サイバー老人ホーム

3.山陰思い出を求め

 気取った題名になっているが、実はこれが「青春18キップ」の最初の初物である。初物と云うのはどうしてもおっかなびっくりになるのは仕方ない。

 なぜかと云えば、値段は分かったが、果たしてどこまで行けるかと云う事が皆目見当がつかない。

 しかし、この見当もつかないと云うのは、見方によっては面白い。初めから見当がつく事ばかりであったらばかばかしくてやってはおれない。それが証拠には我々のような現役引退者を見ればすぐにわかる。いまだに現役時代の見当の付く事にこだわって、何もすることもなく家でくすぶっている。

 そこで一番無難なところを選んだ。何が無難かと云えば、毎日見ている電車の目的地にすれば間違えようがないからだ。ただ、電車の終点まで行って帰ってきただけではこれも面白くもない。

 だいたい、我々の年齢になると、例外なく「不機嫌症候群」になる。これは読んで字のごとく、何か面白くない事が見つかると不機嫌になると云う症状である。

 そこではたと考えた。行きどまりになってすごすご引き返すと云うのも面白くない。したがって終点になったらそこで乗り換えて、更にその先に行く、しかもその先に何かの思い出でもあれば申し分ない。

 その結果、目の前の福知山線に乗って山陰線で行けるところまで行く、但し、「阿房列車」の原則、朝八時台に出て、夕方四時台に着くと云うことはしっかり守らなければならない。それと、安くあげると云うのも当然で、一日中、ぐ~たら過ごしているのと同程度の支出で抑えると云うことである。

 これで、温泉にでも入れれば申し分ないが、そう世の中甘くはないだろうとは内心思っていた。とりあえず、八時三十分発の篠山口行きの乗る。

 途中の三田まではあほな男では誰でも経験のある一杯機嫌に乗り込み、尻の温まった頃熟睡し、途中のトンネルの音で気がついた時には後の祭り、途中で気がついても三田まで乗りこさないと帰れなくなる。もっとも甚だしいのは、福知山まで乗り越したと云う豪の者がいる。

 福知山までは神妙に乗っていた。そろそろ柿も色づき始め、稲穂も黄金色に染まってきた。驚いたのは、福知山までの電車の運転手がうら若き女性である。それも、なかなかの別嬪で・・・。なあ、世の中こうやで、今更塔も立ち切った何の取り柄もないジジイなどお呼びでないのは当たり前である。

 福知山で、乗換に約一時間の間があるので、降りて構内の売店で昼飯と飲み物を買う。飲み物などと気取った言い方をしたが、当然酒である。それもどっさりと・・・、と云いたいがそうはゆかない。

 実は十年も前に若かりし頃の悪しき生活習慣の因果により、致命的な生活習慣病に罹ってしまったのである。以来、泥縄式とはいえ節制に相勤めているが、とりわけ最近になって医師から厳重にレッドカードを突きつけられたのである。

 これで生活習慣を改められなければ男・・・・、いや頑固ジジイがすたる。伊達に頑固を張っているわけではない。そこで、生活習慣の三悪、即ち、酒、甘い物、そして女・・・・、いやこれは昔からそれほど甲斐性があったわけではない。

 そこで、酒については週に月、水、金は休肝日、しかもその他の日も全て一杯だけ・・・・、なんと未練たらしいと思われるが、まあ、この程度なら何とか許してもらえるだろう。

 ところが、人間が甘いも辛いも嚙み分けてできた人間なら申し分ないが、食い意地だけが張って甘いも辛いも呑みこんでしまう両刀遣いだから始末が悪い。とりわけ、甘い物は全く目がないときている。

 そこで、毎月十日と二十五日を「お菓子の日」と決めて、それ以外は絶対に食べない事にした。ところが、こういう日はなあ・・・・、多少は大目に見てもいいのじゃあないかと思うのである。よってうまい事を考えついて、次回の「お菓子の日」を前借してくることにした。

 誰にって・・・・、そりゃあカミさんに決まっている。このカミと云うのが「神」であるか、「上」であるかは深くは考えない事にした。

 そんなわけで、久しぶりに甘辛を堪能している間に二時十六分に浜坂に着いた。浜坂の宿は、「駅から時刻表」と云うサイトに乗っていた民宿で、初めから全く期待していなかった。それと云うのも、「阿房列車」試運転と云うことは、宿賃は最低の七千八百円にした。

 ところが着いてみると、建物はお義理のきれいとは言えないが、なに、建物なんかどうでもよい。寝てしまえば目をふさいでしまうし、我が家とてそれほどの御殿でもない。

 この浜坂と云う町、何年か前に融雪パイプの工事をしていたら偶然に温泉を掘り当て、今では温泉の町になっていたのである。しかも、近くに名前は忘れたが、「温泉センター」が出来ていて、そこでのうのうと温泉に浸ることが出来た。

 それから、これは以前に知っていた事だが、この浜坂は加藤文太郎さんの生まれ故郷だった事を、宿のパンフレットで気が付いた。この事をさも初めて知った風に宿のカミさんに話すと、親切に「加藤文太郎記念図書館」まで案内してくれた。

 この加藤文太郎さんとは、登山家の中では伝説的な人であり、私にとっては神様みたいな人である。加藤文太郎さんは、大正時代からの登山家で、新田次郎さんが書かれた「孤高の人」のモデルで其の健脚ぶりはまさに神業である。これについては、別掲「孤老雑言」の「195.孤高の人」に載せている。

 それと、もう一つ予想外だったのは、出された夕食も、朝食も全て申し分のないほど美味かったのである。これもかつての生活習慣病の反省から、普段から、ニワトリの餌のような粗食に飼いならされていて、その為の節食により飢えていたのかもしれないが、同行のカミさんも偉く感心していたので満更はあるまい。

 聞いてみると、この宿のカミさんは、「蟹ソムリエ」と云う称号を持っていると云うことで、JRのパンフレットにも載っている。これが縁で、今度は少々奮発し、暮には近所の爺婆を誘い合わせて蟹を食いに行く事になった。

 翌日、宿の夫婦に近くの諸寄漁港を見下ろせる場所まで連れて行ってもらい、さらに居組と云う無人駅まで送ってもらった。

 これがまたよかった。以前、NHKの番組で、肥薩線の真(まさ)幸(き)駅と云う無人駅を舞台にした「駅 四季の物語」と云う番組を見て無人駅に偉く興味をひかれた、

 駅と云うのは、普通の家屋と違って、そこを通った多くの人のそれぞれの思い出が残された言わば文学的遺物である。かつては、この居組駅にも駅員がおり、多くの人が今は無人となった改札口を行き交っていただろう。

 そして、鳥取方面に向かう人は陸橋を渡って下り線ホームに向かったが、今は陸橋も通せん棒がしてあり、あんなに大勢いた人は一体どこに消えてしまったのだろうかと、つい柄にもなく感慨無量になる。

 帰りは鳥取まで足をのばし、そこで因美線に乗って、津山を目指した。津山に何か目的があったのかと云えばそんなものはない。目的はないけど、行ってみたかったのである。
 途中、智頭駅ではホームが違う乗り換え時間が3分しかなく、社内で車掌に話したところ、相手方車掌に連絡をつけておいてくれた。

 本当は津山城址を見たかったのだが、初めからそんな時間はない。何故行きたかったかと云うと、まだ学校にも上がらない頃、口ずさんだ事のある童謡が気になっていたからである。
それは、「テンコウセンハムナシュウスルナカレ・・・」と云う歌詞だったと思うが、なぜかこの一節が記憶に残っている。その後、読んだ吉川英治の「太平記」だったと思うが、この話が出てきた。

 何でも、元弘の乱で後醍醐天皇が幽閉された時、何とかという忠臣が救出に向かったが既にはそこにいなかったので、桜の木を削ってこの詩を書き遺したというような内容だったが、その場所が津山城だったと思っていたが、本当は院庄であり、私の記憶もかなりいい加減だったが、この年になれば、細かいことはどうでもよい。

 ただ、今から、六十五年も前になぜこの事を覚えていたかと云うと、この童謡が物悲しい調べてあり、これが五歳頃の記憶として今以って心の隅に残っていたのだろう。

 津山城址は一瞬にして見えなくなったが、ここまで来たというだけで十分目的は達せられた。

 ここで、もう一本缶ビールを前借し、岡山に向かう。鳥取も、岡山の現役頃の思い出の地だが、会社と云うものを引っ付けて考えると心に残るものは何もない。

 岡山のホームで「阿房列車」の大先輩の婆さんと一緒になった。何でも茨城県のいわきから九州まで目的もなくいってきたそうで、暫く人と話していなかったのだろう、尼崎に着くまでの二時間半、ずっと話続けて、こっちはうなずき続けた。

 ただ、何を話したのかほとんど聞き取れなかったが、聞き取れようが、聞き取れまいがそんなことはどうでもいい事であって、それでも赤の他人とコミュニケーションが有ったのである。尼崎には、老人時間は少々オーバーしたが七時過ぎには帰りついた。