十年をふりかえり進まう

山城高校バスケットボール部監督
小森正己

 十周年を記念して、先輩諸兄姉が十月に新築になった会議室で、私と細川先生の為に記念式典を持って下さった事を心から感謝致します。
 協会より藤野会長、遊津副会長、学校側より高乗校長、林副校長先生も御列席頂いて、十年間の苦労も一瞬して消えた様な気がしました。
 頂いた記念品は、私の一生の中でもっとも貴重なものの一つになると思います。
 思い出は尽きないものが多くあります。私の頭の中で整理した十年間の歩みを年度別に見て、私は恵まれなかったチームの諸君にも、一様に深い愛着を感じます。勝つ事は容易ではなかったが、敗れたとしても決して容易なトレーニングではなかった筈である。
 特に私が病気中にO・B会が山城の生命をかき立てる様に努力して呉れた事は今の山城の全盛を見た一つだと思う。女子のニ、三、四回の十一会の人々が、私の病気中に私自身に寄せられた優しい心尽くしも忘れられない。勿論各回卒業生が私の療養中に寄せられた好意は感謝に堪えないものがあった。
 各回卒業生にそれぞれの思い出と愛着を感ずるが心残りがしてならないのは宮井伸一君の死である。
 これ丈は何としても私の心に傷跡として残る。今、彼がいたらと思うこと度々である。
 捨石になって貰った年度の諸君には誠に済まないと思う。
 男女を一緒に見ていた記録を見ていると矢張りいくら元気でもどちらかに力が注がれていた結果が出ている。
 従って私の病気を機会に丸山先生(現細川先生)が、来て呉れた事は、全く山城には幸運であった。
 兎に角、女子は身体の都合で私が専念し、男子の指導を丸山先生が専念してくれる事になった。
 若さと力強さで生徒にぶつかった丸山先生の三年ほどは成果がみられない訳ではなかったが、今一息の所で涙を呑んだ。私も直系の後輩の指導に一種の信頼感を感じづつも不安がないでもなかった。この不安を一掃して呉れたのは、西日本優勝で、八分どうり任せられると思った。その翌年からは殆ど任せられると思った。完全に任せたのは武蔵に敗れた時に彼の作戦の正しさが立証されたからである。その後の細川先生の指導は全く筋を通した立派なものである。研究と洞察が充分なされている。私も女子に専念する気持ちになったのはその頃からである。
 今、山城は最近の一頂点に立っている。この頂点は、多くの先輩の基盤の上に作られたものである。
 第十一回インターハイ優勝で、細川先生と抱き合って初めて喜びあったのは、私の夢を再現してくれたから許りではない。私達の直系の指導者として立派な成長を見せてくれたからである。叱り続けたとは言葉が悪いが全く勝ってもまだまだとブレーキをかけた私のブレーキのとれてしまった喜びでもあった。
 勝ち続けても必ずつまづく事がある。このつまづきが次えの進歩である。山城もつまづいてもつまづいても、今後限りなき前進を続けるであろう。
 私達の生命の限り進むことを期待している。敗れても進むことを怠ってはならない。
 勝つことは大切である。
 優勝とは、あらゆる意味に於いて優れていることだと私は常に要求し続けてきた。
 コートマナーもスポーツマンライフも、この点ではお互いに自重自愛したいものである。
 学校長は駅頭で素晴らしい見送りの言葉を選手に贈った。 
 「負けまいと努力しなさい。」
 若い選手に与える教育的な言葉としては長い私の経験ではいい言葉だと思う。固さをとりほぐす言葉だ。
 こんな具合に、私達はあらゆる面での協力が、援助が、あった事を忘れないで行きたいものである。
 今後の山城が立派な歩みを続けて行く為に私自身もみんなも含めて、協力援助を忘れない事いがいにはない事を前進を再開するに当って誓いたいと思う。