空を行く雲






     
緒方は結局ヒカルの対局がが終わるまで棋院にいた。
対局室から出てきたヒカルと目が合う。

「進藤 どうだった。」


聞くまでもない事だった。
進藤の相手は先ほど苦虫を
つぶしたような顔をして早足に出て行っていた。

「へへ白星スタートだよ。」

なにより進藤の瞳は輝いていた。







2週続けて緒方はヒカルを棋院まで送迎した。

「なあ〜先生俺来週からはタクシー拾って行くから
もういいよ。」

「そうだな。来週は俺もCSK杯で台湾まで遠征だしな。」

CSK杯は日中韓台の4カ国TOP棋士の団体戦だ。
世界最強棋士を 国を 世界に知らしめるタイトルといっても過言じゃない。


「CSK杯か・・・。俺もいつか出場してえな。緒方先生や王星さんや塔矢
先生みたいに 」


空に腕を伸ばし何かを掴もうとする進藤に
緒方は目を細めた。それはおそらく夢物語ではないだろう。

進藤ならその手に本物の世界を掴む。それもそう遠くない未来に・・・。

来年のCSK杯には ひょっとしたら進藤や塔矢が加わっている
やもしれない。

緒方は新しい風をすぐ傍に感じていた。



「それは楽しみだな。ところでお前に頼みがあるのだが。」

「俺に頼みたい事?」

「今度の遠征は長くてな、留守番を頼みたいんだ。何、留守番と言っても
熱帯魚の世話をしてくれるだけでいいんだが。」

「先生の部屋の留守番?」

「ああ 期間は10日間だ。自由に使ってくれたらいい。
俺のマンションはセキュリティもしっかりしているし大丈夫だろう。どうだ?」


自宅にいるのも結構大変なのだ。
誰かれ俺の知り合いなどと言って、やってきては差し入れや
碁を教えてほしいだのと人が沸いてくる。

母さんが対応してくれるからいいようなものの正直
もっと静かにして欲しいと思う。おかげで塔矢に会う
どころか和谷の研究会にさえ通えていない。
もっとも和谷の方もそれどころではないようだが。

「わかった。先生には送ってもらったし オレで役にたつなら
留守番するよ。」








留守番を頼まれた日、俺は早朝から緒方のマンションを訪ねた。



「ごめん。先生 俺人目があるから早く来た。」

「かまわん。俺ももうすぐ出かける所だ。」

部屋に来てからずっと水槽を覗き込むヒカルの肩に何気なく緒方が腕をかける。

「なあ先生 熱帯魚の世話って俺 何すればいい?」

背の高い緒方を見上げた瞬間、
何の予告もなく玄関のドアが突然開いた。
そこには息を切らした塔矢が立っていた。




「塔矢?」

「随分と早かったな。アキラくん。」

「失礼します。」

よほど慌てて来たのか息も服装さえ整っていない塔矢に俺は驚いた。

「緒方さん どういう事です。いきなり電話で呼び出されて
来てみれば進藤がいる。」

緒方はわざとらしくヒカルの肩に置いていた腕を外した。
それがアキラには余計にシャクにさわった。

「塔矢待てよ・・そのえっと。」

俺が横から口出ししようとすると緒方が俺たちを見比べてひくく笑い
声を上げた。


「まあ〜そういうことだ。思ったよりアキラくんが早く来たから進藤に
大事な事を教え損ねた。進藤 魚も人間と一緒だ。愛情を注ぎ
過ぎんようにな。」

言われた意味がわからずポカンとしていると大きなトランクをもろとも
せず緒方は抱えて部屋をあとにする。


「先生CSK杯・・・」


言いかけた言葉を俺は飲み込んだ。
振り返ることなく緒方が手を上げたのだ。

その背には日本を代表するTOP棋士の貫禄があった。
先生にかける言葉など俺にはなかった。








塔矢と二人きりになった部屋に自然と俺たちは向かい合う。

「進藤 何故ここにキミが?」

「何故って 先生の遠征の間 留守番を頼まれただけだぜ。
それより塔矢はなんでここに?」

「電話がかかってきた。すぐに1人で来いっと。でないと・・・」

そこで言葉を切った塔矢の次の言葉を俺は待った。

「君は 緒方さんと親しいのか?留守番を任されるぐらい。」

「どうだろ?でも棋院へ送ってもらった礼もあるし、この間人に
囲まれた時、助けてもらったし、やっぱ断れないだろ?」

「緒方さんに何もされなかったか。」

「なに心配してんだよ。何もされるわけないだろ。ひょっとして
心配してくれたのか。」

「ああ ずっと心配だった。こんな事になって君が日本に
帰って来てからも 連絡できないし、会えないし・・・」

「俺は大丈夫だよ。お前もだろ?芦原さんや緒方先生
に助けてもらったって俺聞いてるぜ・・・それにほら
俺たち今日会えたじゃん。それって先生のおかげだと
思うけどな。」

俺は「10日間自由に使ってくれていい。」そう言った緒方の言葉を
思い出していた。




「あのさ、緒方先生がこの部屋自由に使っていいって。」


それはきっとそういうことなのだ。



熱いまなざしが俺をみつめていた。
俺の腕に塔矢が手を伸ばす。

「進藤 いますぐ君が欲しい。」

俺もすぐに塔矢を感じたかった。

「うん。」

塔矢に力強く抱きしめられて俺はようやく実感した。

ようやく日本に帰ってきたのだと。

     
      


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