年代 : 1392年〜 | ||||
年月日 | 資料 | 登場人物 | 文献内容 | 解説 |
明徳3年 (1392) 8.28 |
相国寺供養記 | 依藤太郎左衛門尉藤原資頼 | 後陣随兵、…四番。赤松出羽守源義祐…掻副、浦上帯刀左衛門尉紀清景。浦上弾正左衛門尉紀景則。小寺次郎左衛門尉藤原則職。河勾伊賀七郎小野実秀。依藤太郎左衛門尉藤原資頼。喜多野帯刀左衛門尉実勝。・・・ | 明徳の乱がおさまった明徳3年8月に将軍足利義満の発願により建設中の京都相国寺の供養式が挙行された。列席したのは、明徳の乱を戦い抜き義満の戦力となった室町幕府を支える有力守護と近習たちである。この時の赤松庶流家の列席者の中に依藤太郎左衛門がいる。 |
応永4年 (1397) 9.2 |
浦上助景書状案 (大徳寺文書) |
依藤資頼 | 「臨川庵事」「校正了」 むらさきのゝによいあんより被申候りんせんあんの事、かやう二かの寺のまつ寺に候とて目安・御せいさつそへ候ほとに、よく〃御めに御かけ候て被仰下者、目出度候、被さたむきにハより候ましく候、これハ庵計の事被申候、恐々謹言 応永四年九月二日 助景(判在) 依藤殿 美作殿 |
応永四年(1397)9月2日、浦上助景が浦上美作守および依藤資頼に、臨川庵の事につき披露並びに善処を求める文書。 |
応永15年 (1408) 11.8 |
廿一口方評定引付 (東寺百合文書) |
依藤某 | 一.河原庄所務職事 彼庄代官職御賀法師所望、赤松上総入道口入之間、領状之、仍寺務寄進状、有公方御判、管領施工、寺家賣券以下悉出之、於土貢者、毎年四十貫文可致沙汰由、堅棒請文、寺家宛状遣之、就此事赤松家人依藤令粉骨之間、一献分弐百疋、清浄光院僧都<快玄> 有随身可向彼宿所云々 | 御賀法師、赤松義則によりて東寺領大和国河原荘代官職を望む。東寺、売券を返付せば補任すべしと答う。御賀法師、河原荘文書売券を東寺に返し、年貢四〇貫文納入を約す。この日、東寺、赤松家人依藤某に二〇〇疋を贈る。 |
応永17年 (1410) 6.3 |
御文書 (島津文書) |
依藤殿 | 島津殿御上洛 応永十□年六月三日御参著、同十一日御参会候、進上物 御太刀一腰・鳥目二千貫、御所様 御太刀一振、金作・・・赤松老名数人江 鳥目卅貫・虎皮五枚、依藤殿江 壷三・弓十張・征矢百、赤松左馬助殿江 … |
応永17年6月3日、薩摩等三ヶ国守護島津義久上洛する。29日に将軍義持が島津邸に臨む。義久、物を献じて礼を述べる。島津から「赤松老名数人へ鳥目卅貫・虎皮五枚、依藤殿へ壷三・弓十張征矢百・・・が贈られた。赤松方の在京年寄衆である依藤氏がその交渉にあたったものらしい。 |
応永18年 (1411) 3.22 |
依藤性好書状 (東寺百合文書 大日料) |
依藤性好 | 「依藤(端裏書) 応永十八」 河原城公用之事、彼方より昨日以使者被申候様者、去年所務拾貫文致沙汰候、其外者未地下ニ候、自東寺入を御下候て、いか程も所務之を御散合候て、御代官も損をも仕候ハす、公平も御損候ハぬようニ御計候て被定候者、其分可執沙汰申之由被申候、参拾貫文可致沙汰之由申候つれとも、それも入候ましく候、只上使を被下候て、就御散合いか程もありのまゝ可執沙汰申之由被申候、加様被申候へハ、一道御了簡候て可有御返事由、屋形より申とて候、此外之事ハ不可承之由申きられて候、恐々謹言 三月廿ニ日 性好(花押) 「宝泉院御坊中(ウワ書き) 性好」 |
依藤性好の宝泉院への書状。依藤性好は依藤太郎左衛門尉藤原資頼のことと思われる。また屋形とは赤松義則のことか。 応永2年(1395)、将軍足利義則は法名を延齢性松と称し、出家し将軍職を義持に譲った。この時多くの武将もこれにならって出家した。赤松一族にも多く出家する者が見られ、いずれも「性」の一字を受けている。依藤(沙弥)性好もこの時の出家であると思われる。 |
応永19年 (1412) 5.6 |
依藤性好寄進状 (伊和神社文書) |
依藤太郎左衛門入道沙弥性好 | 此分不可有相違候也(袖判)義則 寄附 一宮 右播州神戸庄内宰相房名田畠等雖為相伝当知行以敬信之儀所奉寄附当社造営方也仍為後證寄進状如件 応永十九年五月十六日 沙弥性好(花押) (端書)依藤太郎左衛門入道 寄進状 |
依藤太郎左衛門入道沙弥性好が先祖伝来の播磨神戸荘内宰相房跡名田畠等を、播磨一宮(伊和神社)に寄進し、その造営料にあてた。赤松義則の証判あり。 |
永享10年 (1438) 3.15 |
看聞御記 (続群書類従) |
赤松家人 頼藤 |
赤松家人頼藤と云物四人被書湯起請、三人忽手焼損切腹云々、是あや御料<資任卿>犯罪科云々、実犯雖不審切腹云々、 | 永享10年(1438)3月15日、将軍足利義教、赤松家人頼(依)藤氏一族4名を湯起請にかける。 (この事件は、後に赤松満祐の将軍弑逆の一つの要因になったとも思われる) |
嘉吉元年 (1441) 8.24 |
赤松盛衰記 | 依藤氏 | 宗徒(むねと)の侍八十八人、惣勢都合二千九百騎 | 満祐の本陣の坂本城へ播磨の諸将が続々と集まった。依藤氏も赤松一族八十八家の一つで「赤松盛衰記には次のように見える。『依藤・作用・小寺・浦上・櫛橋・中村・大田・在田・間島・永良・宇野・別所・安積・薬師寺・神吉・志方・英保・魚住・七条・有馬・釜内・角田・島村・福岡・福原・江見・長浜・衣笠・富田・粟生・内海・得平・袖垣・宇津・広峰・白国・小河・柏原・多賀屋・難波・糟谷・荻原・後藤・井口・垣屋・堀・中山・中島・櫛田・神山・葉山・尾上・小松原・黒田・竹中・佐野・柳井・須賀院・須貝・田中・世良田・石見・広瀬・前川・原・村田・伊東・佐谷・栗山・菅原・芝田・八木・村上・芳賀・芝・豊福・野中・頓宮・平野・飽間・荒田・和木田・大多和・志水・金沢』 |
? | 赤松家袖記・ 普広院殿由来書 |
依藤氏 | 依藤氏寺近之固守ヲ承ル、此時福田庄内百貫ノ采地、佛布施ニ進納ス、赤松下知也 | 福田庄内百貫の地を布施した記録が残っている |
嘉吉元年 (1441) 8.25 |
赤松盛衰記 | 依藤太郎左衛門 | 浦上七郎兵衛一族、櫛橋左京太夫、依藤太郎左衛門、中村丹後守其勢七百五十騎 | 兵庫の将軍の別邸「庫御所」の合戦で活躍した武将として左記の名前がある。 |
嘉吉軍物語 (飯尾文書) |
依藤太郎左衛門 | 兵庫ヱ夜討被遭依藤太郎左衛門尉、浦上七郎兵衛一族、櫛橋左京、中村丹後、其勢数百騎、京勢福厳寺ニテ酒宴半ニ推寄トイヱトモ無案内故、合戦仕損大勢被討少々遁下 | 京勢の福厳寺へ酒宴の半ばに攻め入ったが不案内な場所にて仕損じた事が書かれている。 | |
嘉吉元年 (1441) 9.10 |
赤松盛衰記 播磨鑑 嘉吉軍物語 応仁別記 |
依藤太郎左衛門尉豊房 | 白旗城ヱ内談ニ被遣帰サニ煙立上リ城ノ破ヲミテ千本ノ地蔵堂腹ヲ切・・・ | 城山城の落城の際、依藤太郎左衛門豊房は白旗城への連絡の帰路、落城の火の手を見て千本村の辻堂にて切腹自害した。 辞世の句は、「玉の緒も惜しまざりけり梓弓、末の世までの名を思ふ身は」 その後、ここを通りかかった新免弾正長重が 「此堂ニ立ヨリ藤ノ腹切ルハ、城山城ニ煙立チユヘ」と詠んだ事で、太郎左衛門の怒りに触れた悪霊伝説が生まれた。これには続きがあって今も伝説が残されている。 依藤太郎左衛門の伝説 |
康正2年 (1456) 12.20 |
上月記(上月文書) (続群書類従) |
依藤弥三郎 | 「南方御退治条々」 | 上月左近将監満吉と堀出雲守秀世によって書かれた注進状で、京都雑掌としての依藤弥三郎がいる。 |
長禄元年 (1457) 12.20 |
上月記(上月文書) (続群書類従) |
依藤弥三郎 | 播州三草山ニ出張 依藤弥三郎 | 小寺藤兵衛は大和地方の折衝役として残り、堀兵庫助と明石修理亮の両名は京都での折衝役として残り、、依藤弥三郎は地元の三草山へ出張している。 |
応仁元年 (1467) 6.8 |
応仁別記 | 依藤豊後守 | 赤松次郎入道政則、僅カ三百余人ノ勢ニテ掛向ヒ・・・赤松方ニ浦上、小寺、依藤、ココヲ詮ト戦ヒケリ、中ニモ依藤豊後守弓手ノ瞼ヲ射ラレ、其矢ヲ折カケテ、山名常陸守ト引組デ、取テ押ヘ頸カキ切太刀ヲ貫名乗ケルハ、古ノ権五郎景政ニモ不劣高名哉 | 応仁の乱は細川勝元の東軍と、山名持豊(宗全)の西軍が京都で激突。東軍には「赤松政則、播磨、備前、美作の勢五百余騎」とあり、6月に一条大宮猪熊で合戦となった。依藤豊後守は左の瞼を矢で射られながらも、敵将山名常陸守を討ち取った。『見聞諸家紋』に依藤豊後守の旗標あり。 |
応仁元年 (1467) |
応仁記 | 依藤氏 | 於摂津国是ヲ相支ヘシ(ン)トテ、時ノ守護代秋庭備中守元明ニ赤松衆、在田、本郷、永良、下野、宇野、間島、柏原、浦上、中村駿河守、依藤、安丸、明石等馳下リ、要害ヲカマヘ防ゲレドモ、…赤松方、井取野ニシテ取懸ケ防戦ケリ、…軍兵大半討死シケル、残ル兵ドモ播磨ヲ差テ切ヌクル | 山名方に合力して大内政弘が上洛しようとした。細川勝元は秋庭元明に赤松衆の兵を摂津に遣り、大内軍を防がんとした。この「猪取野の合戦」に依藤氏も参戦している事が分かる。「応仁別記」にも同様の記録あり。「依藤」は豊後守の事と思われる。 |
応仁3年 (1469) 4.28 |
清水寺文書 | 依藤則忠 | 当寺山林事、鴨河百姓等有名無実切取由承間、及度々雖相尋、無音之上者、任数通支證并住吉神主避状等旨、当知行不可相違候、弥可被致御祈祷精誠者也、仍執達如件、 應仁参巳五 卯月廿八日 播州清水寺宗徒御中 (依藤)則忠(花押) |
播磨清水寺領の山林を安堵する書状。鴨河の百姓が山林を伐採するにより、赤松政則これを糾尋し、清水寺に元の如く知行せしめたもの。則忠は守護代(加東郡代)か。 |
文明元年(1469) 12.12 |
冷泉家文書 | 依藤豊後守 | 補任/播磨国三木郡之内細川庄地頭職事/右、在所冷泉中将家代々御知行無相違之地也、御代官職事、所被仰付依藤豊後守方也、有限御年貢・公事納巳下<目録在/別紙>如請文、無不法懈怠、司有執置、万一、雖為少分、有無沙汰之義者、可有御改動、仍補任状如件/文明元年十二月十二日・・・/貞国判/依藤豊後守殿 | 冷泉家、依藤豊後守(則忠)を播磨国三木郡細川庄の地頭代官職に補任する |
文明年間 10月晦日 |
冷泉家文書 | 依藤豊後守 | 冷泉殿御料所細川庄之事、御違乱之儀、不可然候、早々人数可被引退之由、可申届候通被申候、恐々謹言 十月晦日 嶋村越中守 在判 依藤殿 人々御中 |
依藤(豊後守)、冷泉家領細川庄を違乱する。浦上則宗の老臣嶋村越中守某、依藤氏に人数を引き上げるように伝える。嶋村越中守は浦上美作守則宗の宿老と思われる。 |
文明9年(1477) 1.23 |
清水寺文書 | 依藤豊後守 則忠 |
寄進米五石事、毎年陸和利(六割)吉主被借遣、無未進年際可被納置候、以上使員数可検知候、自然ソウ劇出来候者、構テ米ヲ可預給候、無何事五十石及候時、寺家任御望、造栄可致其沙汰者也、仍為後日掟如件、 文明九 正月廿三日 清水寺 依藤豊後守則忠(花押) |
文明9年(1477)年1月〜12月の間、依藤則忠の書状が播磨清水寺文書の中に多く残っている。左記文書は依藤豊後守が米を清水寺に寄進し造営料にあてた事を示している。依藤則忠の「則」は、赤松政則からの一字排領名で、赤松政則の信任が篤かった事が分かる。 |
年代不詳 (文明4年カ) 1.14 |
浄土寺文書 | 依藤則忠 | 常住坊逐電事、委細承候、兎も角も寺家可為御計候、次古世彦五郎さヽせ申候、大方代米弐石五斗寺納候者大方於可被遣候也、若米を進候ハて、執儀申候共、不可有引候、恐々謹言 | 浄土寺の?常住坊と言う者が逐電した事を受け返事を出した手紙に、寺に新米2石5斗を寄進した様子が伺える。 |
文明12年(1480) 11.15 |
正明寺文書 | 依藤豊後守 則忠 |
石田六段事、(つほつけへちニあり)はいちさうてん女子ゆつりとして、いまにさをいなき地なり、ちゝにて候小河こひやうこすけしやうけんほたいのため、ひめちしやう明寺へ永代きしん申こと候、この田もと御寺りやうにて候よしうけ給候、さいわひの事にて候、文安元年十二月廿日に、たちま口にてうちしにちうせついたし候へ共、あとをさへ御たやし候て、とふらいなく候ほとに、きしん申候、さら いらんハつらいあるましく候、きしん文くたんのことし/文明十二年十一月十五日/女子はふ/御寺へまいる おかわひやうことのゝそく女きしん状、よりふち ふんこ ととのゝ女中 |
小河兵庫助息女・「はふ」が田地を(姫路の正明寺)に寄進した文書で、「よりふち ふんこ」は依藤豊後守則忠の事と思われる。 |
文明16年(1484) 2.5 |
赤松氏宿老 連署状案 |
依藤弥三郎 | 浦上美作守則宗・小寺藤兵衛尉則職・中村駿河守祐友・依藤弥三郎・明石与四郎祐実、播磨国守護赤松政則を廃して、一族有馬刑部大輔則秀の子慶寿丸をして家督を継がしめんとし、これを幕府に請う。伊勢貞宗あて。 | 備前文明乱記によれば、この正月に浦上則宗が東条に来ている。会談場所は依藤氏の本拠地豊地城と推定される。 |
文明16年(1484) 12.23 |
栗山文書 | 依藤弥三郎 | 於今度国滝、親ニ候人生涯之砌、御同私宅ニ至、無為ニ取退在所豊地江退候・・・自豊地摂州神呪寺至付副候 | 依藤弥三郎、摂津神呪寺にあって明年春の侵攻を期し、被官栗山三郎左衛門尉に従軍の功を賞す。 |
文明17年(1485) 3.27 |
栗山文書 | 依藤弥三郎 | 依藤弥三郎感状案 去十三日於豊地合戦、分取之事、忠節無比類候、殊赤木一性小野与申者候、御入国初之御合戦候、目出祝着候、弥可被到忠節者也、仍執達如件、 依藤弥三郎 在判 栗山中務丞殿 |
依藤弥三郎書状案は文明17年(1485)にも出されている。豊地城を奪回し、依藤氏の宿老であった栗山中務丞の戦功を賞している。 |
延徳4年 (1492) 1.7 |
蔭凉軒日録 | 依藤弥三郎 | 赤松公被参三井之御陳、伴衆上原対馬守、雑掌、櫛橋新三郎、小寺勘解由左衛門尉、明石与四郎、依藤弥三郎、後藤藤左衛門尉 | 依藤弥三郎、赤松政則に随い、近江三井御陣へ出仕する。 |
延徳4年 (1492) 2.15 |
蔭凉軒日録 | 依藤弥三郎 | 赤松公昨日七鼓刻出陳営、五鼓前被著于六条 蓮寺云々、伴衆、別所新九郎、上原対馬守、同息神六、神十郎、中村駿河守、小寺勘解由左衛門尉、依藤弥三郎、明石与四郎、後藤藤左衛門尉、其余在後不知之 | 依藤弥三郎、赤松政則に随い、近江より京都へ帰陣する。 |
延徳4年 (1492) 2.25 |
蔭凉軒日録 | 依藤弥三郎 | (詳細な文書の文面、不詳) | 依藤(弥三郎)、京都五条油小路玄少法寺を宿所にあてる。同寺住持、この停止を望み蔭凉軒主亀泉集証に後藤藤左衛門尉へのとりなしを求める。集証、後藤では依藤の承引は得られないと判断し、浦上則宗に依頼するように勧める。 |
明応元年 (1492) 11.15 |
蔭凉軒日録 | 依藤弥三郎 | (詳細な文書の文面、不詳) | 依藤弥三郎、赤松政則に随い、金剛寺御陣へ出仕する。 |
明応2年 (1493) 1.1 |
蔭凉軒日録 | 依藤弥三郎 | (詳細な文書の文面、不詳) | 赤松政則、幕府に出仕する。依藤弥三郎もこれに随う。 |
明応2年 (1493) 1.4 |
蔭凉軒日録 | 依藤弥三郎 | 去二日赤松公被出于浦作旅館妙連寺、自初夜頃至三日之巳刻宴了、見帰本能寺、着座赤松公、同出羽守殿、同息又次郎殿、本郷殿、広岡殿、野洲之中島、遠江又六殿、真島殿、別所大蔵小輔殿、同新九郎殿、浦上美作殿、同息松千代丸、同山城守殿、上原対馬殿、小寺勘解由左衛門尉、櫛橋新三郎、後藤藤左衛門尉、明石与四郎、依藤弥三郎、阪東・・・ | 赤松政則が妙蓮寺、京都本能寺などへ行った際に依藤弥三郎も随う。 |
明応2年 (1493) 1.20 |
蔭凉軒日録 | 依藤弥三郎 | 自藤左以盛副寺借用故銅之具足、蓋今晩赤松公請侍別所新九郎為之也、年々嘉例也 | 赤松政則、幕府に出仕する。依藤弥三郎もこれに随う。 |
明応4年 (1495) 4.7 |
大乗院寺社雑事記 | 依藤父子 | 依藤父子参申、山水一見所望云々 | |
明応5年 (1496) 10.4 |
実隆公記(巻三) | ― | 抑重種弥有所用事俄可下向播州依藤館云々、早々可上洛之由仰含了、良薬 皈調中 湯卅包 進置之、自愛々々 | 明応5年10月4日、三条実隆の家司中沢重種、所用ありと称して俄に播州依藤館に下向す。 |
明応8年 (1499) 1.17 |
栗山文書 | 依藤猪五郎 | (浦上則宗・芦田友興連署奉書) 服部小三郎知行分賀東郡内所々事、為御料所可被押置之、 聊不可被遅怠之由候也、仍執達如件、 |
播磨守護赤松義村、服部小三郎所領加東郡内の地を没収して料所となす。 |
年不詳 11.12 |
清水寺文書 依藤太郎左衛門尉 秀忠書状 |
依藤秀忠 | 当寺之事、先祖性好已来、 亡父徹 代々不参之処、今度寄不慮之示現、拙者父子初而参詣申、敬信不浅候、・・・ | 依藤太郎左衛門尉秀忠父子、初めて播磨清水寺に参詣し、同寺領を安堵す。 |
年不詳 11.12 |
清水寺文書 依藤氏宿老連書状 |
依藤秀忠 | 当寺之事、代々以筋目、秀忠一行相調致進之候、殊ニ今度父子初而参詣被申上者、弥以不可有別儀候由、被申候条、・・・ | 栗山宗兵衛尉行久・栗山備後守吉久・稲岡藤左衛門尉宗能・新延左近将監実久・新延河内守忠久が連署する。 |
永正18年 (1521) 4.21 |
東大寺文書 大部荘9か村百姓請文 |
依藤亀市 | 就大部庄之儀、常福寺如此書状并浦上方書出案文三通到来候間、為御被見下進候、如何様之子細候哉、委細可示給候、恐々謹言 | 大部荘9か村の百姓、同荘代官に依藤亀市を口入す。請口170貫文 |
享禄3年 (1530) 5.15 |
興福寺略年代記 (後鑑) |
依藤某 | 柳本播州ヘ出陣。為小寺後詰罷立。ヨリ藤申状取寄。東条谷ノ玉蓮ト云寺に陣取 | 柳本賢治、播磨国依藤某を攻めんとして、この日京を発つ。 |
享禄3年 (1530) 6.29 |
ニ水記 | 依藤 | 後聞、柳本弾正(賢治)近日播州ヨリ藤城攻之、合戦及度々歟、而今夜醉中同居之者令殺害之云々、無道天命難遁之故歟、不打死事且又不便也、悪逆之者皆以如此歟、可思々々、同名悉以打死。相殘衆所々没落了云々 | 享禄三年六月二十九日、播磨加東郡依藤城(豊地城)を攻撃中の柳本賢治、同宿の山伏(浄春坊)によって刺殺さる。依藤氏は浦上村宗与党であり、同城攻撃は別所村治の要請によるもの。村治上洛は享禄三年三月の頃。『実隆公記』同月十八日条によれば、柳本賢治から三条西実隆に対して、上洛中の別所に贈る扇の所望があり、実隆が芍薬の絵の上に千戴集の歌を書いて渡している。柳本賢治の死亡により包囲軍は総崩れとなって敗走。このあと、小寺城(庄山城か)・三木城・有田城(野間城か)が浦上村宗によって落とされ、別所村治は国外へ脱出した。村宗は播磨を完全に掌握し、細川高国とともに上洛の途につく。 |
享禄3年 (1530) 6.29 |
細川両家記 | 依藤 | 同(享禄)三年庚寅夏の比、播州三木の別所(村治)上洛候て、柳本をョて依藤を退治有たき由候處に、柳本同心して、諸勢を催候て依藤が城を責る處に、同六年卅日の夜半に柳本彈正忠を内の者よみ人知らず生害させ候間、則諸陣破れける、より藤よりおつかけ、柳本が首を初めて百餘り討取、山城・丹波・攝津國さはぎ申ばかりなし、然る間播磨西方浦上掃部助則(村)宗打立て東方へ取懸、小寺城・三木の別所城・有田城悉せめ落とす也、討死一千餘人よ云也、 | |
享禄3年 (1530) 6.29 |
足利季世記 (後鑑)第四巻 |
依藤 | 享禄三年夏之比播州冷泉ノ三木別所上洛シテ。柳本ヲ頼テ依藤ヲ対治アルベキ由望ミ給ヘバ。柳本同心シテ諸勢ヲ催依藤ノ城ヲ責ル。コヽニ何者カシタリケン。同六月晦日の夜半計ニ。柳本弾正ヲ指殺テ置ケル間。是ニ諸陣サハギ立別ケルニ。城中キヲヒ。カノ柳本ガ首ヲモ奪トリ百余人討トリケル。然ル間播州ノ西方浦上掃部打立。東方小寺ノ城ヘ取カケ責ケレバ。三木別所城。有田城ヘモ取カケ攻ケレバ。ニ城一時ニ落テ一千余人討死シケル | |
享禄3年 (1530) 6.29 |
興福寺略年代記 (後鑑) |
依藤 | 然処ニ内ノ者忍入テ。六月廿九日夜弾正忠ヲ一刀ツキ了。腹ワタ以外出了。然間アヲタニテ退処ニ。敵ヲツカケ柳本生害也。則陣破了。常恒播州ヨリ御出張。七月六日ニカタカミト云所ヲ立。高砂ニ著陣ト云々 | |
享禄3年 (1530) 6.29 |
高代寺日記 | 依藤 | 柳本賢治播州ニテ自害ス | |
享禄3年 (1530) 6.30 |
ニ水記 | 依藤 | 弾正死去事治定之間。京中早以騒動。大物忽也。不慮之儀不足事歟。上京被官人所々家。又道具持運於川原。悪党取之。物忽云々 | |
享禄3年 (1530) 6.30 |
長享年後畿内兵乱記 | 依藤 | 柳本賢治至播州依藤城発向。於陣中。浦上以賄通近侍士。刺殺賢治云々。常恒至有馬群進発 | |
永禄2年 (1559) 月日不明 |
清水寺文書 浄土寺浄土堂 壁板落書 |
東条依藤殿 | 「此寺ニ ひ出存候、東条依藤殿御内ニ七郎 御恋しや、なふなふ此してニ御成候へ、何となり共御 成度存候、かやうニ申物を御そもしあ 御恋しやなふなふ | |
天正11年 (1583) 7.16条 |
宇野主水日記 「石山本願寺日記」下巻 |
依藤次郎左衛門 | 中村孫平次岸和田城主御礼ニ参、御門主、新門主、興門主御見参、申次刑部卿、御相伴主水、刑法両人、二献夕飯、湯漬也、孫平次与力河毛源二郎、依藤次郎左衛門両人、御トヲリヘ召シテ御盃被下之、孫平次より御三所へ、メイメイニ一腰馬代進上之、・・・ | |
天正11年 (1583) 12.30条 |
宇野主水日記 「石山本願寺日記」下巻 |
依藤 | 岸和田孫平次へ歳暮、小袖二、綿五十把、 河毛、綿五十把、使、益少 依藤、同 |
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天正12年 (1584) 1.16条 |
宇野主水日記 「石山本願寺日記」下巻 |
依藤 | 正月十六日 中村孫平次年頭之御礼ニ被参、御門跡様御対面、御太刀一腰、馬一疋、刑部卿申次、主水両人御相伴、御肴三献ニテ御酒まいる、上様へ御礼儀トシテ進物有之、同時、新門主様へ被参、興門様も御両所なから御対面、一腰、一疋ヅツ、河毛、依藤二人百疋ヅツ進上、御礼ヲ申也、興門様へも同前、御門跡様へも同前、新門主様にてハ御肴二献、 | |
天正12年 (1584) 1.21条 |
宇野主水日記 「石山本願寺日記」下巻 |
依藤 | 廿一日 孫平次へ刑部卿、少進年頭之礼ニ罷越了、上々様より先日之御返礼有之、御門跡様、新、興様よりは一腰一疋ヅツ、上様より綿五把、依藤、河毛両人方へ二百疋ヅツ歟、主水、凌雲も礼ニ罷越訖 | |
資料解説提供:依藤保氏 / 参考資料:坂田大爾氏(小野加東中世史研究)より
最終更新日:令和6年10月7日
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