打它寿庵
【打它氏系図】
【始祖】打它伊兵衛宗貞 【由来】蛇を打ちて一命を得るゆへ「打它」と称す。
【歴史】越州敦賀郡の豪商、打它氏の系は宗貞に出づ。宗貞はもと越前大野の産にて糸屋彦次郎と称し、
金森長近に従ひ飛弾國吉城郡東茂住に赴く。茂住銀山の鉱山奉行を務め、天正17年金森氏より姓
「茂住氏」を賜ふ。東茂住、和佐保の両山を採掘す。この功によりさらに姓「金森氏」を賜ふ。
慶長13年8月24日ゆえ有って金森可重に疎まれ身の危険を感じ、金100万両を携へて敦賀へ逃れる途中、
「倶利伽羅峠にて蛇に出会い、それを殺して一命を得た事から「打つ」という字に「蛇」と書いて、
「打蛇」と名乗り、そのままでは字形が悪いと、蛇の字から虫へんを取った字を使って、
姓を打它と改むる」といふ。これは伝説なり。信じ難かるべし。
のち出羽秋田藩の蔵米の輸送や売払い一切を掌握す。また能登加賀藩の塩の専売を一手に引き受け、
福井藩、小浜藩の敦賀代官と為るといふ。
宗貞嫡男、公軌は家業を継がず歌人となる。著名な俵屋宗達の『風神雷神図』は公軌がその発注人なり。
その子孫、光軌は京都に生まる。元禄16年(1703)11月、
奥州中村藩主相馬昌胤に禄100石20人扶持にて召抱へられ、和歌師範を為す。
己後30年和歌の道を究め、歌集『藻虫集』を撰すといへど現存せずといふ。
【菩提寺】敦賀永厳寺(打它宗貞)。京都妙光寺(打它公軌)。
∴打它伊兵衛
(1)宗貞(1559-1643)福井・小浜藩 敦賀代官
|岩松院殿乾應宗貞大居士
+――――――――+
|打它十右衛門 |打它
(2)公軌( -1647) 則親( - )
|歌人 号良亭 ↓養子實大津代官 小野宗左衛門男
|
|打它
(3) 某 ( - )
|
+‥‥‥(?)‥‥‥+
|打它 |打它寿庵
(4)景軌( - ) 某 ( -1715)韓語通辞
| ↓宗対馬守家中
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|打它十右衛門 号藻虫庵 雲泉
(5)光軌(1674-1731) 奥州中村藩和歌師範 歌人
↓禄100石20人扶持
『挙白集』打它公軌撰、慶安2年(1649)
『藻虫集』打它光軌撰
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