サイバー老人ホーム

5.天橋立一人旅

 今年の秋も「青春18きっぷ」の旅を企画したところ、七人が参加することになった。そうなると、切符が一枚余る事になる。

 それではと云うことで思いついたのは天橋立である。この天橋立と云うのはご存知日本三景の一つに数えられているが、交通の便は決してよくない。従って、他の二景に比べて、どちらかと云えば、割りを食っているのではないかと思っている。

 そもそも、この「日本三景」と云うのは、寛永時代の儒学者林鵞(が)峰(ほう)が「日本国事跡考」と云う本の中で、「(松島)此の島の外に小島若干有り、殆ど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安藝嚴島と三處の奇觀となす」と書いたことから、「日本三景」の由来となったということである。

 林鵞(が)峰(ほう)とは、徳川家康に仕えた儒学者林羅山の倅である。然らば、この鵞峰先生が、これら「日本三景」に実際に行って見たのかと云うと、どうも定かではない。

 鵞峰先生より百二十五年後の天明八年(1738)、将軍の代替わりの都度行われていた幕府の巡検使に加わった当時の地理学者古川古松軒の「東遊雑記」と云う本によれば、「昔時より、丹州天の橋立、芸州厳島、この松島とを称して本朝の三景とす。余愚眼なるかは知らず、所詮橋立・厳島など並べ論ずべきに非ず」となっていて、「碁に例えて云わば、富士山・田子の浦・美保が関の風景を日本第一とし、それよりもこの松島四、五目も劣るべし」となっていて、その後に薩州の坊の津と丹州天の橋立が続き、「松島に劣る事八、九目なり」となっている。

 残念ながら、厳島と坊の津は行った事が無いが、その他は何れも見ているので、果たして、古松軒氏(うじ)の「慧眼」如何にと云うことで、この目と足で確かめることにした。

 ただ、天橋立には現役当時仕事で鳥取からの帰り、丹後半島を越えて、天橋立まで来た事があるが、この時は車だった。従って、車の中から建物の陰に松の枝先だけが見えただけである。

 出発は、昨年浜坂に行った時と同じで、八時二十七分生瀬発篠山口行き、篠山口で福知山行きに乗り換える。ここで、期待通りの女性運転手のワンマンカー、この間前と同じようにうら若きお嬢さんが、優雅に指差し呼称をしながら、安全運転にこれ勤めている姿を前の方の席に座ってうっとりしながら眺めていたらまたたく間に福知山に着いた。

 ここで、飲み物、と云ってもお茶と、キャラメル・・・・、本当は缶ビールを買いたかったが、本日は禁酒日だから、キャラメルだけにした。

 ところが、ここらあたりから混乱が始まった。次は十一時五分発の東舞鶴行きに乗るつもりだったが、待合室で時刻板を見ているうちに、ここから東に向かうのは山陰線で京都行きだけだと思い込み、それだとその前に十時五十六分の京都行き各駅がある。

 次は、西舞鶴で北タンゴ鉄道に乗換だが、乗り換え時間が五分しかない、それよりかひと車両早く行って余裕を以って乗り換えようという浅はかな考えが浮かんだ。そこへ入ってきた車両に飛び乗って、車内の料金表示板を見たが、西舞鶴なんてどこにも見当たらない。

 そこで、じっくり考えて、「待てよ、こりゃあ間違えたかな」と思い、女性の運転手兼車掌に聞いてみたら、親切に、しかも優しく「西舞鶴へは、次の綾部で乗り換えてください」だって。

 結局、後から来た初めの計画通りの車両に乗り換えて、西舞鶴に向かう。もっとも、この綾部と云う所に少し思い出があり、学校を卒業して最初に入った会社の同期生に、この綾部出身者がいて、彼の故郷を垣間見れたという余禄は付いた事になる。

 西舞鶴で問題の北近畿タンゴ鉄道に乗り換える。出し惜しみをするわけではないが、何故問題かと云うことは後からおのずと分かってくる。

 とにかく目的地天橋立に着いて、初めの予定では向こう岸まで歩いた後昼飯を食おうと思っていた。ところが、天橋立の入り口に到達する前にこの考えは放棄し、意気地なく途中のソバ屋に入って昼飯を食うことにした。

 しかも、禁酒日の誓いを破ってビールまで飲んで・・・・、まあ、これは仕方あるまい、なんと云っても三十五度の炎天下を歩いてきたのだから。したがってこの後の飲酒日から前借したと勝手に思っている。

 食い終わって店の主に「天橋立を向こうまで歩いたらどのくらい時間がかかるかな」と聞いてみた。その瞬間、あるじ殿、口をポカンと開けて、私の顔と体を上から下へ眺めまわし、「そりゃあ、歩いては無理でっしゃろ、片道三キロは有りますやさかい」という。もっとも、この時大坂弁だったかどうかは忘れた。

 「えっ、三キロ!」と云っただけで、後は言葉が続かなかい。黙って勘定を払い、其のまま入口にある智恩寺をお参りし、いざ天橋立に踏みいれる。しかし、踏みいれてはみたものの、とても先へ進めるものではない。従って、半分はおろか、五分の一にも満たない、入口の橋から二百メートルといかなところから引き返してきた。

 まあ、最初から、天橋立のあの楚々たる風情などは考えていなかった。多分、道幅も広く、生えている松も巨木だろうと思っていたが、その思いの更に何倍かのスケールで、目の見えない人が象の尻を触ったなどという代物ではなかった。

 天橋立には、全貌を眺められる股覗きの場所があると聞いていた。但しそこに行くには対岸の傘松公園に行かなければならないということで、とても私の足などの及ぶところではない。多分、古松軒氏も股覗きまでしなかったのではなかろうか。

 結局、すごすごと駅に引き返し、予定の十四時三十一分で豊岡に向かうことにした。ところが、ここで再び混乱が起こった。十四時三十一分は特急と云うことで、青春18キップも、タンゴ鉄道の終日キップも使えないというのである。

 この時間割は、「駅から時刻表」と云うサイトを見て作ったのだが、確か宮津発で特急とは書いてなかったような気がした。改札で押し問答をしたが受け入られず、仕方なく次の十五時六分の各駅停車を待つことにした。

 後になってから分かった事であるが、「駅から時刻表」の宮津発の時刻の前に二重線が書かれていて、これを辿って行くと、この列車の最上部の欄外に↑が書かれていて、そこに「接続」と書かれている。これをクリックするとJR京都発で、福知山経由でタンゴ鉄道宮福線経由で豊岡行きと云うことらしい。

 結局、十五時六分発に漸く乗り込んで、三十分ぐらいのずれかと思ったらこれが大きな間違いとなる。このタンゴ鉄道、窓から見える景色を楽しみにしていたが、これが思わぬ手違いに遭遇する。

 まず、西舞鶴で乗り換えた時も同じだったが、凡そ冷房が利かない。昼飯を食ったソバ屋にも聞いてもたが、「そんなはずはないはずやが・・・・」と云う返事、もしかして、この辺りの人は、涼しいという温度感覚が、私らとは違うのでなないかと思った。なぜならば、乗客は一向気にしていない様子だし、福知山でも、西舞鶴でも、ホームの冷房の利いた待合室をあまり使わない。

 そこで、天橋立の駅員に聞いたところ、さも申し訳ないような顔をして、「あれが限界なんです」だってさ。そう云われてみれば、使っている車両はかなり年代物のジーゼル車、随って出力不足で冷房にまでは力が及ばないということらしい。どうりで車両はかなり年代物で、日除けはごく一般家庭的な木綿の無地のカーテンである。

 車窓の景色を楽しみにしていた私にとってもう一つふに落ちないことは、そのカーテンを、右も左の乗客の一様に閉めている。しかし、その理由はすぐに分かった。それは、右へ、左へのカーブの連続であり、その都度カーテンの開け閉めをしている暇がないということである。

 このタンゴ鉄道でもう一つ楽しみがあった。それは、あのプロ野球の大監督ノムさんの故郷が途中の峯山である。峯山にも以前車では通った事があったが、列車は初めてである。多分、野村監督の若かりし頃、さまざまな夢を描きながらこの辺りを通っていたのだろう。

 結局、豊岡に着いたのは、予定より、五十七分遅れの十六時二十七分、ここで福知山方面に乗り換えるのだが、次の列車まで一時間余り待ち合わせで、十七時三十四分発福知山行きに乗り、福知山で辛うじて十八時五十四分に乗り換える。

 おまけに、この日どこかで事故があったらしく、福知山を七分遅れで発車したが、運ちゃんがこれを取り戻そうとしたのか、線路の上を飛んでいる様に走り、何となく例の福知山線脱線事故を思い出し、それに備えて緊張して乗っていた。宝塚へ帰り着いたのは、三分遅れで、最終的には出発時の予定十九時四十分より一時間二十分遅れの帰着となった。いや、はや、それにしても思わぬ大旅行であった。