【(『三国史記(百済本記)』)百済 扶餘系図】
【始祖】扶餘温祚
【世系】扶餘氏は、初代百済王の温祚王に出づ。
【歴史】百済國の王は、扶餘氏なり。その國もと馬韓に属し索離國(伯済國)より出づ。
その源を尋ぬるに高句麗と之を同じくす。其國の王の遠出せる折に、其王の侍女妊娠したるあり。
王、帰還して之を怪しみ、之を殺さんとす。侍女曰く「妾、かつて天上に大いなる鷄子の如き気を見たるあり。
按ふに其の気に感精し受胎したる歟」と。王は侍女を廃し、侍女は後に男児を産す。王は男児を豚舎に置くも、
豚は之を暖めるに因って死なず。厩舎を遷すと雖も之に同じくす。王は遂に男児を以て神人と為し、之を養育せしむに至る。
此男児、名を東明と云ふ。
其國の東は新羅に極まり、北は高句麗に接し、西南は大海の沿岸を垣根とす。東西450里、南北900餘里なり。
其の都を「居拔城」と号し、或は「固麻城」と云ふ。
其の外に更に五方あり、中方を「古沙城」、東方を「得安城」、南方を「久知下城」、西方を「刀先城」、
北方を「熊津城」と云ふ。王姓は餘氏。号は「於羅瑕」、百姓は「韃吉支(こにきし)」と云ふ。漢語に翻すに「王」の意たりと。
王妃の号は「於陸」と云ひ、漢語の「妃」なりと。
『三国史記』所収の『百済本記』の年紀を按ずるに、實に武寧王(斯麻)より先は、続柄を誤りて實年代より過去に遡つている可能性あり。今、参考の為にその年紀を挙ぐ。
※大概の實年代に関しては『(推算)百済 扶餘系図』見られたし。
∴扶餘 初代百済王
( )温祚王( -AD28)
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|A
( )多婁王( -AD77)
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|B
( )己婁王( -128)
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|C
( )蓋婁王( -166)
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|D |G |
( )肖古王( -214) 古爾王( -286) 優壽( - )
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|E |H
( )仇首王( -234) 責稽王( -298)
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+―――――――+―――――――+ |
|F |J | |I
( )沙伴王( - ) 比流王( -344) 優福( - ) 汾西王( -304)
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|L近肖古王 此治世始而 |K
( ) 鉤 ( -375) 傳來文字 契王( -346)
|泰和4年(369)七支刀奉献於日本
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|M近仇首王(貴須王)
( ) 須 ( -384)
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|N |O |
( ) 枕流王( -385) 辰斯王( -392) 眞武( - )
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|P | |智宗王
( ) 阿華王( -405) 洪 ( - ) 辰孫王( - )
|賢人王仁吉師遣於日本 |應神朝來朝
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|Q直支王 | | | |
( ) 腆 ( -420) 訓得( - ) 磔礼( - ) 信 ( - ) 太阿郎王( - )
|仁徳85年(397) |仁徳帝近侍
|為質赴日本 |
|R |
( )久爾辛王( -427) 玄陽君( - )
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|S |塩君
( )毘有王( -455) 午定君( - )
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| +―――――――+―――――――+
|21蓋鹵王 |味散君 |王智仁 |蕃麻呂
( )慶司( -475) 味沙( - ) 辰爾( - ) 麻呂( - )
|加須利君 ↓白猪史祖 ↓船史祖 ↓菅野朝臣祖
+―――――――+
|22 |扶餘 ・‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥・
( )文周王( -477) 昆支( -477) : :※『日本書紀』『百済新撰』所載異説如下記 :
| | : | :
| | : +―――――――+―――――――+ :
|23 |24東城王 : |21加須利君 |22 |軍君 :
( )三斤王(464-479) 牟大( -501) : 蓋鹵王( -475) 文洲王( -477) 昆伎王( -477) :
| : | | | :
| : | | | :
|25武寧王 : |25嶋君 |23 |24東城王 :
(19) 斯麻(462-523) : 武寧王(462-523) 文斤王(464-479) 末多王( -501) :
| : |母恩率贏高軌女 :
+―――――――+ : +―――――――+ :
|淳陀太子 |26聖王 : |淳陀太子 |26 :
(20)斯我君( -513) 明 ( -554) : 斯我君( -513) 聖明王( -554) :
|武烈7年(505)來|佛教傳於日本 ・‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥・
|朝而薨於日本 +―――――――+―――――――+
| |27威徳王 |28恵王 |太子
(21)法師君( - ) 昌 (526-598) 季 ( -599) 琳聖( - )推古19年(611)渡來於
| | ↓ 日本國周防多々良濱
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| |29法王
(22)雄蘇利紀君( - ) 宣 ( -600)
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|倭史 |30武王
(23)宇奈羅( - ) 璋 (580-641)
|賜姓 倭史 |
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|倭史 |31
(24)栗勝( - ) 義慈王(599-660)
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| +―――――――+―――――――+―――――――+―――――――+―――――――+
|和史 |太子 |扶餘 |扶餘 |扶餘 |扶餘豊璋 |百済王禅廣(善光)
(25)浄足( - ) 孝 ( - ) 泰 ( - ) 隆 ( - ) 演 ( - ) 豊 ( - ) 勇 ( -693)
| ↓
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|和史
(26)武助( - )
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+―――――――+
|和史 |和史 贈高野朝臣
(27)赤麿( - ) 乙継( - )贈正一位
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| +―――――――+
|和史 |和朝臣大蔵少輔|高野新笠 桓武天皇御生母
(28)男人( - ) 國守( - ) 女子( -790)贈太皇太后
| | 諡天高知日之姫尊
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|和史 |和朝臣 大納言
(29)池足( - ) 家麿(734-804)贈従二位
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| +―――――――+
|和朝臣 |和朝臣 |和朝臣
(30)宅継( - ) 文継( - ) 文麿( - )
↓若狭彦神社神主| |
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|和朝臣 |和朝臣
(31) 相親( - ) 國守( - )
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|
|和朝臣
(32) 道任( - )
↓
『三国史記(百済本紀)』金富軾 撰
『三国遺事(百済始祖温祚王條)』僧一然 撰
『日本書紀(継体天皇7年(513)條)』舎人親王 撰
『続日本紀』
『日本後紀』
『公卿補任』
『和朝臣家諜(百家系図稿 所載)』鈴木真年 編
『古代氏族系譜集成』
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