少々どころか、かなり堅い話しになってしまいますが、先日、月刊誌「正論」という雑誌を書店で見かけ
ました。2003年4号の「正論」表紙を見ると、
 『オスカー候補「千と千尋の神隠し」の本質 左藤健志』
と言う、文字が飛び込んで来ました。私のこと深海魚は、月刊誌「正論」を時々、手にとって見る事は有っ
ても(立ち読みと言う)購入した事は無かったのですが、自分のお気に入りの映画の事が書いてあるみた
いなので、目次のページもロクラカシ見ないで購入してしまったのです。目次を見ていたら間違い無く買わ
なかったでしょう。目次には、こう書かれていました。
『「千と千尋 の神隠し」がひそかに美化する日本の死』
 で、佐藤健志氏の書かれた文章を読んで見ると、「よくもまぁ、ココまで話しを飛躍できるとは・・・大した
者だ」と思いました。
 佐藤健志氏は、文章の中でこう主張する訳です「千と千尋の神隠しは、子供向けに見せられかけた
大人の映画」とか 「人間の成長を否定する映画」などと批判する訳です。ハッキリ言って、腹が立ちま
した。(人間、自分の気に入っている物をボロクソに言われると腹立つものです)佐藤健志氏が、何が気に
食わないのか分かりませんが、ラストで千尋と両親との間柄と言うか、親を撥ねつけない千尋の状態の
事が気に食わない見たいです。
皆さんは、「千と千尋の神隠し」のラストを見て、千尋が成長していないと断言出来ますか?成長したかど
うかは、あの時点では分からない筈です。もっと時間が経たねば成長したかどうか分からない筈なのに、
佐藤健志氏は、成長していないと断言する訳です。
>鈴木プロデューサーは、映画の中での千尋の成長ぶりについて、前半と後半の顔つきの違いは、三年
>分ぐらいの変化ににあたるとコメントした(中略)思春期を迎えた13歳の少女が、10歳頃と同じ態度で接
>するのは、常識的に考えてもリアリティに欠ける。
この人は、アニメの手法と言う物が分かってない。アニメにせよ漫画にせよ映像での人物の成長は、わざ
と顔つきを変えてしまう物です。そうしないと、視聴者は分からないからです。
又、この人は「千と千尋の神隠し」を批判する為に「オズの魔法使い」やイギリスのファンタジー映画「時間
盗賊」と言う映画(日本では「バンデットQ」で短編版が公開されていた)を例えて批判します。
>「オズの魔法使い」の主人公ドロシーが、家出をくわだてた事をきっかけに魔法の国へと旅立ったのとは
>対照的に、千尋は親の身勝手な行動のツケを背負わされて「千」になるのだ。
 (中略)
>イギリスのファンタジー映画「時間盗賊」と言う映画(日本では「バンデットQ」なる題で短編版が公開され
>ていた)には、異世界での冒険で成長した主人公の少年が、いざ現実に帰還してみると、家は火事で燃
>え落ち、両親も死んでいた。(=いやでも自立しなければならない状態に置かれていた)という鮮烈な結末
>が付けられていたが『千と千尋の神隠し』にも、湯婆婆から自由になる儀式として、千が自分の手で豚
>の父母を屠殺するか、彼らを見捨てて去ってゆくといった場面が必要だったのだ。
 (中略)
>現在の内容では、千尋は最後になって、冒頭の状態に逆戻りしたとしか思えないのである。
 何が言いたいのでしょうか?佐藤健志氏は!!「オズの魔法使い」とイギリスのファンタジー映画「時間
盗賊」「千と千尋の神隠し」は作者も作られた時代も国もバラバラ、両作品がファンタジー系列の作品だと
言う事は分かりますが、宮崎駿氏の作品「千と千尋の神隠し」とは何の関係もありません。にも係らず全く
別の作品の内容や主人公と比べたりして、「千と千尋の神隠し」を比較するなど評論家としては失格でし
ょう。(この人は、最初から宮崎駿氏と「千と千尋の神隠し」が大ヒットして注目されている事に嫉妬してい
るのか、出なければ宮崎駿氏が嫌いなだけでしょう)しかも、佐藤健志氏は
>千が自分の手で豚の父母を屠殺するか、彼らを見捨てて去ってゆくといった場面が必要だったのだ。
と、物凄く恐ろしい事を平気で主張します。「千尋の成長がリアリティに欠ける」と言っておきながら、こん
な事を主張する方がリアリティに欠けていないではないでしょうか?大体、千尋は、作品の前半で豚とな
った両親に対して、「きっと助けてあげるから、あんまり太っちゃ駄目だよ!!食べられちゃうからね」と言
ってる。つまり、千尋が油屋で頑張れたのは「両親を如何しても助けたい」と言う思いがあったからでもあ
るのにその事を完全に無視している。大体、10歳の少女に両親を殺せだぁ!!そんな事をしたら「千と千
尋の神隠し」は別物の映画になってしまうでしょうが!!!!!(激怒)
更に、佐藤健志氏はラストの湯婆婆の試練にもケチを付けます。
>豚の群れに両親を入れておかないのはいいとして、二人を人間に戻し、トンネルの近くまで送ってしまう
>のは、彼女が必ず正解すると決めてかかるものでもない限り意味をなさない。
 佐藤健志氏は、ファンタジーの事が全然わかってない。そんな事は千尋が正解した瞬間に畜舎(?)に
居る豚となった両親が人間の姿に戻って、トンネルの近くまで瞬間移動(テレポート)させればいいだけだ
し、間違えれば両親はそのままってぐわいにすればいいだけのことだと思うのですが・・・・ ファンタジー
系列の物語は基本的に何でもありだって事が佐藤健志氏には分からないらしい。
それと、千尋の成長の事ですが、佐藤健志氏は成長をしていないと決めてかかります。しかも、「この映
画は、親が子供の自立を阻害し抑圧する事を奨励している」と主張する訳です。つまり、真の成長を禁じら
れ「成長無き成長」と呼ばれる状態に置かれていると、
>宮崎自身、プログラムに収録されたインタビューで、千尋が異世界を去るくだりについて、「せっかく自分
>を認めてくれそうな人達と出会えたのに、千尋はさの場所から離れなければならなかった。(中略)もっと
>(世の中のありようについて)気が付くことができたことがはずなのに、それらを全部捨てなきゃならなか
>った」と語ったように、両親を救ってやる事は、彼女にとり「生きる力」を放棄して精神的な退行をきたす
>にひとしい。(←原文のまま)
 佐藤健志氏は、何故、千尋が両親を救う事が精神的な退行だと決め付けるのか、私には分かりませ
ん。ひょっとして、佐藤健志氏は、千尋が異世界での出来事を全部忘れていると、決めにかかっているで
は無いでしょうか?第一、上記のインタビュー記事には、続きがあって宮崎氏は、
>自分のやって来た事を全部覚えている人ていると思いますか?いないでしょ。でも銭婆の「一度あった
>ことは忘れないもんさ」という言葉どうり、人間の記憶って。思い出せないだけで何処かに残っているも
>のだと思うのです。(千尋は油屋の事を覚えていないのか?と、質問されて)
と、言っている事を完全に無視して千尋は、油屋での出来事を忘れていると決めつけてるみたいです。し
かし、佐藤健志氏は、失礼な方だと思いませんか?(勘の良い人は気付いたと思いますが)宮崎駿氏を
「宮崎」と呼び捨てにするのです。分別の着いた大人が、評論家という知識人が、何の面識も無く、友人
でも何で無い人物を「宮崎」と呼び捨てにする?失礼にも程がありますよ。

しかし、佐藤健志氏は、とにかくしつこいです。最後のシーン、つまり千尋がトンネルを抜けるとき千尋が
母親にしがみ付いていただけで、此処まで話を飛躍させ、永遠と宮崎駿氏は「子供の生きる力をピンハネ
する事は、子供にって良いこと」とか「親の尻拭いをやって飼い殺される事が、あなたがちゃんとやってい
くこだ」と主張しているんだと言い続ける。しかし、何故其処までして、千尋に親を見捨てさせたかったのか
?何故其処までして千尋に親を殺さたいのか全く解らない。大体、たったワンシーンで此処まで話を飛躍
させ「千と千尋の神隠し」を徹底的に批判し続ける、私はこの人の精神構造が理解できない。(それに付
き合っている私も私だが・・・)
 佐藤健志氏は、他にも訳が分から無い事を言い出します。日本の戦後がどうの宮崎駿は、欧米コンプレ
ックスが現れているだの歴史がどうタラこうタラと言い出す訳です。何故、そう言う解釈になるのか理解不
能です。
>千尋と千との相違は、着ているのが洋服か和服という衣装の差で表現されるし(つまり主人公は、おおま
>かに言って、洋服を着ている間は成長できないのだ)、欧米風の家に住む銭婆は、湯婆婆を「ハイカラで
>ない」と評する。また、銭婆の家がある「沼の底」は、「油屋」から見ると海の彼方、すなわち海外ありそこ
>に行くためには、水面に水面に露出したレールを走る不思議な電車に乗らなければならないあまさえ出
>来すぎというべきか、この電車、「油屋」(=日本)から「沼の底」(=欧米)に向けては定期的に運するくせ、
>反対方向には滅多に走らないとされている!近代化・欧米のレールは、文字どうりの片道符と言う訳で
>ある。
本当に疲れます。海原電鉄をどうしたら、こんな風に都合よく解釈できるのか理解できません。大体、海
原電鉄の事は宮崎駿氏がインタビューで「グルーと回って三年後ぐらいに戻ってくるのか、三日ぐらいで
戻ってくるのかもよく分からない」と言っているのに、「反対方向には滅多に走らないとされている」と、解
釈する。無論、上記の宮崎駿しの発言を意図的に無視してる事は言うまでも有りませんが・・・
もどりますか?                                 次へ行きますか?