サイバー老人ホーム

6.能登迷い旅

   私は半島が好きだ。だからと云って、ぺニンシュラと云う語源の由来についてとやかく言いたいわけではない。

 今をときめく流行作家?村上春樹さんが、半島に付いて何とか言っていたか、忘れた。ここであえて、断らなければならないのは、流行作家の後の?マークのことだが、村上春樹さんを指して流行作家などと云う範疇にくくりこんでいいものかどうか迷ったからである。もっとも、それ以外に村上春樹さんが随所で示す、ピカソの絵のようなきらびやかな比喩の仕方も語彙も思いつかないからである。

 それはともかく、今までにもかなりの半島の先端に立った事がある。ただ、今まではどちらかと云えば、会社の慰安旅行や、自分の車でドライブと云うのが多かったが、そうなると記憶と云うのはあまり残っていない。

 そこで思いついたのが、能登半島である。もっとも、能登半島にも、今までに会社の慰安旅行で一回、ドライブで一回行っている。特に、ドライブでは、あの親指を曲げた指の先端の狼煙町の緑剛崎灯台迄行っている。

 ところが、意外と記憶に残っていない。それと云うのも、この時もここから越中五箇山に行って、そこでキャンプすることになっていたのでゆっくり見物などしている暇がなかったということである。

 更に、能登半島を選んだ理由が有った。それも完全な思い違いで、旅が終って帰ってくるまでその思い違いに気がつかなかった。

 何が思い違いかと言えば、桃山時代から江戸時代初期の絵師長谷川等伯の出身地が羽咋だと思っていたのである。勿論等伯の代表作国宝松林図が見れるなどと云う事は考えていなかったが、「休暇村能登千里浜」の前の松林が松林図のモデルだと考えていたのである。

 それと、もう一つの狙いは、宿の前に広がる千里浜である。これをセンリとは読まず、千里(ちり)浜というのは宿に向かうバスの運転手に聞いて初めて知った。

 そこで、今回はお決まりの「青春18きっぷ」の旅、企画して近隣の老人たちに提案したところ、七人が参加してくれる事になった。内訳は、男性が二名、女性が五名、ここであえて断らずとも、いずれも老の付く人たちであり、何れも男女の性の束縛から解放された人々である。ただ、能登半島と云っても羽咋の休暇村であるから、ほんのとば口と云うことになる。

 出発は、例によって福知山線生瀬駅を八時三十五分、しかも前回の「東海道五十三次の旅」の経験から、出発日を日曜日にした。これならば、ラッシュアワーに引き込まれる事もないと思ったのである。

 次の宝塚で急行に乗り換えたが、これが思惑と少々異なり、結構混雑している。それでも、あちこちに分かれて座ることができた。尼崎で、これも前回の失敗に懲りて、敦賀行きの前の方の車両に乗り込む。ところが、ここでもまた老人らしい小さな失敗を重ねる。
 どうせ前に乗るなら、思いっきり前の先頭車両に乗り換えればよかったが、そんな前に行かなくともと云う、老人らしい思い切りの悪さから五両目に乗り込んだ。すると間もなく京都で、前四両に乗り換えということになり、せっかく確保した座席をふたたび放棄することになる。

 それにして、この電車何両編成か知らないが、少なくとの十両編成やそんなものではない。尼崎で乗り換えた時でも、前五両目でもかなり前の方で、後ろの車両ははるか後方に続いていた。

 これで、ようやくこの前の「東海道五十三次の旅」の疑問が解消した。長浜行きに乗って野洲で切り離されたのは、かなり後ろの方で、前の方での動き等は全く他人の事だったのである。

 それにしても、京都での停車時間はせいぜい三分程度のもので、後ろの車両だったらとても間に合うものではなかった。

 それと、もう一つ予想外だったのは、休日だというのに乗客は満員である。参加者の中で、一番若いMさんに席を譲っていただいて途中から何とか全員が座る事が出来た。若いと言ってもお互い老の年齢であり、しかもMさん、最近になって私と同病の経験者であり、云うならば病み上がりで、大変ご無理をさせてしまった。

 この多くの乗客がどうゆう筋のものかと云えば、大かたは年寄であり、しかも「青春18きっぷ」利用者である。この後往き帰りとも、老人の利用者の多いのと、各駅停車の利用者の多いのはどの区間でも同じであった。

 そして、敦賀から福井までは至ってのんびりと、周りの風景を楽しみながら、且つ食べ、駄弁りながらのんびり快適にすごした。

 それと云うのも、同行の男性Mさんも私も同病の止み上がりであり、随って、飲み物については厳しく制限されている。まあ、実態は、過去の不埒な生活習慣の反省から自ら飲酒にはきびしく制限を課しているだけである。従って、ここまではお互いに隠忍自重にこれ勤めてきたが、敦賀で十一時四十三分の福井行きに乗り換えて、ようやく缶ビール一本の許可が下りたのである。そこで、缶ビールを舐めるようにちびり、ちびり飲みながら福井駅の到着し、ここからは十二時四十六分の金沢行きの乗り換えである。

 それにしてもローカル線は良い。北陸線がローカル線かどうか知らないが、この前の東海道線と違って、無人駅があるのが実によい。もっとも、駅のある町や地域では、そんな時代感覚のずれたような事を言ったら叱られるかもしれないが、かつてそれらの駅にも駅員がいて、そこの改札口を通って多くの人がそれぞれの目的地に向かって夫々の物語が展開されていた事が彷彿としてくる。

 そして問題は次の乗り換え駅福井で起きた。福井駅ではかなりの乗客が降り立ち、私の場合は、体の都合でエレベーターに向かった。是には、私以外のMさんや、その中に参加者の中で最高齢のH婆さんも入っていた。ところが、エレベーターに乗り込んだところ、事もあろうに重量オーバーでエレベーターの扉が閉まらない。仕方なく、何人かの乗客が降りてそのままエレベーターは下に下がった。

 ところが、のり残された乗客・・・、というか乗り残されたのはH婆さんだけであったのである。しかも、エレベーターは三階まで止まる事になっていて、乗り換えは二階である。

 漸く、乗換列車に乗り込んで、中を見渡したが、H婆さんの姿が見えない。すぐに近くの階段まで、足の丈夫なMさんが走ってみたが、見当たらない。さあ大変、車掌にその旨を伝えて発車を見合わせるように依頼して探し回った結果、定刻より七分遅れで漸く乗り込む事が出来た。

 一時は、最悪の場合、ひと電車遅らせようと考えたが、それがそうは簡単に行かない。まず「青春18きっぷ」は各駅だけで、急行などには使えない。また、各駅での連絡を考えた場合で、何でもよいから乗ればよいということにならない。

 進退きわまった中で、片足を列車の出入り口に掛けて、何がなんでも発車させまいと立ち尽くした。その結果かどうかわからないが、よくぞJR北陸線、定刻を七分遅らせて発車、感謝、感謝、大感謝である。もっとも、いざとなったら、その前の福井までの列車が、途中で急行の遅れから七分時間調整をしていたので、これを盾に意地でも発車させまいとは思っていた。

 斯くして、羽咋には四時前に到着、宿まで出迎えのバスに揺られながら、運転手に長谷川等伯の事を聞いたが、運転手はもちろん知らないと言う。

 ここまで来て漸くもしかしたら間違えていたかと感づいたが、それならばと等伯の作品がたくさんあると云う寺の名前を言おうとしたが今度は名前が出てこない。結局、帰宅してから調べてみたら能登は能登でも、七尾であった。

 その夜、老人には少々不向きとも思える豪華な料理に舌鼓を打ち、誰ともなしに、「ああ、幸せ!」という誰かの言葉を何度も発しながら過ごした。

 翌朝、朝飯前に、同室のMさんと連れだって憧れの千里(ちり)浜海岸を散歩する。松林を背景に気の遠くなるほど続く砂浜は、見ただけで気分清々する。かつて、北海道旅行をした時に感じた、限りなく続く「大いなる単調」な風景と云うのは身も心も清浄にしてくれるものである。

 帰りは、十時一分羽咋発に乗り、四回乗換えて十三時五十五分に敦賀に着く。ここで約三十分待たされて、十四時予二十三分に乗る。乗り込んでから始めて、北陸線は近江塩津から、近江西線と、近江東線わかれ事に気付く。

 以後は乗換駅尼崎まで一直線、十六時三十五分に尼崎到着、最終到着駅宝塚には十七時二分に到着した。こんなに早く到着するなら、もう少しゆっくりと千里浜海岸を散策しても良かったと思ったが後の祭り、尤も結帰りの所用時間は七時間余りで大差なかった。それにしても、今回はむやみやたらに勘違いや、思い違いの多い旅となったが、これも寄る年並みの至らしむところであろうか。