肥薩線  (人吉〜吉松)



肥薩線は、八代から隼人までの124kmの区間の山岳鉄道路線です。明治42年11月21日
鹿児島本線として全通しました。当時、八代以降鹿児島本線建設において、海側(現在の鹿児
島本線と、山岳部を通るルートとが考えられましたが、防衛上海側を通すと、防衛上鉄路が分
断されやすいという理由で、山岳路線を採用されました。しかし、山岳ルートはスイッチバックが
2カ所、うち大畑(おこば)駅は、ループの途中にスイッチバックがあるという珍しい駅があるほど
の急勾配のため、八代〜鹿児島間の所要時間が短縮できず、昭和2年10月17日に鹿児島本
線は、現在のルートである海側ルートを完成させ、人吉〜隼人間を肥薩線として、現在に至って
います。



   人吉駅。
駅前にあるお城は、人吉城をかたどった
からくり時計!
   人吉駅構内にある機関庫。明治44年
に作られた石造り機関庫では、最古の
現役機関庫。なお、機関庫内にSL人吉
牽引蒸気機関車58654号機(8620型)
蒸気機関車。本来、金・土・日曜日運行
なのですが、運良く観光臨時として、運転
されたもので、八代駅へ戻るため一息つ
いているところです。
  観光快速「いさぶろう・しんぺい」号!
愛称の由来は、肥薩線建設に努力した
時の逓信大臣山縣伊三郎氏と、鉄道院
総裁後藤新平氏の名からきています。 
   「いさぶろう・しんぺい」号の車内
   ループ線の説明板。この図を覚えていて
下さい。
   大畑駅。明治42年11月21日信号所
機関車給水のための業務用駅として完
成。その後同年12月26日旅客・貨物扱
駅として格上げされましたが、実質的に
運転業務駅としての性格は変わりません
でした。駅舎は、開設当時のままです。
   ホーム側から見た駅舎。
  ホーム上に朝顔状の洗面器。 
   先のループ説明板を思い出して下さい。
左側のレールは人吉駅からやってきて
大畑駅に入線する線。
斜めの線は、大畑駅を出発してポイント
を通って引き込み線(スイッチバック)へ
そして、ポイントを切り替えてまっすぐに
伸びた線へむかって、ループ線に入って
矢岳駅へと向かいます。
   臨時イベント列車「はやぶさ」スイッチバッ
クの引き込み線へ入っているところ。
奥の線へ入って、矢岳駅方面へ向かって
いきます。
   旧鹿児島本線(現肥薩線)建設工事中
に殉職病疫者追悼記念碑。公園となっ
ています。
記念碑の奥にある線路は吉松方面へ
向かうループ線。
   左端の先はスイッチバックの引き込み線
、反対側は、ループ線。
   ループの終わり頃に見えるループの始ま
りの線。
   矢岳駅。肥薩線で、一番標高の高い駅。
この駅舎も開設当時のままです。
  矢岳駅にある標高を表す標識。536.9
メートルとあります。
  矢岳駅構内に、蒸気機関車時代に肥薩
線で活躍した蒸気機関車D51170号機
が展示されています人吉市SL展示館。
当初、現在現役復活しSLあそboy、そし
てSL人吉を牽引している58654号機が
展示されていました。
人吉〜大畑間を走るのに1トンの石炭と
1分間に250リットル近くの水を消費した
と言います。 
   矢岳駅を出発後、肥薩線最長のトンネル
矢岳トンネルを抜けるとごらんの霧島連山
の絶景が見られます。
この矢田ケトンネルは延長2096メートル
あり明治39年9月から工事が始められ
難工事の末、明治42年11月に完成し
ました。
入口には時の逓信大臣山縣伊三郎の「天
険若夷」、出口には鉄道院総裁後藤新平
の「引重到遠」と書かれた石額がかかって
いる。意味は、二人あわせて「険しい山々
を、平地のようにしたことで貨物を遠くへ
運べるようになった」という意味です。
   矢岳トンネルをくぐり抜けて、宮崎県に入
りスイッチバック駅真幸(まさき)駅に着き
ます。駅舎は当時のままです。
駅名からホームに「幸せの鐘」があります。
  真幸駅のホームの端に昭和四七年に起
こった山津波によって当駅に残った岩塊
を山津波を忘れないために記念石として
保存されています。約8トンあるそうです。 
   真幸駅のスイッチバック。
   真幸駅を過ぎて吉松駅へ。吉松駅舎は、
鉄筋コンクリートでできています。
  吉松駅構内にあるC5552号機。
ユウさん学生時代、平六君と一緒に九州S
L撮影旅行の時に現役時代の写真がある
かと思いましたが、あるのは、C5519、
51、53号機で、52号機はありませんで
した。 
   再び人吉駅に戻って、SL人吉号が、八
代駅に戻るための準備を開始していまし
た。
   SL人吉号の勇姿!




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