サイバー老人ホーム

8.山陰ジオパークの旅

 昨年夏(平成23年)、山陰ジオパークの旅に出かけた。メンバーは何時もの通り、10人連れである。実は、「青春18キップの旅」は年一回と決めていた。そう言うルールが有るわけではなく、私が勝手に決めたのである。

 まあ、経済的理由に挙げるほど金はかかっていないが、これって、結構疲れるものである。尤も、各駅停車マニアのEさんなどは、年に何回となくやっていて、おまけに上州草津まで一日で行くと云う豪の者だから、これしきの事でへこたれていたら笑われてしまう。

 尤も、Mさん自身は、長年の御苦労がたたったのか、前立腺不調で暫く自重している。その分奥方が「青春18キップ」の仲間として、夫君の分までも一気に取り返しているようである。

 さて、少々敬遠気味のこの「山陰ジオパークの旅」を提案してきたのは、春の紀伊半島一周の旅に同行したMさんである。Mさんも、私とほぼ同じ病持ちと云うことで、折角同病の士が申し出たことであり、よっしゃあ、それでは行くかと云う事になったのである。
 尤も、Mさんは、「山陰ジオパークの旅」を推奨したわけではなく、「どこかに行こうや」云ったので、私が勝手に「よっしゃあ」と云っただけである。

 そんなわけで、私としたら、少々気乗りしなかった事もあって、ごく手近のところと云うことで、「山陰ジオパークの旅」となった次第である。

 そもそも、「ジオパーク」なる言葉、近頃よく耳にする言葉だが、その意味するところは定かではない。そこで、早速、Goo辞書を牽いて見た。

 すると、驚くなかれ、「ジオパークとは、科学的・文化的に貴重な地質遺産を含む自然公園の事で、地質学(geology)と公園(park)を組み合わせた造語であり、地域の地史や地質現象を示す地質遺産を保全し、地球科学や環境問題などの自然を楽しむための公園である。日本語では、「地質遺産」と訳しているが誤訳であって、日本ジオパーク委員会では「大地の公園」と云う言葉を使っている」そうである。

 な〜るほど、これは大変なものである。浮かれた爺・婆が大口を開けて笑い転げておれる様なものではない。絶えて久しい、取って置きのスーツなど引っ張り出して、威儀を正して拝見しなければならないような代物である。

 さて、聊か前置きが長くなったが、斯くして、三度目になる山陰の旅への出発である。と思っていたら、間近になって言い出しっぺのMさんが体調不良のため不参加の旨、申し出てきた。なあ、これやでえ、年寄の先行きの予定などと云うのは・・・・。とにかく、誰もが明日をも知れない余命を抱えているから、その日になってみないと確定的な事は云えないと云うことである。

 急遽、思い出す限りの人を頭に描いてみた。これが女性、云わずもがな、婆さんだったらさほど苦労する事もない。男、爺さんだったらこれが一苦労で有る。即ち、男と云うのは、自ら楽しみを創造すると云う事が出来ない生物で、大概は、酒の力を借りるか、自慢話をするかのどちらかである。

 ところが、たまたま思い当たった爺さんに電話したところ、二つ返事で参加してくれた。
 斯くして、糞暑い真夏の8月28日に出発する事になった。行き先は、山陰竹野海岸、鳥取砂丘、そして、因美線で津山に向かい、津山の先は前回は津山線で岡山に出たが、今回は姫新線で姫路に抜ける事にした。

 第一日目、竹野までは前回の、「山陰思い出旅」と同じ時間割で、山陰線竹野の「休暇村竹野海岸」に向かう。この「休暇村竹野海岸」も以前、娘家族と行った事が有り、三人の孫たちを含め楽しく過ごした経験があり、少なからず良い印象を持っていた。

 この休暇村の特徴は、プライベートビーチとも云える美しい浜を宿のすぐ目の前に持っていて、時節がら、まだ海水浴も楽しめる時期である。尤も、同行者の鰹節の様な肉体美には余り期待するのも気が退けるので、出来るなら他の泊り客のそれに、期待したのである。

 ところが、ここに思いもかけない事態が出来(しゅったい)したのである。それは、どん詰めでM爺さんに変って参加された、N爺さんが驚くほどの能弁家だったのである。

 勿論、能弁が悪い事ではない。ただ、男の能弁と云うのはえてして、自慢話か、エロ話に陥るものだが、このN爺さんの話は実に軽妙であって面白い。これが、のべつ幕なし続いているものだから、外へ出て行く暇もない。

 結局、宿に入って、風呂に行く以外は、最初から、終わりまで、N爺さんの話を聞いている事になった。それは、それで、結構楽しかったが、宿自慢のプライベートビーチはおろか、当時、この夏最後のバカンスを楽しんでいた若い人たちの、取り分け女性の水着姿を拝む事も出来なかったのはいかにも残念であった。。

 その晩は、バイキングであったが、この前の、「休暇村南紀勝浦」とは雲泥の差以上であった。何も、皿や器を食べるわけでもないので、今後はバイキングを本命とする事にした。

 その晩は、女性、いや婆さんたちは婆さんで、爺さんたちは爺さんに分かれて、例によってNさんの一人漫談に耽り、これに、病み上がりのMさんも加わり、Mさんの奥さんの眼を掠めて、イモ焼酎を痛く痛飲した。

さて、翌朝、八時十一分発と云う少々早めの鳥取行きに乗り、鳥取砂丘を目指す。途中、車窓から時々眺められるジオパークの絶景を楽しみ、今年開通したばかりの余目鉄橋に嬌声を上げる。

 もっと、今度の橋は、鉄筋コンクリート製と云うことで、何となく、以前の余目鉄橋が懐かしく思う。ちなみに申し添えるなら、左に写真は、この辺りの名所の一つ「切浜のはさかり岩」だそうだが、どこに有るのかさえを知らなかった。やっぱり、ジオパークを堪能するには各駅停車では無理で、船で回るのが一番なのだろう。

 この日も、残暑がことのほか厳しく、次の目的地鳥取砂丘への旅にはかなり困難が予想された。すると、最高齢のA婆さんが、「わたしゃ、駅で待っている」と言いだした。すると、それを待っていたかのように、次々に賛同者が現れた。

 何故この時期、鳥取砂丘を選んだか、真夏だからこそ選んだわけで、太陽がギラギラと照りつける中、砂丘の中を延々と歩き続け、あの一番高い砂丘の頂上から見た日本海を想像したことが有るか。これぞ、ロマンであり、空しさの感傷の頂点である、と思ったが、賛同者がないのなら仕方がないと諦めかけていたら、思わぬ、援護者が現れた。それは、新しきエース、N爺さんだったのである。

 「鳥取駅で2時間もぶらぶらしていても仕方が有るまい、それならば梨狩りにしたらどうだ」と言いだしたのである。すると、たちどころに賛同者に変り、結局全員で梨狩りをする事に変った。

 あの、「地域の地史や地質現象を示す地質遺産を見学し、地球科学や環境問題などの自然を楽しむ」という崇高なる思いはどこへ行ったのだろう。何と嘆こうとも、女性の食欲に対抗するすべなど有ろう筈がない。

 鳥取駅の観光案内所で聞いたところ、パック形式の梨狩りコースが有ると云うので、タクシーに相談したところ、タクシー3台で、帰りの出発時間まで、しかもサービス価格で待っていてくれると云うことで、一同、気を取り直して乗り込んだ。

 着いたところが、砂丘の近くの梨園、これならば鳥取砂丘でも同じじゃあないかと思ったが、後難を恐れて黙っていた。

 この梨園、入園料が千円、若干団体割引が有って、園内で食べるのは自由、土産代が梨4個までで千円だったかな、とにかく都会のスーパーよりかなり割高の様な気がした。こうなったら、意地でも食ってやるとばかりに、全員が、食うわ、食うわ、私なども、これ以上は梨のなの字も見たくないという、全部で4個も食った。

 おかで、鳥取駅には余裕を持って到着し、前回同様、12時3分因美線に乗り込み、津山に向かう。

 津山で、14時28分発の姫新線作用行きに乗り換える。前回の「山陰思い出旅」では、台風何がしかに依って作用で鉄橋が流されるなどして不通になっていた。従って、今度の姫新線は私にとって、前代未聞の境地である。

 ところで、津山で乗り換えた因美線と云うのは何となく耳触りは余りよくない。それに比較して、 姫新線と云うのは響きが良い。ところが、姫新線の姫は何を指しているか分かるが、新とは何かと思ったが見当たらない。途中、播磨新宮と云う駅が有ってこれかなと思ったが、後で調べてみたら新見だった。

 この線路、中国地方のど真ん中を走っている線路だが、地元の人以外はあまり使われない線かと思ったら、以外にも、姫路に着くまで、一時は立ち席の人が出る位込んでいた。
 もっとゆとりが有れば、楽しむべき風景もいっぱいあったのだろうが、N爺さんの漫談も含めて、何かと忙しい線でじっくり眺めている余裕もなかった。

 斯くして、姫路に16時37分着、5分の待ち合わせで大阪方面行きに乗り換え、尼崎に17時37分着、宝塚には18時6分に帰りついた。聊か焦点のぼけた旅であったが、それは、それで、結構楽しかった。