佐々木近江守義高
Sasaki Yoshitaka
(1525-1600)


諱は義高。佐々木近江守の孫。 官は近江守。但馬浅間城主。但馬守護山名韶熈の臣なり。

但馬守護山名祐豊(韶熈)に仕え、但馬浅間村に330石を押領す。同村松浦左衛門尉宗房の娘を娶り、 浅間城を築く。天正元年(1573)赤松氏の但馬侵攻のときこれを防戦す。 同8年(1580)5月羽柴小一郎が織田方6400の兵を率いて但馬に討入り、城主西村丹後守の守る水生城註1)を 攻めた時、水生城に集合した諸将垣屋氏、長氏、赤木氏、下津屋氏、大坪氏、篠部氏らは 西村丹後守と策を巡らして、浅倉村岩山城の下の細道の難所である「岩歩危」を織田方の兵が通って 気多郡に入ろうと差し掛かった時に、岩山城から大石を落として、織田方の兵を円山川へ追い落とそうと した。伏兵を出して討取る計画を立て、織田方の兵の来るのを待ち構えたが、宮井の城主の篠部伊賀守は 前々より西村丹後守に私怨があったので、密かに郷士藤井伊助を派遣して、この作戦を織田方の兵に 密告した註2)。羽柴小一郎はこれを聞いて方向を転じ、伊佐を経て浅間坂を越え、出石郡有子山城の 山名韶熈攻略に向かうことにした。浅間城主の義高は、織田方の兵が着たとき「衆寡敵せずと悟り 戦わずして城を開いて帰順」した註3)
出石を攻略した後、再び大軍を率いて水生城へ攻め寄せたので、遂に水生城は落城したという。

義高は文禄元年(1592)豊臣秀吉の高麗征伐に加わり、同3年(1594)陣中病気により帰國したが、 同4年(1595)主家前野長泰改易により帰農した註4)
慶長5年(1600)正月10日卒。法名忠善院殿佐々木江州公。
墓は但馬養父郡浅間村註5)にあり。世々葬地とす。


註1) 兵庫県豊岡市日高町上石、上佐野
註2)『但州一覧集』による。
註3)『八鹿町史』による。
註4)『佐々木系図』浅間村佐々木正豊氏蔵によると「属 山名韶熈侯。貫於但馬國浅間村、 三百三拾石押領。築居城。天正8年(1580)5月織田右府公但州為平均発向之砌、羽柴小一郎至於浅間城、 義高衆寡不敵覚而開城。山名氏一揆併責戦不得勝利因而歿落。文禄元年(1592)豊太閤高麗征伐之時御陣奉公。 同3年(1594)陣中病気相成而奉願帰國。同4年(1595)前野(長泰)公被 改易時降於民家。 慶長5年(1600)正月10日卒忠善院殿江州公」とある。
註5) 現 兵庫県養父市八鹿町浅間字八坂
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