「幼馴染」
※読みやすいように行間はわざとルーズにしてあります。
(小一の春のこと)
「ねえ、あっちからいこうよ」
愛花はぐっと指をのばして自分たちが歩いている道から枝分かれした、細い道をさししめしている。義信は気弱そうな瞳をさらに奥にひっこめて、愛花の指の先をちらりと見てから、俯いて言った。
「たしか、その道は通っちゃいけないって先生が言ってたよ」
義信は、背が高くて体が極度に細い。全体にふっくらとして発育の進んだ愛花の横に立つと、バランスを欠いて映る。
「うそっ。あいか、そんなこときいてないよ」
二人の鼻先をくすぐるように薄い、軽やかな風が吹いてきた。それは愛花の指が示している方向からだった。
「こっちの方が近いみたいだし。どうせ、だれもいないよ」
「……」
「だいじょうぶだってば。ほら、いこっ」
愛花はその細い土の道の方をどんどん進んでいった。義信を振り返りもしない。白いレースのついた靴下が、膝から下をぴっちりと包帯のように覆っていた。
《なぜずり落ちないのだろう。僕の靴下はいつもずり落ちてしかたないのに……。》
パンツの見えそうなほど短い襞スカートの中でおしりが揺れている。幼稚園のころから変わらず、妙に存在感のあるおしりだ。義信は、だんだん小さくなってゆく赤いランドセルを見ているうちに不安になってきた。ついていきたくはなかった。だけど、一人で帰るのはもっとこわかった。愛花はすでに、禁じられた道の際から、もこもこと葉のはみ出した胡桃の木の下まできていた。この先の空き地は近所に住む獣医の私有地であることや、獣医は暇さえあれば大仰で風変わりな自分の邸宅から、望遠鏡で侵入者を見張っているという、そんな嘘か本当かわからない噂のことを、四月に入学したばかりの二人はまったく知らなかった。
愛花はおかしくてたまらない。ちゃんときこえていた。義信のランドセルの揺れる音。自分を追いかけてくる荒い息づかい。彼が愛花のすぐうしろにたどりついたとたん、愛花は待っていたように、振り返って言った。
「おそーい。よっちゃんってほんと、グズなんだから」
義信は斜めうしろから愛花を恨めしそうに見たが、なにも言い返せなかった。口の中だけモゴモゴ動かしはしたが。
二人が道の真中辺りにくると、木の幹が両側から生い茂って、頭の上で開けた傘のように光を遮った。道は重なり合った葉のつくる、網目のような隙間を残してほとんど陰になってしまい、薄暗くしんみりとしてしまった。
「木のせいで寒くなったよ。こらあー、木ー、どけえ」
愛花はそう言ってジャンプして、丸い緑の葉を手で叩こうとしたが、ぜんぜん届かなかった。さわさわと音をたてて揺れるから、からかわれているみたいだ。
しかし、この道はもう終りかけていた。ほんのりと白い出口がすぐそばまで迫ってきていたのだ。
二人は光に導かれるように、角を右に曲がった。道は急に広くなって、風がゴウッと吹きつけてきた。二人は「うわあっ」といっせいに体を折り曲げる。風がいってしまってから二人は顔を見合わせた。愛花の長い髪がバラバラに乱れて、ぽっちゃりした顔を半分くらい隠してしまっていた。
「すごい風だったね」
「あーびっくりした」
風はそれきりだった。光を遮っていた木々は消えて、水色の空がいっぱいにひらけていた。土の道はすぐ目の前で野原のような空き地に繋がっていた。錆びたような色をした木の柵で囲ってある、空き地のずっと向こうに大きな家が見えた。四角くって、屋根が平らで、真っ白で、おまけに白い螺旋(らせん)階段までついていた。義信は螺旋階段が苦手で、見ただけで眩暈(めまい)がしそうになる。建物はそれっきりだった。あとは、なにもなかった。春の日のまだ若い、柔らかな草の上を、二人は手をつないで歩いていた。だれもいない。ちゃんと頭のある、短い自分たちの影がおどけたようについてくるだけだ。
義信は、愛花の影を足で踏みつけたりしながら、さっきまでの不安な心も、恨めしい気持ちもいつのまにか忘れていた。いつもの道よりもずっと気持ちよかった。愛花は気にいった野の花を見つけると、しゃがんで摘み取ってしまう。そして、制服のポケットに入れると、また義信の手をとって歩きはじめる。
《あたたかい……。》濃紺の制服が日の光をどんどん吸い込む。義信は空を見上げ、太陽がどんなふうだか確かめようとしたが、眩しくて見つめることなどできなかった。
「空って雲よりもっと上にあるって知ってた?」
愛花が丸い顎を上の方に向けて得意そうに言った。太陽の光にあてられて、頬に生えた産毛が白く輝いている。
「どれくらいさ」
急にそんなことを言われて義信はびっくりしたが、平気そうな声を出した。
「さあ、でも雲は飛行機でいけるけど、空はロケットじゃなきゃいけないんだって」
二人の瞳は空と雲でいっぱいになっていた。
「空の上にはなにがあるのかな」
「あいか、宇宙飛行士になろうかな」
「じゃあ、空の上からボクのうち見えるか確かめてきて」
「いいよ。あっ。また見っけた」
愛花は義信の手を振り払うと、ちろちろ揺れる白い花に飛びついていった。もうポケットはいっぱいになってしまっていたので、愛花はそれを片手でつまんだまま戻ってきた。義信は愛花が再び彼の手を取ってからも、まだ空を見上げていた。
彼は動いてゆく雲と進んでゆく自分が同じ場所にいるような、不思議な浮遊感にとらえられていた。自分の体の思いがけないほどの軽さを、義信は愛花には黙ったままで味わっていた。
そのとき、柵をまたいで一人の人間がずかずかやってきたことに、二人はまったく気づかなかった。空が割れるような声が響き渡るまでは。
「こらっ、おまえらあ、どこの子じゃあ」
二人はびっくりして口を開けて立ち止まり、互いの手を離した。愛花の太短い眉毛はますます上がり、義信の細くて長い眉毛はますます下がった。愛花のもう片方の手から死んだように一本の白い花が落ちた。動けない二人にむかって、遠慮なく近づいてくる声の持主を見つめながら、義信はすでに泣きたくなっていた。《やっぱり、僕の言ったとおりだった。》愛花は呆然としたまま、立ちすくんでいた。
けして走らずに、追い詰めるのを楽しむように、こちらに迫ってきたのは、一人の中年男だった。太陽が眼鏡に当たってピカピカ光る。目からビームを出しているみたいだと、義信はあっけにとられてしまう。愛花はどんどん大きくなってくる、その丸っこい顔からいっときも目をはなさなかった。口は一文字に結ばれている。鼻腔がだだっ広く横に広がっている。頭は禿げ上がっていた。目は……目はいつまでも光って見えない。義信は、両手で自分のズボンをつかみ、目をつむって震えはじめた。ついに、中年男は二人の前に立ち、いきなり拳骨をくらわした。
「だれが入ってきていいいうたんじゃ?」
愛花は頭を両手でおさえて黙っていた。義信は泣いていた。
「おまえら、城山小学校の子か。先生に言われたじゃろおが。ここは立ち入り禁止じゃて」
愛花はやっと男の目を見ることができた。その目は大きくてきっぱりとしていて、怒っているのに、なぜか笑っているように見えた。
「今度入ってきたら、おまえら犬のエサになるぞ」
そう言いながら、男は二人の周りをいったりきたりした。ゆっくりと、じろじろ見つめながら。彼が再び立ち止まったとき、「カカカ」という笑い声が二人の頭の上からふってきた。
「坊主泣くな。そんないとうないわい」
笑われると、よけいに義信は涙が出てきてどうしようもなくなった。
「ワシが憎いか。坊主」
男はそう言って義信の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。そのひょうしに鼻水がたれて、透明な糸をひいて地面に落ちた。義信はあわてて鼻を拭う。するとまた涙が爆発的にあふれだす。
「いいか。ようきけ。ここはな、しょっちゅう野良犬がやってくるんじゃ。噛まれたらおまえらみたいなチビは死ぬぞ。わかったな。二度と入ってくるなよ」
義信は泣きすぎてむせながら、必死に首を縦にふった。
「よし、もう泣くな。男のくせに」
「ほら、あっちから帰れ。嬢ちゃんこの坊主連れてったってくれ」
愛花は義信の涙と鼻水でべちょべちょになった手をひっぱって空き地を出ていった。
結局二人はもときた道までひきかえさなければならなかった。うしろで見張っていた男が完全に見えなくなっても、二人は背中のほうが気になってしかたなかった。
実をいえば、拳骨は軽いものだった。しかし、義信は頭が裂けているのではないかと思うほど、いまだにそこに神経が集まってくるように感じられるのだった。拭っても拭っても、涙が溢れてきた。
「いったあー」
愛花は、手でその広いおでこを丸出しにして「いったあー」と繰り返していた。殴られたのはもっと上だったが。彼女は謝るかわりに、一度だけ、いつまでも泣いている義信の方を見て、ばつが悪そうに目をそむけた。
帰ってきたアスファルトの道の先には、いつもと同じように、他の生徒たちが歩いていた。特別なものはもうどこにもなかった。二人は手をつなぐこともせず、黙ったままで歩き続けていた。
義信と愛花が近道の出口のすぐそばへきたとき、二人は同時に止まって、道の奥をさぐるように見た。入り口と同じような小さな出口。しかしその奥には違うもう一つの世界が確かにあったのだ。
「ここから、出てくるはずだったのにね」
「惜しかったね」
義信の瞳には、あの空き地がうつっていた。なにかの合図みたいに、豪快に吹き渡っていった風の音。さくさくなる草のしんなりした感触。怒られたことも、拳骨の衝撃もすっかり忘れて、自分が雲になったような気持ちがしたことを、思いだしていた。
★2に続きます・・・