僕は関西棋院へと向かう前に病院に立ち寄った。
ちょうど病室から出てきた彼の母と鉢合わせして
軽く会釈を交わしたあとすれ違いざまに僕は呼びとめられた。
「塔矢くん・・・・ごめんなさいね。」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げていた。
僕が家に伺った時に彼女が「何も知らないと」
言ったことへの謝罪だと理解した。
「いえ。あの時の事でしたらもういいんです。事情を
お察しすれば仕方がないことだと僕も思っています。」
慎重に選んだ言葉に彼女は顔を横にふった。
「そのこともあるのだけれど、塔矢くんがここに 通うようになってあの子変わったわ。 何が どうってはっきりいえないけれど、塔矢くんが病室に 来るのを待っているような気がするの。
あの子は何も言わないかもしれないけれど。
プロ棋士の塔矢くんが忙しいのは重々承知でこんな事
をお願いするのは恐縮なのだけれど、無理を承知で
あの子にたまに会いに来てやってくれないかしら。」
進藤が望むことなら、僕を望んでくれるならどんな事だって
惜しいとは思わなかった。
「もちろんです。僕でよければ・・。」
何度も頭をさげる彼女は以前あった時よりなぜだか柔らか な感じがした。
僕が病室に入ると進藤のテーブルには手をつけられていない 昼食がそのままになっていた。
「進藤 食事中?」
「喉通らなくてさ。薬の影響でとても食べられないんだ。」
「そう。でも少しは食べないと。」
「母さんがりんごを買いに行ってくれたからそれを食うよ。」
「りんごならたべれそうなんだ。」
「ああ。でも本当はラーメンが食いたいんだけどな。」
ラーメンと言った進藤にお互い小さく噴出した。
今日の進藤はこの間訪れたときよりずっと顔色も調子も
よさそうだった。
「塔矢・・・」
「何?」
「ここに来る時お袋に会わなかった。」
進藤は窓辺から外を見下ろすとうれしそうにそう言った。
「病室の前で会ったよ。」
「なんか変だと思わなかった?」
進藤が何を言いたいのかわからず「わからないな。」 と僕は応えた。 もったいぶるように進藤はへへっと鼻を鳴らした。
「俺さ 兄ちゃんになるんだぜ。」
僕は先ほど彼女に感じた違和感を思い出す。
「ひょっとして君のおかあさん妊娠中なの?」
「そうなんだよな。って実は俺も今知ったところ。
お袋、俺のことで頭が一杯でぜんぜん気づか
なかったんだってさ。もう5ヶ月になるっていうのにだぜ。」
進藤は本当にうれしいのだろう。瞳を輝かせて
口元を綻ばせていた。
「お袋さ お腹の子が俺と同じHLA型かもしれないっていう んだぜ。そうだったらいいのにって・・・。
馬鹿だよな。いくら一緒でも生まれてすぐの赤ちゃんから なんて俺もらえねえよ・・」
笑顔とは違って進藤の言葉はどこか遠かった。
半場あきらめを含んでいるように感じて僕は胸が締めつけられた。
「君に生きていてほしいんだよ。
何があっても、どんなことをしても・・」
僕も彼女と同じ気持ちだから痛いほどその気持ち
がわかった。
僕は進藤の肩を抱きしめていた。
僕の手を払いのけようとした進藤の腕は脆くも僕の腕の中に
滑り落ちていった。
進藤の大きな瞳から溢れだした涙が頬を伝い僕の肩に
零れる。
僕は堪えきれない気持ちを進藤を胸に押し付けることで必死に
抑えた。
「塔矢もうここにくるな。」
縛りだすような声に説得力はどこにもなかった。
「君が本当にそう望んでいるなら僕はもうここにはこない。
でも違うだろ。君は・・・君は僕を待っている。
僕を愛しているだろう。違うのか?」
「お前の事なんかなんとも・・」
思ってない・・・の言葉を僕は進藤の唇を塞ぐことで飲み込んだ。
どんなに進藤が言葉で僕を拒否してもそれはただの虚勢にしか 過ぎない。
唇が離れると進藤は唇を噛みしめ下を向いた。
病室に足音が近づいてカチャリと扉がなる音に僕はそっと
彼の肩を離した。
病室に戻ってきた進藤の母に僕は頭を深く下げた。
「また伺います。」
それが精一杯だった。
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