(五年後)



 クラスはにぎやかに波打っていた。愛花は一ヶ月前から急速に仲良くなった琴美と話している。けっこうきわどい会話をしていても、みんなそれぞれの話に夢中で、だれもきいていない。休み時間だというのに、机にへばりついたままの男の子が一人だけいて(宇多川君といった)いじめられていたからなのだが、今はだれも相手にしようとはしない。
 このクラスには不登校児が二名いたが、半年もたてば二つの空席は当たり前になり、そこに目をやる人はいなくなっていた。愛花は宇田川君と同じ小学校の出身だったから、彼が男の子に殴られたり蹴られたりするたびに、宇多川君も早く不登校になったらいいのに、と思うのだった。そしてそう思いながらも、そうしない彼の気持ちもわかるのだった。
 今、こうして一時的にでも、平和に雑多な教室の一部となって、友達と二人でしゃべっているのは楽しいけれど、不自然なことに思えもするのだ。《自分だって、いつ仲間はずれにされるかわかったものじゃない。でも、されたって、きっとあたしは、学校にくるだろう。そんなこと、死んでもパパとママに知られたくないから……》
「ねえ、今度のバレンタインにあたしさ、義信にチョコ渡そうと思ってるんだ」
 それをきいたとき、愛花の胸が小さく動悸を打った。
「義信って、二組の石田?」
 わかっていながらきいてみる。愛花の靴下は模様が入っていた。それは校則違反だ。愛花のスカートは琴美よりもずいぶん長かった。それも校則違反だ。
「他にだれかいたっけ?」
「さあ」
 幼馴染の「よっちゃん」は、学校では「よしのぶ」とか「いしだ」とか呼ばれているらしい。クラスが違うのでほとんど会うことはなかった。ごくたまに朝家を出るとき出くわすことはあったが、二人とも完全に無視状態だった。だいたい愛花は遅刻魔だったから、朝はいつも脳が酸欠になるほど自転車をこがねばならないのだ。
「でね、愛花って、家近所じゃん。いっしょにきてくれない? なんか一人じゃ勇気でなくって」
「えーっ、なんで愛花まで?」
「お願いだから。マグナムのシュークリームおごってあげるからさあ」
 「マグナム」は学校のそばに最近新しくできたケーキ屋さんでけっこう人気があった。 
「ケーキの方がいいな」
「ケーキでもなんでもあんたの好きなのにしていいからさ、ね。きてね」
「……うん、まあ、いいんだけどね」
《なぜって、別にケーキが食べられるからではなく、あたしは義信のカノジョでも友達でもないんだから……》
 ただ、愛花は大切にしていた。小六の最後に回したサイン帳に残された、あの短い文章を。
「僕は小さいころ、田代とよく遊んだ。覚えているかな。田代のうちでウィスキーのミニチュアびんを飲んでよっぱらった僕のことを。中学になっても勉強がんばれ。クラスがばらばらになっても僕はあの思い出を忘れないだろう。では、さらばじゃ」
 たわいもない言葉だったが、なぜか、他のどの女の子の気の利いた文章よりも心が動いた。勇気づけられるような、抱きしめたいような気持ちを受け取ったのだ。
 
 琴美は大人しくはなかったが、特別目立つ子でもなかった。ようするに、普通の女の子といってよかった。愛花はこの一年で次々と友達を変えた。それが不良と呼ばれる子であれ、クラスで一番頭のいい子であれ、愛花はだれとでもすぐに仲良くなったが、なぜか長続きしないのだった。琴美は頬がひどいニキビで覆われていたが、それをなくしたら、なかなかの美人だと愛花は思っていた。琴美には、そんなことは一言も言ってあげなかったけれど。
「本当に石田の家に持ってくわけ」
「そのつもりだけど」
「学校で渡したほうがいいんじゃない?」
 愛花は、どちらにしても自分がまぬけにみえないかが心配だった。チョコを渡す子のお供なんて。
「それか、下駄箱に入れるとかさ」
「えーっ。だって、もし、違う子が先に入れてたら、どうすんのよ」
 ……アイツ、そんなにモテないと思うんだけど……ひそかに愛花は心の中でつぶやく。
「それに、手渡ししたいのよ。学校じゃ、だれに見られてるかわかんないし」
 家だっておんなじじゃないか……それにしたって、なんであたしがご一緒しなきゃならないんだろう。まったく。……
「とにかくっ、渡すときは、愛花はどっか見えないところに隠れてていいから」
 琴美はニキビで赤い頬を、ますます赤くさせている。愛花はなんとなく、うらやましくもあるのだった。今までチョコをあげたことなら、何度でもあるけれど……別に好きでもなんでもなかった。チョコを作ったり、ラッピングしたり、みんなとキャーキャー騒ぐのがおもしろかっただけで。
 好きってどういうことなんだろう……。ママもパパも、もうほとんど口をきかない。あたしだけに猫みたいに擦り寄ってくる二人。あたしがしゃべらないと食事のときはテレビの音だけ。パパの一人笑う声と。
 ふいにつのってくる淋しさが愛花を大人びてみせた。
「なに、愛花、また遠い目してるよー」
「はあ? うるせーよ」
 愛花は恥ずかしくなって琴美をばしばし叩いた。
「ちょっと、痛いよ、やめてよお」
 愛花は必死で愛花の攻撃をよける琴美を見て笑いながら、ついていって、隠れたところから久しぶりにおろおろうろたえる「よっちゃん」を見るのも悪くないかも……と思いはじめていた。
「あそこよ」
 愛花はこげ茶の手袋をしたまま、指をさした。
「あれ?」
 二人は電柱の影で囁きあっている。
「うん。あの茶色い家。ドアに金の飾りがついてる」
「わかった。じゃあ、いってくる」
 琴美は長いマフラーを翻して目的地へ進んでいった。愛花はただ見ているだけなのに、自分の方がどきどきしすぎて、どうにかなってしまいそうな気がするのだった。しかし、ドアチャイムをならそうとした瞬間、彼女はダダダと全力で戻ってきた。
「ちょとお、なにしてんのよお」
 愛花はびっくりして、戻ってきた琴美の頭をベシッと叩いた。気温が低いから、叩いた手のほうがビリビリ痛んだ。
「だってえ、こわいんだもん……愛花、いって説明してきてくれない?」
「なんで、あたしが」
 愛花は断った。三回。強く。すると、琴美は瞳に涙をためて、やめると言いだしたのだ。
「はあ?」
「今回はあきらめるわ。違う方法を考える」
 愛花はイライラしてくるのだった。ここまできて、なにもしないで帰るなんて、この女はバカだ。女の腐ったやつだ。そっちからさんざん頼んでおいて……。
「わかったわよ。じゃ、呼んだらすぐくるのよ」
 愛花は泣きべそをかく琴美を残して、またしても校則違反の派手なカーディガンをはおったまま、ずんずん進んでいった。
 チャイムの音が頭から響き渡る。二秒、三秒……
「ハイ」
 インターホンに出たのは、義信の母親だった。その声をきいたとたん、義信の母親の、むせるほどの化粧のにおいが蘇ってきた。《確か、巨大な指輪をつけてたんだ。真ん中にホンモノの蟻が埋め込んである鼈甲色のやつ。》
「あっ、あの田代ですけど」
 舌がうまく回らない。愛花は自分の声じゃないみたいだと思った。
「えっ、愛花ちゃんなの? ちょっと待ってね」
 義信の母親はすぐに玄関を開けた。懐かしくて強烈なにおいといっしょに、大きな体をした「よっちゃんのおばちゃん」が現れた。胸元に熊の描いてある割烹着を着ている。三匹の熊の上にLOVE LOVE BEARという文字が躍っている。それにしても、こんなに近くで見たのは久しぶりだ。以前に比べるとなんとなく年をとったような気がする。あいかわらず化粧は濃いが、巨大な蟻指輪は消えていた。
「あらあ、久しぶりねえ、すっかり女の子っぽくなっちゃってえ。お母さんにますます似てきたじゃないのお」
 義信の母親の語尾がいちいち上がる。愛花は、へらへらとした笑顔をつくって彼女が落ち着くのを待っていた。
「それで、今日はどうしたの?」
《あ、説明しなきゃ》愛花から瞬時にへらへら笑いが消えた。
「えーと、よっちゃんじゃなくって、義信君に用のある女の子がそこまできてて、えーと、義信君いますか?」
 ものすごく早口になり、言っていることが支離滅裂な気がしたが、間違っても自分の用だとは思われたくなかった。義信の母親は、今日がバレンタインだと知っていたのだろう。なんとなく、意味ありげな微笑みかたをすると、ドアの外にチラリと視線を走らせてから、優しい、というか、動揺を隠したような声で言った。
「ええ。今呼んでくるから。ちょっと待っててちょうだいね」
「よしのぶー」
 彼女は玄関を開け放したまま大声で息子の名を叫び、季節はずれの白いレースのカーテンで仕切られて、おぼろにしか見えない廊下の奥へ消えた。
 
 愛花は電柱の陰に隠れたきりの琴美に思い切り手招きした。
「ちょっと早く、くるわよっ」
 しかし、琴美はこない。何度呼んでもこない。そのうちにいかにも男、といった足音が家の中から響いてきた。レースのカーテンが揺れた。
 胡散臭そうに、面倒くさそうに、義信は昔の面影をそのままにとどめた顔を、しかしずいぶん男臭くなった顔を、それでもやはり気弱そうに、キリンのような臆病さで、レースのカーテンから突き出した。目が合った。目だけは変わらないのだ。愛花は頬が赤くなるのを感じた。
「なに?」
「あたしじゃなくってさっ」
 愛花は恥ずかしさを打ち消すような大声で言った。カーテンの奥では母親がちゃっかりひかえていることだろう。
「あの子がね、琴美が、あんたに渡したい物があるって」
 言いながら愛花はだんだんと悔しくなってくるのだった。なぜだかはわからないけれども。
 愛花が振り返ったとき、琴美は依然電柱の影にいた。濃紺のダッフルコートのはしっこと、長い緑のマフラーが情けなくはみ出している。
「ちょっと出てきてくれない」
 愛花は琴美ではなく、顔を出した位置以上は近づこうとしない義信に頼んだ。
「……」
 義信はカーテンから離れると、黙ったまま大きな靴、たぶん愛花の二倍以上はありそうな巨大な靴に足を突っ込み、玄関から外へ出てきた。男の子の尖ったにおいが愛花の鼻先をかすめていった。義信が、痩せていた、もやしみたいなよっちゃんが、自分よりもずっとたくましくなっていることに、愛花はあらためて驚いた。長袖のチェックのシャツに包まれた背中から思わず愛花は目をそむけてしまう。
「どこ?」
「あそこ」
「オレがいくの?」
 オレだって…… 
「だって、あの子、動かないんだもん」
 かすかにヒゲが生えている。声も変わっていた。なにもかも。こうして意識するまでは普通のことだった成長が、今、皮をはがれたように生々しく愛花を責める。義信は蟹股で進んでいった。愛花はそのうしろを少し後れて歩いたが、琴美のいる電柱の前で二人はならんだ。まるで昔のように。
「連れてきたよ」
「ヒッ」
 琴美はおかしな、しゃっくりみたいな声をあげた。それから、おそろしさのあまり、胸元にギュウギュウ抱きしめて潰れかけた、リボンのひらめく箱とともに、義信を見上げた。
 愛花はさっさと、そこから遠のいていった。そしてずっと離れた電柱に、二人の声も、なにも聞こえないくらい離れた電柱に背をつけて、もたれかかった。愛花はここにきたことを後悔していた。なにかが終わってしまったこと、そして、もう二度とそこには帰れないこと、彼女は今はじめて気づいていた。自分にも、過去があるのだと。
 
 足元に一瞬白い羽がひらめいた気がした。
「あいかーっ」
 琴美の声に顔を上げて振り返ると、むこうから一人で駆け寄ってくる友達の、濃紺のコートと緑のマフラーに、まっさらな雪が落ちてきていた。
 
                                  (了)