざしを投げかけているらしかった。毎日昼間に野菜に水をやる夫、そしてその妻は・・・朝まだ暗いうちに出かけたり(早朝勤務)、かと思うと夜遅くに出かけていったり(夜勤)と、これまた怪しい。
「悪いことしてるんじゃないんやし」
 そう言いながら私もひそかに引越したいと思っていた。隣の子供の夜泣きがすごいのだ。そして日曜の朝ごとに繰り返される笛太鼓の音。
 しかしいざ引越しとなると気が重い。さまざまな手続、部屋の片付け。そんなことをしている暇は私たちにはない。でも夫のじんましんも治したい。
 そんなある日、夫の実家から電話があった。夫にかけていた保険が満期になるという連絡で、戻ってくる額は約100万円。夫の口座にはそのうちの半分の50万円が振り込まれた。
 すると嘘のようにじんましんは治った。一年近くも悩まされた病がである。
 夫は減り続ける自分の貯金に悩んでいたのか。
 私は忘れていた。主夫業も立派な労働なのだということを。私は夫にこづかいを渡していなかったのだ。
「これからおこづかいあげる」
「ううん、いい」
 夫は気まずそうに顔を赤らめていた。

*****この頃、仕事キツかった・・・。朝7時出勤よ!しかも単独仕事。遅刻でもしようものなら朝一のトラックに載せなくちゃならない何百件という貨物は留め置きになってしまう。これは会社の生産性にとてつもないダメージを与えてしまう。どーしてウチの会社はこんなにも労働者が少ないのだ?毎日15時間以上働いたうえに早朝勤務続き・・・これはまさに地獄の日々でした。怖くて眠れない。しかも隣の子供の夜泣きといったら・・・「ウルサイッ!!!」と隣の家と面している壁に向かって枕を叩きつけたこともあったっけ。すみません・・・アタシってひどい女だわ。
 さらに!!主夫にこづかいを与えないとは!アタシってひどい女だわ。本当に激しく後悔している。
「子供できたら仕事続ける自信ないわ、専業主婦になるかもしれんけど、ええ?」「ええよ、でもこづかいなしやで」「ええっ、そんな!!」「だってオレももらってなかったもんね」
 こんなイケズを言い、ダーリンは暗に「仕事を辞めるな」と言うのだ・・・変わったヤツ・・・普通、男というものは「結婚したら仕事は辞めろ、子供を保育所に預けるなんてもってのほかだ」などと言うものではないのか?
 主婦の苦労を経験している夫だからわかるのだろう。私が専業主婦になれるはずがないということを。

「仕事辞めたらこづかいやらんぞ」と言う言葉は、「子育てと仕事の両立は絶対無理だ」と悩みに悩んで、不眠を患うほどの私への激励叱咤なのだ。
 と、思うことにしよう。

チャリンコ部隊

 我が家には車がない。10分も歩けば電車に乗れるし、駅前にはスーパーや本屋もあるし特に不自由は感じない。まあ車を持たない一番の理由はお金がない、ということなのだが。
 そうなると私たちの足は文字どおり自分の足か自転車ということになる。
 私たちはホームセンターに出向き、自転車を購入した。私は水色のママチャリ、夫は若者らしく赤い自転車(ハンドルがまっすぐで背中を曲げて乗るタイプ。私はこの手の自転車がどうも苦手)である。
「今度の日曜はチャリンコ部隊出動や!」
 一緒に買い物に行くぞ、という意味である。食料品の買い込みや寅次郎のトイレの砂など大きなものを飼う時は自転車2台でないと積みきれない。こういう時、車があれば便利なのになあと思う。
 食料の選択は完全に夫の担当である。餅対決では砂糖じょうゆだったが、本当は夫の料理の腕はたいしたものなのだ。得意料理は赤ワインたっぷりのビーフシチュー、牛すじと大根の煮物など煮物料理、魚をおろすこともできるので魚料理も得意。夫は大阪市内に出かけると必ずデパートの魚売場に行き、飽くことなく魚を見つめている。そして帰省する時などはそこであらかじめ生のうなぎを予約しておく。
 まだつきあい始めたばかりの頃、夫は私の家にうなぎを持ってやってきた。前日の電話で夫は嬉々として言っていた。
「あした、生うなぎ持っていくからな!」
 夫は当時、妹とふたりで西宮に住んでいた。近所のスーパーで生きたうなぎを購入し、風呂に放して生かしておいて、翌日は活きのいいうなぎを私と母の前でさばいてみせるという段取りだった。
 ところが翌日私の家に現れた夫は暗かった。
「うなぎが死んだ・・・・・・」
 聞いてみると、風呂に放したうなぎを妹とふたりでつかみ取りの競争をしたらしく、さんざん兄妹にいたぶられたうなぎは疲労困憊し翌日には死んでいた、ということだった。
「ほら・・・・・・」
 台所で夫はビニル袋からうなぎを取り出した。夫が手にしたうなぎはS字型に曲がり、死後硬直が始まっていた。
 私と母はあとずさりした。黒光りした長いものが、くねりと曲がって固まっているのになんとも言えない不気味さを感じたからだ。
「ほら」
 夫は悲しげにうなぎを私たちの目の前に突き出した。
「わ、わ、わかった。いいからはよ料理して」
 夫は器用にうなぎをさばき、身はかば焼にしたり、素焼にして山椒じょうゆに漬け込んだりし、骨はぱりぱりに焼いてくれた。もう母娘揃って大感激である。
 夫の料理の腕は私の会社でも評判だ。前に一度、会社の同僚たちを家に招いたことがあったが、彼は自慢の手料理をたくさんふるまってくれ、私は大変鼻が高かった。
 というわけで、料理はもっぱら夫の仕事である。(誤解しないでほしいのは、私は料理はしないが、家事を一切しないというわけではない。掃除洗濯は私の担当。夜勤をしていると昼間がフリーになるので家事をするには便利である)
 会社が休みの時は、夫とふたりで買い物に出かけることが多いが、私はアイスクリームやお菓子売場に行き、魚や肉や野菜は夫に任せる。そして新発売のお菓子を見つけるとそれを手にして、あれこれと思案する夫のところへ戻り、こっそりとカゴにお菓子をしのばせたりする。
「返してきなさい」
 叱られるが知ったこっちゃない。私が稼いだ金で買うのだ、何が悪い。そんなことは口には出さないが、私は心の中でひとり納得する。
「返してきなさい」
 夫はもう一度私を叱る。そして言う。
「うちはお金がないさかい、我慢しなさい」
 世の主婦のみなさま。愛しい旦那様に向かって『稼ぎが少ない』という言葉だけは言わないでください!みんな愛するあなたのため、家族のために一生懸命働いているのですから。

*****「私が食わせてやっている」とは言ったことなかったです。家を守るということは大変なことだと思うし(私は『仕事の方が楽なんじゃないか』と思ってるくらいだし)、私の父が亭主関白タイプで(あれくらいの時代に育ったのなら無理もないけど)、母親の家事育児の苦労も顧みず、「お父さんが一番エライのだ」という態度の人だったので、自分は絶対にああなりたくない、と思ってました。でもまぁ、たまには「出て行け−ッ!!!」なんて言葉を吐いたこともあったけど。「ココはオレの名義で契約した家や!オレが世帯主や!オマエが出て行けッ」「家賃稼いでんのはアタシじゃー!アンタが出て行け−ッ!実家に帰って親に面倒見てもらえーッ!」「オマエみたいになんもできひんヤツがひとりで生きて行けるかーッ」「・・・・・・そうやな」
 ひと月だけ、残業が異様に少ない月があって、給料明細見せると「なんやこれ!?少ないぞっ!」って叫ばれたことがあって、翌日会社で「昨日、ダンナに明細渡したら『少ないぞ!』って叱られました」って言ったら、本気で同情されました。私はウけ狙いで言ったつもりだったんですけどね。
 いずれにしろ、「給料少ない」って言葉はあまりいい気持ちしないので、夫婦間ではご使用されないほうが賢明でしょう。


餅 対 決

 結婚生活が軌道に乗るまでは、はっきり言って貧乏だった。お祝いとかこつけて、私たちの愛の巣にはさまざまな人が駆けつけて入り浸った。夫の妹、弟、後輩、その友達・・・・・・。みんな揃って学生である。そしてみんな勘違いしていた。学生より社会人の方が絶対にお金持ちだと思っているのだ。
 私は知っている。彼らが学生という皮をかぶって貧乏なふりをしていることを。彼らの銀行口座にはしっかりと『手つかずの金』があるのだ。それは親や親戚からの援助、わりのいいアルバイト代などで構成されている。
 そういう彼らが帰ったある日のこと。冷蔵庫にはもはや餅しか残っていなかった。夫の実家から送られてきた大量の餅。
「餅なんかおやつにしかならへんわ」
 冷蔵庫の前でため息をついていると夫が、
「餅対決や!」
 当時、テレビである料理番組がはやっていた。食材をひとつ決め、その食材を使って一流の料理人が料理対決をするというものだ。それにヒントを得、私たちは対決することにした。テレビではその食材はトリュフやフォアグラだったりしたが、我が家はその食材として餅を設定した(せざるを得なかった)。
「一人二品目。よーいどん!」
 夫の掛け声で勝負は始まった。狭い台所は戦争状態である。私はいつか居酒屋で食べた揚げ出し餅と餅グラタンを作ることにした。夫は野菜くずを用意していた。
「見るなよお」
 必死で隠しているが夫の思惑は・・・・・・餅ピザだ。
 料理の途中で気づいたのだが、いつのまにかふたりの動きが似てきた。餅ピザと餅グラタン。餅と野菜とチーズを耐熱皿に入れて焼く。ただ餅が平たいか角切りかの違いなのだった。私たちは気づかないふりをして料理に励んだ。
 制限時間が迫り、夫は慌ててもう一品目にとりかかった。オーブントースターで餅を素焼きにしている。もうあまり時間がないのにどうするつもりだろう。私は台所を離れ、テーブルに取り皿などを用意した。
「5、4、3、2、1、終了!」
 夫は素焼きの餅をテーブルに運んだ。そしてえへへと笑いながら砂糖としょうゆを持ってきた。これはひどい。
 私たちは仲良く餅料理に舌鼓を打った。
 この話は私の親戚筋に大変ウけた。そんなに面白い話とも思えないのだが。私としては目頭を押さえてほしいくらいだ。そして聞かれた。
「で、餅対決の勝敗は?」
 そうか・・・・・・これは対決だったのだ。夫婦間に争い事を持ち込まないという私の持論を展開する前に親戚たちは、
「そりゃあ、あんたの勝ちやわなあ。砂糖じょうゆなんて卑怯やで」
 皆が愉快そうに笑うので、私もとりあえず笑っておいた。皆が笑顔ならそれでいい。

*****そういえば最近、餅って食べてないなぁ。ダーリンが家にいる頃は餅は大変にありがたい存在だったけど・・・。今は外食が主流です。でも、これもある意味「ひもじい」かもね。たいしたメニューでなくとも夫婦揃って向き合って食事する。これが一番しあわせなことなんじゃあないだろうか、ねぇ?


ご 入 籍

 結婚するぞ、と決めた私たちは早速新居を探しにかかった。(結婚式はお金の都合がつかなかったので先延ばしにした)
 わくわくしながら不動産屋の門を叩くと、なんとも頼りなげなお兄ちゃんが出てきた。
「駅から15分以内で家賃8万円くらいで2LDKほどの部屋を探してるんですけど」
「新婚さんですか?」
「そうです」
 むふふ、と心の中で照れ笑いしていると、早速そのお兄ちゃんは、いいとこがあります、見てみますか?と言う。喜び勇んで車に乗り込み出かけてみた。うん、これはなかなかいいではないか!
 先ほど述べた条件にぴったり。しかも新築である。二階建てのテラスハウスで、いかにも新婚さんが喜びそうなたたずまい。私は広いテラスと玄関の緑色の扉が気に入り、夫は二階建てというのが一戸建て感覚でいい、と気に入った。すぐそばに大きな道路があり、車の音が気になったが、窓を閉めればたいしたことはない。一応他の物件も2,3見たが、ここが一番よかったので決めた。
 契約の時、私はもちろん自分名義で契約するつもりでいた。が、お兄ちゃんはダメだ、と言う。
「ご主人の名義でないとだめです」
の一点張りだ。
「主人は収入ゼロなんですけど・・・・・・。
 私はあまり大きな声で言いたくない言葉を夫の前で口にした。
「ゼロでもご主人の名義でお願いします」
 名義くらいどうでもいいが、やっぱり何か腑に落ちない。
「どうしてですか?」
「やっぱり女の人より男の方が信用度が高いんです」
「無収入でも?」
「そうです」
 頼りなげなお兄ちゃんがきっぱりとそう言うので何も言えなくなった。まあいいか。借りられればなんでも。それにしても世の中はまだまだ遅れているのだなあと実感させられた。(それから2年後に越してきた家は私の名義で借りた)
 契約書に夫がサインし、保証人は夫の父親になってもらうことにした。お兄ちゃんがそうするようにと言ったからだ。こんな件もあり、私たちは揃って夫の実家に出向いた。久しぶりの帰省とあって、義父も夫も楽しそうだ。
 夕食後、義父が私の名を呼んだ。夫は風呂に入っており、その場は私と義父の二人きりだった。
「なんでしょう?」
「あっこさん、月、いくらもらっとる?」
 私は狼狽し、パニックに陥った。何と答えたか全く覚えていない。多分具体的な金額は言っていないと思う。
 義父は県立高校の教師だ。今の時代、誰もがうらやむ公務員なのだ。私など足もとにも及ばない。給料も私なんかより比較にならないほど多いはずだ。そう思うと猛烈に悔しかったのだ。夫は私と暮らすより、田舎に帰って親と暮らした方が裕福な暮らしができるに決まっている。私は夫を義父に取られると真剣に危機感を感じていたのだった。
 これは私のばかばかしい妄想に過ぎず、私たちはめでたく入籍し、契約したテラスハウスで二人だけの新婚生活を始めることとなった。
 しかし2年後に私たちはこの家を去った。心配していた道路の騒音は気にならなかったのだが、至近距離にだんじり小屋があったのだ。日曜日の朝ごとに繰り返される笛・太鼓の音に私たちは逃げ出したのであった。

*****「だんじリ」とは大阪で有名な祭り「だんじり祭り」の際に使われる、立派な彫り物を施した、木製の山車です。それを収納してある小屋が隣にあったのですよね・・・。岸和田のだんじり祭りは全国でも有名ですが、大阪では堺市以南の各市で独自のだんじり祭りがあり、秋はたいそうにぎやかです。だんじりは笛や太鼓を演奏する中高生男子を乗せつつ、市中引きずり回され、時にはだんじりに轢かれて死人が出たりもします。それでも人々はだんじりを轢くことをやめない。そんな熱い祭りです。ちなみに私たちは全く興味ないですけど。
 
笛太鼓の練習はほぼ1年をかけて行われるようでした。一年一度の晴れ舞台、若者ががんばる気持ちはわかります。が・・・・・・。
 話は変わりますが、不動産屋の兄ちゃん、今、どうしてるんかなぁ。「僕、宅建の試験3回落ちてるんですよね。今年も受けましたけど多分ダメでしょうねぇ。学生の頃は女と酒に溺れてちっとも勉強しないクチでしたから、それがいけなかったんですわ、ハハハ」なんて言っていたけれど。この兄ちゃん、カギの引渡しの時には「あ、肝心のカギ持ってくるの忘れました〜」なんて言ってさぁ。私は寒空の下、ずうっと待っていたというのに、カギ忘れるとはなんのための家引渡だあ!おまけに再度現れた兄ちゃん、違うカギを持ってきて、「あれぇ?カギ間違えましたぁ〜」なんて言って、また戻っていった・・・・・・。ええ加減にせえよ!!!2度待たされた末にようやく家に入れました。

 
多分、あの兄ちゃん、今は別の仕事してると思うなあ・・・・・・。


しあわせな朝

 うっ、目が痛い。
 朝の日ざしが横断歩道の白に反射して、私の目を直撃する。まぶたを押さえて立ちすくんでいる私の方に向かって次々と会社の同僚が歩いてくる。慌しい一日の始まり。
「おはようございます」
「あっ、あっこさん、おつかれさまでしたぁ」
 私は急いで電車に乗り込み、まっすぐに帰宅する。今晩の出勤に備えてまっすぐ帰る。私にはアフターファイブなどない。こんな朝早くから開いてる店など、パン屋くらいのものだ。
 深夜勤務を命じられてから、はや半年が過ぎようとしていた。
 電車を下り、貴重な太陽光を浴びながら家路を急ぐ。玄関を開けると猫の寅次郎が、今さっきまで寝てました、という情けない顔でとぼとぼと部屋から出てくる。
「ただいまーん♪」
 私は寅次郎を抱き上げ、頬ずりした。眠いのにわざわざ玄関まで出迎えに来てくれるなんて、なんてかわいいヤツだろう!
 かわいい寅次郎に猫缶をやり、私は寝室を覗く。ベッドにうつ伏せになって眠る男がひとり。今日もうつ伏せになっている。小さな目を閉じ、うつ伏せになっているから片方のほっぺはへしゃげてしまっており、唇はぶっくりめくれあがってなんとも言えない顔をして、すやすやと静かに眠っている。この平和な寝顔にぷちゅっと口紅のあとをつけるのが私の日課だ。そうすると彼は、うん、うんとうなずく。
 彼は愛しきケンちゃん。私の夫である。歳は私より5歳下。弁護士になるという野望を持った若き青年であり、そのため今は一時的に専業主夫をしている。彼の主夫歴も早3年。もうベテランの域に達したと言ってもいいだろう。
 彼はまさしく専業である。中途半端にアルバイトやパートに出たりはしない、生粋の専業主夫なのだ。私は夫を扶養に入れ、会社から家族手当をもらっている。夫が家を守ってくれるから私は安心して夜勤に出られ、会社の人から「あっこさんは結婚してるのに全く生活の匂いがしないね」とお褒め(自分では解釈している)の言葉をいただいている。
 しばらく寝顔を眺めたあと、私は夫の作っていてくれたご飯を食べ、ふとんにもぐる。愛しいひとの体温で十分に暖められたふとんは、私をこのうえなく幸せな気持ちにさせてくれる。


*****(以下、昔を振り返りつつ上に対する自分の感想&解説)
 こんな時代もあったのねー♪当時はふとんがぬくいことに幸せを感じていたけど、今現在の私としては・・・「家に帰ればご飯ができてる」っていうのが幸せではないか!!
 この時、夜勤10ヶ月命令を出されてました。今では到底このような荒行はできません・・・若かったのね、私も。
 当時は小説やエッセイを書いては出版社の新人賞などに応募してました。とはいっても実際に応募したのは3回だけで本格的に作家を目指して、というのではなかったですけど。夜勤は残業がほとんどないので、要するにヒマだったんですな。だって、朝ってテレビはワイドショーばっかりだし、本を読むしかすることなくて、で、読んでたら自分も書いてみようかしら、という気になってしまった。
 単純ですぐその気になるところは、今も変わっていません。
 これは某出版社のノンフィクション大賞に応募して「準佳作」をもらったものです。題名は「いとしき専業主夫」←ちゃちい!はずかしいっ!!全7編で成り立ってます。今日はとりあえずそのうちの1編目を。今月25日は6回目の結婚記念日。いとしいダーリンに感謝&変わらぬ愛と敬意を表しつつ順次UPしていくんでよろしかったらおつきあいくださいませ。