第二部 江蘇省の歴史を歩く
11.春秋呉の都、蘇州(2007年4月)

蘇州で途中下車した目的は二つあった。一つは、私が教えた淮海工学院の卒業生に会うこと、そしてもう一つは、闔閭(こうりょ)や伍子胥(ごししょ)や孫武が活躍した春秋の呉の遺跡を見ることであった。三国時代の呉の都は建業、今の南京で、そこに、孫権の墓のあるのは知っていた。しかし、春秋の呉の都、今の蘇州についてはあまり知識がなかった。南京〜上海二階建遊覧車、1994年蘇州駅で

蘇州は初めてではない。1994年の1月にも一度来ている。しかしそのときは、たった一時間の蘇州見物であった。広済橋という橋から運河を見ただけで帰ってきた。今回もあまり余裕はなかったが、なんとか一泊する時間を捻出した。

 前夜、4月2日、1814分に連雲港を出て、3日4時19分に蘇州着。ダイヤはそうであるが、実際には30分ほど遅れて着いた。硬座普快臥、下段、156元(1元は約15円)。朝がまだ明けない早い時間であったが、駅前は、大きな荷物を持った客が行きかい、タクシーが並び、白タクの客引きが目ぼしい客に付きまとい、混雑していた。私は、タクシー待ちの列に並ぶのが面倒だったし、目当てのホテルまで、法外な値段というほどでもなかったので、白タクの客引きに付いて行った。

 ホテルに着いたのは、まだ、5時過ぎで、余分に一泊分取られそうになる。当日のチェックインが6時からで、それまでにチェックインをすると二泊になると言われ、ロビーで一時間、携帯電話の受信記録を手帳に転記し時間をつぶす。

 部屋で一休みして市内の見学に出かける。午前中に見学したのは太平天国忠王府、蘇州博物館、そして拙政園。

忠王府及び蘇州博物館

 私は、一般的に言って、博物館というところがあまり好きでない。例えば、馬王堆漢墓陳列館へ行った時のように、はっきりした目的を持って行く場合は別だが、観光の途中で偶然見つけたような博物館へはあまり入る気がしない。蘇州博物館もそうで、その前を通り過ぎて、隣の忠王府へ入った。ところが中で博物館と繋がっていて、出てきたところは博物館の出入口だった。というより、もと、蘇州博物館はこの忠王府を展示の中心としてできたもので、それに、現在の新館が増築されたのだということが後でわかった。

左手が蘇州博物館入口 太平天国忠王府跡
忠王李秀成像 忠王府軍事会議庁

 私は、中国近代史上最大の農民反乱(現中国政府は起義と呼ぶ)、太平天国(185164年)に非常に興味を持っていて、太平天国蜂起(起義)の地、広西壮族自治区の金田村を訪ねたりした時期もあった。

 李秀成は、天王洪秀全が無力化し、多くの指導者が内紛により死去、あるいは太平軍より離脱したあとの太平天国を死守、南京から、更に常州、無錫、蘇州、と江南の主要都市を占領、上海を脅かし、常勝軍と力戦するなど太平天国最後の光芒を担った人物である。当方面に進出した太平天国は、1860年9月から186312月の間、蘇州の拙政園の庭園、屋敷部分を合わせ、ここに、忠王府、すなわち、蘇浙地区最高統帥府を置いた。

拙政園

 1509年、職を退いた(失脚した)王献臣が造営した庭園。中国四大名園の一つといわれる。世界文化遺産に登録されている。拙政の名は、晋の潘岳が作った『閑居賦』の一節、「拙者、政するは悠々自適、閑居を楽しむことなり」という部分からとったといわれている。

拙政園入口
拙政園の庭


蘇州運河

 午後は運河の見物に行く。ここは、1994年の1月にも来ており、二度目である。

山塘、運河風景 古戯台での演奏
運河風景 写生をする若者


教え子と再会

 いよいよ、淮海工学院の卒業生との再会である。

 「先生が泊まっているホテルの名前と所在地を教えてください」

 「もう半時間もすると仕事が終わります。会社から蘇州駅までバスでおよそ半時間かかります」

 「私たち、既に駅に着きました。今、ホテルに向かっております」

 頻繁にメールが入る。

 ロビーから通りを見ていると二人がやってきた。ガラス越しに目が合う。彼女たちは私を見てびっくりし、やがて破顔。

 一時、ロビーで話し込んだあと再び蘇州駅に戻り、駅構内のケンタッキーフライドチキンに入る。

蘇州駅構内のKFCでコーラを飲む卒業生 蘇州駅構内のKFCで卒業生と筆者

 

春秋呉の都、蘇州

 翌朝、10時過ぎの上海行の列車に乗るまで時間がある。春秋の呉の遺跡を見るという、蘇州へ来た二つ目の目的がまだ残っている。

蘇州という地名は隋の時代になってからであるが、ここでは蘇州で通す。蘇州古城の雰囲気を最もよく残す盤門へ行く。まず、盤門近くの石碑「盤門重修記」を訳す。

盤門修築記

盤門は古くは、蟠門と記され、呉王闔閭元年、西暦紀元前514年、伍子胥が建城の時に拓いた八門の一つと伝えられており、つとに、龍蟠水陸と呼ばれている。城壁は最初、土で築かれていたが、五代十国の呉越の天宝十五年、西暦922年、初めてレンガになった。宋の時代、盤門に城楼ができた。元朝の初期に門楼はすっかり壊れ、今ある盤門は元末に再建されたものである。明清時代に何度も修理されたとはいえ、今なお、もとの形と構造を備え持っている。水門には二重の陸門が設けられており、陸門の外には瓮城(おうじょう。城門の前においた箭楼とつなげた、円形あるいは方形に築いた城門防御用の小城壁)が加わる。現在、わが国にわずかしか存在しない水陸古城門で、古城遺跡保護のため、1976年から次々と水陸城門の修理が行われ、1981年までに、総額7万余元が用いられた。1983年、また、交付金130余万元を用い、城壁近くの民家・工場の撤去、盤門東側の城壁三百余米の修復、及び城楼の再建が行われ、これらは、1986年9月、蘇州建城二千五百年記念の際、竣工した。1988年、また、城壁の傍らに伍子胥祠が修復された。盤門は現在、蘇州古城の保存が比較的良く整った一角となっており、1963年、蘇州市文物保護単位に、1982年には、江蘇省文物保護単位に指定された。

西暦紀元1989年4月 蘇州市人民政府 立

瑞光寺塔からの景観 水門巻き上げ機
運河にかかる呉門橋から見る盤門の眺め 盤門前の筆者
                                    

伍子胥については、司馬遷の『史記』「伍子胥列伝」にかなり長い記述がある。特に彼の最期についての描写は強烈である。これをもとにして多くの小説等が著されている。伴野朗に『伍子胥』という作品があり、また、海音寺潮五郎の『孫子』にも伍子胥についての記述がある。

ここでは、『ウィキペディア(Wikipedia)』の伍子胥から要約引用する

楚から呉へ
  伍子胥の父は楚の平王の太子の傅 をしていたが、平王と太子の仲が悪くなり、太子が廃される事になると、父と兄は、平王に殺された。残された伍子胥は復讐を誓い、呉に逃亡した。 呉で伍子胥は公子光に仕え、光のクーデターの際にも協力する。光は即位して呉王闔閭(こうりょ)になった。
  孫武と共に闔閭の補佐に当たり呉を強国とし、紀元前506年に楚へ兵を出し、その首都を陥落させた。平王は既に死んでいたので伍子胥は墓を暴き、平王の死体を鞭打って恨みを晴らした。これが「死屍に鞭(むちう)つ」の語源になった。その後、隣国の越が強大になってきたのでこれを叩こうと兵を出すが、越王勾践の軍師范蠡(はんれい)との知恵比べに負けて、呉軍は越軍に大敗した。この時の怪我が元で闔閭は死去した。

呉王夫差(ふさ)
  闔閭の息子夫差が後を継ぎ、父の復讐を誓うと伍子胥もそれを補佐し、紀元前494年に越軍に大勝した。この時に伍子胥は勾践を殺す事を主張したのだが、夫差はそれを聞き入れず越を属国とする事で許してしまった。

この頃から越に対する警戒をうるさく言う伍子胥と中原へ進出したいと願う夫差との間は上手く行かなくなってくる。 越の范蠡が密偵を使い、夫差の耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われる。

伍子胥(ごししょ)の死
  その後も夫差は北への出陣を続け、領土を僅かに広げるも国力を急速に消耗していった。伍子胥は度有る毎に「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言するが聞き入れられなかった。夫差としても「伍子胥あっての呉」という評価が気にいらず、二人の不仲は増大していった。

これではいつか呉は越に滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、に使者に行った際に息子を斉に預けた。しかし自らは呉を見捨てられないと戻り、この事が本国に帰った後に問題になって、伍子胥は夫差から剣を渡され自害するよう命ぜられる。

その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。その言葉が夫差の逆鱗に触れ、伍子胥の墓は作られず、遺体は馬の革袋に入れられ川に流された。人々は彼を憐れみ、ほとりに祠を建てたという。

伍子胥(伍相)祠の入口
復元された伍子胥祠

伍子胥が死んだ後、越を警戒する者がいなくなり、呉は破滅の道へと進む事となった。 そして伍子胥の予言の通り越は呉を滅ぼす。夫差は辺境に流されることになり、命を奪われることはなかったが、「伍子胥の予測は悉く正しく私が愚かだった。あの世で会わせる顔がないので、私の首は布で包んでくれ」と言い残し自決した。