(一年後) 



「ねえ、よっちゃん、いいもの見せてあげよっか」
「うん」
 二人は愛花の両親の寝室で遊んでいた。母親からはこの部屋で遊んではいけないと言い渡されていたが、愛花はこの部屋が自分の部屋よりもずっと好きだった。部屋の真中に置かれた大きなベッド。金色の置時計。ロボットみたいに冷たく光るステレオセット。なによりも、いつも白い壁にハンガーでつるされている、母親のワイン色のガウンの触り心地が、好きでたまらなかった。
「あそこに黒い棚あるでしょ」
 愛花はむっちりと肉のついた腕を、義信の前に突き出して、指をさした。そこには壁に作りつけられた、ガラス張りの小さなショーケースといったふうな棚があった。
「うん」
「あの中にあるの。見たいでしょ」
 義信は少しこわいような感じもしたが、見たかった。
「……うん」
「よしっ。じゃあ手伝って」
「どうするの?」
 義信は嫌な予感がした。
「あいかだけじゃちょっと届かないの。だから、よっちゃんがあいかの台になって欲しいの」
「台って、どうするの?」
「いいから、こっちにきて」
 愛花は絨毯の上をすたすた進んで、棚の下に立った。
「ここで丸くなって」
「こう?」
「違うっ。背中を上にして」
「これでいい?」
「そうそう。じゃ、のるよ」
「うえっ」
《苦しい》義信は背骨が折れそうな気がした。
「ぜったい動かないで、ちょっとがまんしてて」
 ちょっと、ではなく随分長い間に思われた。
「あっ」
 愛花の叫び声とともに、亀のように首を引っ込めた義信の頭のそばに、ボトボトなにか落ちてきた。
「落ちたっ」
 愛花は義信の背中から飛び降りる。
「大丈夫。割れてない。絨毯でよかった」
 呆然とする義信の目の前で、愛花は俯いてかちゃかちゃ音をたてていた。愛花の手の平にすっぽりと納まるほど小さな瓶が二本。それよりちょっと大きいくらいの瓶があと三本。ただの瓶ではない。どれも中に液体が入っている。瓶はいろいろな形をしていて、真っ黒なガラスに王様らしき人の絵が描いてあるもの。まるで壷のような形をしたもの。長方形の瓶。(瓶自体に、透明なレンガが積み重ねられているような模様が入っていた)中には琥珀色の液体が入っていて、二人ともその半透明なつややかな色の美しさに、なにか目がくらむような気がして、息をのんで見つめた。紅茶の色に似ているけれど、もっと薄い。薄いのに、とろっとした色。まるで太陽が溶けたみたいな。
「これきれい」
「うん」
「なんか、いろいろ字が書いてあるね」
「これって英語じゃない? 読めないよ」
 愛花が瓶を上下に振ると、ピタピタと音がした。
「フフフ」「フフ」
 二人は溺れたように揺れる液体を見ながら笑った。
「ねえ、これ、のめるんだよ」
 愛花が悪戯っぽく義信に目を移した。
「うそだろっ」
「うそじゃないよ。だってあいか見たもん。ママとパパがのんでいるところ」というのは愛花がとっさに思いついた嘘だった。
 義信はもう一度、愛花の手に握られた琥珀色の液体の入った瓶を見た。どう見てもこれらの瓶は、飾りとか宝物といった趣がした。
「ねえ、のんでみよ」
 愛花はそう言うと、瓶の蓋をひねった。
「硬いよ。これ。開けて」
「でも」
「早く」
 義信はおそろしかったが、力をこめて、思いっきりひねった。
「うわっ、クッセー」
 蓋が開いたとたん、今までかいだことのない強烈なにおいがした。義信が愛花の鼻先に瓶を突き出す。
「これ、クッセーよ」
「ほんとだ……くさい」
 愛花は鼻を手で覆った。しかし、のみたいという気持ちに変わりはなかった。もしかしたら、ものすごくおいしいものなのかもしれない。だから、のんじゃダメっていうのかもしれない。そんなの、許せない。
「ねっ。いいから、一口味見してみようよ」
「えーっ」
「いっせーのーで、でいっしょにのんでみよ」
 そう言って愛花は中身の見えない真っ黒な瓶をつかんだ。
「いっせーのーで」
 そう言ったのは愛花だけだったが、義信はきつく目をつむったままでのみこんだ。愛花は義信の白い喉が動くのを、注意深く見ていた。
「うっ」
 義信はしばらく、なにか間違って変なものを舌にのせてしまった瞬間の顔をしたままだった。愛花の方は義信の顔に怖気づいて、のむのを中止してしまっていた。
「どう?」
「……」
 義信は、その長細い顔全体をつかって、もう十分に表現していた。
「ね、他のもあるよ。味比べしたら」
「ええっ?」
 けっきょく義信はあと一つだけ味見をして、もう二度と瓶に口をつけようとはしなくなった。いったん決心すると義信は石みたいに頑なになり、愛花がなにを言っても無駄だった。
「じゃあ、片づけよう」
 愛花は義信を再び台にして、瓶を片づけてしまうと、なにごともなかったようにベッドをトランポリンがわりにして、ジャンプしはじめた。義信もすぐに愛花に加わった。
「なんか、頭痛い」
 ほんの五、六回飛んだだけで、義信は突然ベッドに横たわった。愛花がジャンプするたびに、その振動に揺られていた。愛花は最初放っておいたのだが、義信の体がぐったりとしているままなので、気になって飛ぶのをやめた。
「どうしたの?」 
「頭が痛いよ」
 義信の顔はいつのまにか真っ赤になっていた。おまけに息をすることさえ苦しそうである。
「だいじょうぶ?」
「うー」
「ちょっとお」
 愛花はゆさゆさ義信の体を揺すった。
「もう僕帰る」
 義信はベッドからころげ落ちた。そしてそのままドアにむかって這って進んだ。
「えっ、もう」
「気持ちわるいんだ」
 義信は帰っていった。手すりをつたってなんとか立つことはできたが、階段を降りる足取りがよろよろとしてあぶなっかしかった。幸運なことに義信の家はたった二軒先だった。
 愛花は義信を見送って、一人またその部屋へ戻ってきた。
「どうしたんだろ。よっちゃん」
 そのとき、ベッドの下に転がった一つの瓶を愛花は見つけた。
「あ、あんなところに、まだあったんだ」
 愛花は腹這いになって、手をのばし、瓶を取り出すと、しばらく途方に暮れて、それを見つめていた。隣のうちからいつものように、バイエルを弾くミキちゃんのピアノの音がしてきた。いつも同じ曲ばかり弾いていて、同じところで間違えて、同じ言い方でお母さんに叱られている。愛花は長いこと蓋を触っていたが、少し力を入れた拍子に、思いがけずぽろりととれた。
 やっぱりすごいにおい……中の液体はちょうど半分くらい残っていた。愛花は瓶に舌を突っ込んでみたがどうしても届かない。届かないと、よけいに味見したくなる。《まずくってもいい。ほんのちょっとだけでも。》愛花はとうとう天井を見上げて、瓶を逆さまにした。
 愛花の口にそれがドバドバと一気に流れ込んだため、口から溢れ、喉を伝ってブラウスは濡れ、スカートも濡れた。一口のみこんでしまった他はぜんぶこぼしたのだ。
 瓶の中の液体はもう残っていない。たった一口しかのんでいないのに、喉が焼けるように熱い。口の中で暴れる強烈な臭気にむせながら、愛花はひらめくように悟っていた。
《これは「お酒」なんだ!》
 今までに路上で見かけた大人たちの不可解な言動が、父親の間延びした声が、そして、さっきよろめいて帰っていった義信の姿が、今、愛花の燃えるように火照ってくる体といっせいに結びついてゆくのだった。愛花は壁にかけられた母親のガウンを見つめていた。それはぐるぐると回転しながら近づいてきて、彼女の体を包み込むと同時に宙に浮き上がった。母親が見つけたとき、彼女は横たわったまま目を閉じて、すぐそばにだれかがいるように微笑んでいた。


        に続きます・・・