サイバー老人ホーム

1.「阿房列車」に乗って

 少し前に、読売新聞の文芸欄に「阿房列車」と云う本が紹介されていた。今までにも何回かこの文芸欄に紹介されている本を買うたが、なんや、あまりピンとこない。

 まあ、ピンと来ないと云うのは、良い本なのかどうだかわからないということ。本当は、ここで悪い本だかと書こうと思ったが、天下の読売新聞が悪い本を紹介するはずがない。ただし、近くの本屋のきれいなねえちゃんが、読売新聞の書評は変わっていると云っていた。どう変わっているのかは聞きもらしたが、どっちもそれぞれのプロやから両方とも本当やろうと勝手に思っている。

 ところが、この「阿房列車」、なにもやみくもに買うたのではない。原作が、内田百(ひゃっけん)と書いてあったからだ。この内田百閨Aいや内田百閧ウん、あの黒沢明監督の「まあだだよ」のモデルの人である。この映画を見る迄、内田百閧ウんの作品はおろか、名前すら知らへんかった。

 なあ、これだけでもわしの人品骨柄がわかろうと云うもの、ところがこの映画を見てから、あの飄逸とした人柄が好きになって、いつか、作品を読んでみようと思っていた。

 ところが、年を取ると云うのは悲しいもので、思っただけで、いつの間にか忘れてしまった。

 それが、今度偶然目にとまり、すぐさまNET書店で探したところ、一発で探し当てた。このNET書店と云う奴は、実に便利である。いちいち書棚を探し回らなくとも居ながらに探せる。

 そんな好みの本も探せないのかと思われるが、そんなことはない。暇などは、欲しい人にはただで上げたいほどある。ただ、残りはと云うと、そんなには残っているわけではない。本人が気付かないだけである。まあ、これは神さんの決めることやから、なんぼと云うことは云えへんけど、多分残りは少ないはずや。

 それやったら、動けるうちは自分で本屋まで出かけて探したらどうなんやと思われるが、それやと邪魔くさい。なんで邪魔くさいかと聞かれたらちょっと困るんやけど、何となく自分のペースが狂わされるからやろと思ったが、それなら自分のペースってどんなペースやと追及されそうやからこれ以上は云わない。

 とにかくNET書店で、購入して送られてきた本を見て、びっくり仰天、なっ、なっ、なんと漫画本だったのである。漫画本なあ・・・、漫画を買うつもりやなかったが、買うてしまった以上、読んでみると、これはこれでおもろかった。まあ、読んでと云うのにはちょっと違うが、眺めてという感じやな。

 中身は、内田百閧ウんが書いた同じ名前の本を漫画で表したもので、百閧ウんが、「アルプス山系」という奇妙なニックネームの青年と汽車の旅をするという内容だが、その旅がおもろい。

 用事もなく、列車に乗って旅をして、時によっては、目的地でそのまま引き返してくると云うのである。

 今、この年になると、列車に乗って出かけなければならないような用事はなんもない。従って、旅をしたくなったら、列車に乗って出かければよいのだが、出掛けたらよいが帰らなければならない。

 帰ると云うことになれば、帰り付くという時間でもまだ我が家近くの電車が動いておらなければならない。

 若し帰り付かなければどこかで泊らなければならない。そうなるとまたいろいろと面倒になる。一番困るのは金である。百閧ウんの場合、「旅費の都合で、お金が十分なら帰ってきます。足りなさそうなら一晩ぐらい泊ってもいいのです。」と云う、なんや分かったような、分からないような事を云って、心当たりの人に、「慎重な考慮の結果ですから、お金を貸してくださいませんか」と頼み、借りることができた。その理由として、「あんまり用のない金なので、貸す方も気が楽だろうと云うことは、借りる側が怒っていても解る」

 そして、「そもそもお金の貸し借りと云うのは、難しいもので、一番いけないのは、必要なお金を借りようとすることである」と云うことで、これも分かったような、分からないような話である。

 私の場合は、必要でも、必要でなくても、貸してくれる人などないから気が楽だ。それなら十分持っているのかと思われるが、年金生活者だから持っているわけがない。そもそも、年金などと云うものは、使うのに必要やからくれるもんで、これを使わずに残したりしたら国家反逆罪になるのではないかと思っている。

 ただ、全部を使うかと云えば、そうではない。それは、私があとどれほど生きるかと云うことが分からないから、全部使ってしまったら、相棒の婆さんが私の葬式に困るだろうと思うから、その程度は残すことになる。ただ、私と、婆さんのどちらが先に行くかと云うと、そんなことは分からないが、世の通例から私の方が先だろうと勝手に思っている。

 そこで思いついたのが、「青春18きっぷ」である。これだと一日中乗りまわし、午前十二時に帰ってくればよいし、帰れないと思ったら、どこかに泊まればよい。とにかく、用事もないんやから、急ぐ必要もない。ただ、あっちに行き、こっちに行き、その都度きっぷを買わなくて済むのが邪魔くさくない。

 ただし、出掛けるのは、午前八時以降であり、泊る場合は午後四時には着きたい。我が家から、駅迄は、子供でも十分程度であるが、私の場合は体の都合で三十分程度は見ておかなければならない。三十分と云えば、七時半には家を出なければならず、そうなると食べた物がまだ胃の中に残っていることも考えられ、生活習慣病の前科者としたらこういうのは避けなければならないと、これも勝手に決め付けている。

 到着する場合も、四時を過ぎて、着替えて、風呂に入って、それから食事なんて考えたら、泊ったような気がせえへん。そこで、出発八時以降、到着四時以前と云うことにした。

 ところで、内田百閧ウんが、何で「阿房列車」としたか覚え込む前に本の方を捨ててしまったから忘れてしまった。この「阿房」と云うのは、いわゆるアホのことであり、これにはれっきとした漢字があるのだということは初めて知った。

 そもそも、と云えば何となく箔が付くようやけど、私がこの西宮市生瀬という町に越してきたのは、昭和六十年の四月の事である。それまでは関東に居たが、仕事の都合でと言えば聞こえも良いが、簡単に行ってしまえば尾羽根打ち枯らして移ってきたということである。

 もっとも、この年阪神タイガースが何十年ぶりに優勝して、こんな天国のような所はないと喜んだのは余計の事、要するに、それまでは馬鹿と呼んでいたのが、アホと呼ぶ事を教えられた。なぜかと言えば、馬鹿と云われれば、いかにも馬鹿みたいで腹がたつが、アホと云われてもさして腹も立たないということである。

 これが私の大阪弁の第一歩であり、以来、関東弁なまりの奇妙な大阪弁に追いまくられている。

 ただ、この「阿房」には、「阿呆」と云う字も有り、これをどう解釈するか、暇にまかせて新字源で調べてみると、「阿」と云うのは、「おもねる」と云う意味で、「房」は「部屋」とか「住まい」と云うことらしい。

 一方、「呆」は文字通り「おろか」であり、アホは「阿呆」と書くのが意味として通っているようだ。それなら、内田百閧ウん如きの人が、なぜ「阿房」と書いたかと言事は分からない。分からないことはこれ以上考えない方がよい。

 ところで、このアホについて、芥川賞作家田辺聖子さんの今は亡き御主人の事をかいた「カモカのおっちゃん」の中に、次のような事が書かれていて、明確にアホの定義付けをしている。

 カモカのおっちゃんの言によると、田辺聖子さんの若い助手のミド嬢に向かって、(あ・ほ)と云ってからかう。それに対してミド嬢が(なんであほうなんですか)食ってかかる。

(誰もアホーやなんて言うとらへん。あ・ほと云うとるんじゃ)
(どっちだって同じじゃないですか)
(違う、アホーはホンマのアホじゃ、あ・ほは親愛こめた呼びかたじゃ)

 だからと言って、内田百閧ウん「阿房」がアホーと読むのか、あ・ほと読むのか解明できたわけではないが、「房」と云う字は、ホウともホーとも読むが、ホと読むかどうかは著名な文学者の云われることで、浅学な私などは、その時々で、気の向いた方に読むことにした。

 そんなわけで、いろいろ御託を並べたが、とにかく「阿房列車」に乗って、勝手気ままな旅に出かけることにした。