サイバー老人ホーム

4.東海道五十三次迷い旅

 今年(平成二十二年)も兄弟会の時節が到来した。そこで、各位に連絡したところ、参加できない者がほぼ半数になった。それはそうだ、この兄弟会も、かれこれ二十年ほどになり、その間に、五人の兄姉を送った事になる。私の場合は、九人兄弟の八番目ということで、多少は若さが残っているということで幹事を務めてきた。

 しかし、何れも古希を越えて、間もなく米寿を越える者も出てくるまでになり、何かとおぼつかなくなるのは当然の成り行きである。しかも、兄弟会などと、会の名前が付くと何とはなしに義務感が生じ、聊か気分の滅入るものである。

 そこで、今後は銘々が企画し、それに参加できるものは参加するということにした。その第一回が熱海旅行としたのである。それと云うのも、兄弟姉妹の住まいが、故郷信州は当然として、東京、名古屋、大坂に分かれていて、これを、それぞれに都合よくということになれば必然的に信州近辺となる。

 そこで、今回はその束縛を離れて、熱海にしたわけである。もっとも、私にしても以前は関東に住んでいて、熱海にも何回か行った事がある。それよりも、我が愚妻との新婚旅行の初夜は熱海であった。

 関西に越して、早二十三年、その後の熱海がどのように変わったか、しかと確かめたくなったというのが選択の理由である。

 ただ、熱海までの各駅停車と云うことになると、生瀬駅発午前八時以降と云う我が各駅停車の旅の鉄則を曲げなければならない。ところが、助ける神もいるもんで、Eさんが駅迄自家用車で送ってくれる事になった。

 もっとも、今回熱海まで各駅停車で行くというのは、Eさんに刺激されたからである。Eさんの場合、東京を通り越して、草津までも各駅停車で行くというその道のベテランである。

 かくして、五月十七日(月)、午前七時三十八分福知山線生瀬駅を出発したのである。同行、我が愚妻と、途中名古屋で妹夫婦と合流することになった。

 尼崎に八時四分着、少し余裕を持って八時十二分の8418M列車に乗る。何故、ここで列車番語まで指定したかというのはこの後で分かる。

 当日は月曜日で、しかもこの時間はラッシュアワーの真っただ中、覚束ない足取りでもみくちゃにされながら大阪駅に着く。ここでようやく、座席を確保して目標の東海道五十三次の旅立ちになる。
それと云うのも、最近は江戸時代の市民生活の没頭しており、わざわざ五十三次の本まで持参して赴いた次第である。

 ところが、全く予想もしなかった野洲で「この電車は次の野洲どまりです」という車内アナウンスを聞いたのである。大慌てに慌てて、荷物を整理し、野洲で降りたのである。この時はまだ、ホームに待っている電車があるだろうぐらいに考えていて、隣のホームに入ってきた電車に急いで乗り換えたのである。

 その間に、前の電車はホームに乗客を残したまま「回送電車です」と云うアナウンスとともにどこかに行ってしまった。

 しかし、乗った電車の車内放送を聞いているうち、これは大変なことになってしまった事に気が付いた。どうやら、乗った電車は逆戻りする方向であり、次の目的地米原までは、二十八分後の九時四十八分発の米原行きである。

 一人旅であれば、それでも良かったのであるが、名古屋では妹夫婦が時間通りに待ち合せている。それから、電話のかけ続け、辛うじて名古屋で落ち合う事が出来たが、それからは行き当たりばったりの時間となり、熱海に着いたのは、予定より二時間近く遅れて五時近くであった。

 それではなぜこうなったのか、帰ってきて早速JR西日本お客さまセンターなる所に次のように問い合わせてみた。

 「私は各駅停車の旅が好きで、5月17日に東海道線熱海まで行きました。そのさい、いつもNETの「駅から時刻表」を使わせて頂いております。今回も、尼崎発8時12分発の3418M列車に乗りました。「駅から時刻表」によると、長浜行きであり、米原乗換で以後の時間割をしました。

 ところが、当日、この列車は野洲止まりと云うことで、以後の時間割がめちゃくちゃなってしまい、名古屋で待ち合わせていた友人との連絡に大変迷惑をかけました。帰ってから、早速「駅から時刻表」に問合せましたら、こちらに聞いてくれとのことです。
「駅から時刻表」はてっきりJRで責任を持って出されているものと持っていましたが、 一体どうなっているのでしょうか。」
 これに対して、JRからは次のような回答があった。

 「5月1日から17日までのダイヤを確認致しましたが、お客様がご利用になられた尼崎駅8時12分発の3418Mを野洲行きに変更した日はございませんでした。

 なお、「えきから時刻表」につきましては、株式会社ぐるなびが運営するサイトですので、JRのサイトではございません。恐れ入りますが、ご利用になられましたサイトの運営会社にお問い合わせいただきますようお願い申し上げます。」

 その後も二度ほど問答を繰り返したが、基本的にはこの内容と変わらなかった。

 おのれJR!うぬらどこへ目を付けていやがる!とばかり思ったが、前述の各駅停車の名人に聞いたところ、「そりゃあ、あんた車両の後の方に乗ったとちゃいますか」だって、そう云われれば、尼崎で、エレベーターの近くだったから後の方に乗ったのに間違いない。

 「野洲で、前と後で車両を切り離し、長浜行きは前の方だったとちゃますか?」この一言で納得、多分その通りであったのだろう。長浜行きにそんな長い車両は必要が無い。

 それにしても、おのれJRめ!何で初めからそう云わんのじゃあ、と思ったが、それだけ恥をかかなくて済んだので、以後はしたすら沈黙にこれ勤めている。

 おかげで、駅・駅で「東海道五十三次」と比較してみようとした心づもりは雲散霧消してしまった。もっとも、熱海駅に着いたら、娘に連れられてきた東京在住の姉に会う事が出来たので、若し会えなかったら、そのまま引き返そうと思っていたというので、思わぬ余禄にある付いた様が気がしないでもない。

 当日の宿は、「かんぽの宿熱海」だったが、先の政変のなせる業か、随分と今までのかんぽの宿とは違ったもてなしだった。

 夕食後に、和太鼓のアトラクションがあると云われていたが、な〜に、たかが太鼓、とたかを括っていたが、暫く置いて見に行ったが、これが並大抵なものではなく十分に堪能させられた。

 どうやら、宿の方も、客の方も、それぞれに旅の仕方が確実に変わってきている予感がした。

 翌日は、名古屋組とは別れて図々しくも横浜在住の兄夫婦の家にお世話になることにした。それと云うのも、兄も八十路も過ぎて、お互いが訪ね合うのもこれが最後かもしれないと、勝手に理由を付けくわえたのである。おまけに、我が愚妻とともに二晩もお世話になった。

 ただ、この時、兄から東京で行ってみたい所が有るかと聞かれて、つらつら考えるに仕事を通して拘わった所はいずれもほろ苦い思い出ばかりで、改めて訪れたいと思う所は無かった。

 強いて考えるならと思いついたのが上野のお山である。なぜかと言えば、ふるさとを出て、最初に降り立ったのは上野であるが、なぜか上野の町を歩いた事はない。とりわけ、最近夢中になっている江戸時代では、上野のお山と云うのは、徳川家菩提寺の東叡山寛永寺が有る所である。

 この寛永寺のある上野のお山を訪れたのは、五十八年前の昭和二十七年に中学の修学旅行の際におとすれて以来である。当時は、まだ戦争の傷跡が残っていて、地下道には、浮浪者と言われる少年たちの姿も有った。上野駅近くの山下ホテルと云う「曖昧」な宿に泊まり、付近を恐る恐る散歩しただけであった。

 勿論、今の上野とは全く違うが、なぜか上野には餓鬼と言われた少年の頃の思い出がいっぱい詰まっているような気がしたのである。ところが、その前日から台風何号かが接近していて、それるかどうか微妙な所であった。

 果たせるかな、翌日は朝方から小雨交じりの強風が吹きすさび、家を出てバス停に向かう頃には止んでいた雨が、バス停に着いたら再び振り出した。

 ここではたと考えた。わしに使えるのは左手一本である。杖を突いて、傘をさすような器用なまねはできない。兄は気を利かせて雨合羽を持ってきてくれたが、土砂降りの雨に降られた時の自分の姿を想像し、上野見物は、又の機会にする事にした。但し、その時まだこの世にまだ存命だった場合と云う事になるが・・・・。

 それにしても、兄の家にいつの間にか住み着いたウコッケイという鳥に鳴き声が何んとも滑稽であり、毎朝ウコッケイの声で目を覚まし、未だに耳に残っている。

 斯様なわけで、此の度の旅は何から何まで中途半端で、忸怩たるものがあるが、これでもやっぱり旅は旅としての面白みは十分にあった。