先生のマンションはお洒落できれいだったが、日本の先生の家に比べると
とても狭くて周りの環境は騒然としていた。
「進藤君 いらっしゃい。」
塔矢のお袋はとてもやわらかくて優しい感じがした。
「お邪魔します。・・・えっと・・・」
そんな彼女を何と呼んで良いのか正直とても困る。見た感じも
若くて‘おばさん‘と呼ぶには随分抵抗を感じる。
「えっと何てお呼びしたらいいのか。」
正直に迷った事を尋ねたら先生と彼女は顔を見合わせてくすりと笑った。
「‘明子さん‘でいいわよ。」
俺はリュックに入っている手土産の事を思い出して明子に手渡した。
「すみません。昨日母が送ってきたんです。うまいかどうかわかんな
いんだけど・・・」
そういって渡したお煎餅に彼女が目を丸くする。
「あら、私ここのお煎餅大好きなのよ。」
彼女の笑顔は本当にやわらかい。塔矢に似た表情でそんな風に微笑まれて
俺はドキドキする心臓に苦笑した。
イスを勧められて先生の向かいに腰掛けた。
明子がお茶と俺が持ってきた煎餅を出しながら話しかけてきた。
「進藤くん。大変でしょう。慣れない土地で一人で留学なんて、ご両親も心配
されてない?」
一人で留学といっても食べるものに困るわけでもないし、洗濯や炊事もやっ
てもらっている。それに周りにいる人たちは親切でやさしい。大変と思う事は
ない。
「いえ。全然。言葉がわからなくて四苦八苦する事はあるけどそれも最近碁に
関する事ならわかるようになって来たし、俺ここでの生活すごく気に入ってますよ。
それよりアキラはどうしてるんですか?あいつの方が一人暮らしで俺なんかより
ずっと大変だと思うんだけど。」
アキラと呼ぶことになんだか抵抗を感じたが、ここにあいつがいるわけ
じゃないし塔矢と呼ぶのも失礼のような気がして俺はそのまま呼ぶことにした。
「ええ、この間電話したら芦原さんが取り次いでくれて研究会の最中だったようだ
けど元気にしてるって。
研究会も私がいないから何のもてなしも出来ないでしょう。だから棋院で
したらって言ったのだけどアキラさんが少しでも一人にならにようにと緒方さんが
自宅でできるように計らってくれてるみたい。」
その話を聞いて俺は少しほっとする。塔矢自身は気づいていないのだろうが、
緒方はそういったさり気ないこころ配りをしてるんだろうと思う。
気遣いや思いやりは簡単なようでいてむしろ難しい。
たいがいは押し付けになってしまう事が多いのに、緒方は相手が気づかないほ
どの思いやりを自然にしてしまう。大人の余裕ってやつなのだろうか。
俺には真似できなくてちょっと悔しい気もする。
「塔矢門下の人たちは良い人ばかりで、アキラもしっかりしてるし一人暮らしでも
安心ですよね。」
俺の言葉に明子は戸惑いがちに目を伏せた。
「進藤君変な事を言うけど許してね。
本当はね。アキラさんを一人暮らしさせるのは私には抵抗があったのよ。
あの子は進藤君のいうとおりしっかりしている。それでいて脆いところもあるのよ。
けっしてそれを外に出すことはしないけれど。
アキラさんが中国棋院に留学してくれたら少しは一緒に居られるかと思って、
主人に推薦して欲しいとお願いしたぐらいなの。」
それはもっともだと思う。俺だって先ほどそう思ったぐらいなのだ。
「いえ、俺も・・・・」
俺が言いかけたときにそれまで俺と明子さんの会話を聞いていた
先生が口を挟んだ。
「アキラはここには来なかったよ。たとえ私の薦めでも。」
「あなた?」
「アキラはどこにいても碁の勉強はできると思っている。中国でなくてもね。
それは私自身もアキラと同じ考えだ。。中国に来たからといって碁が強くなる
わけじゃない。
だが、その国でなければ学べないものもある。出会えない人もいる。
何かを極めるためには、それを客観的に捉えられるもう一人の自分を
育てるのも大切な事だと思う。
それに・・・アキラは進藤君のいる日本からは離れなかっただろう。」
俺は驚いて先生を凝視する。
「あなた、それってどういう事ですの?」
明子の問いかけに俺の胸がドキンと跳ねた。
まさか、先生が俺たちの事を知ってる!?
「進藤君はアキラが唯一認めたライバルなんだ。
感情をぶつけたり本気でどなりあったりできるのは互いを認めてるからだろう。
違うかね。進藤君。」
勘が鋭い先生にはヘタをすると全てを見抜かれてしまいそうで、そう思うと
俺は慎重に言葉を選んだ。
「そうかも知れません。お互い意見が合わなくて喧嘩
ばかりしてるのにそれでもまた次の日にはお互いけろっとして
碁盤をはさんで打ってて。
本とにアキラとは仲が良いのか悪いのか俺にもよくわからないです。」
先生は苦笑しながら明子に向って言った。
「アキラが感情を剥き出しにして怒鳴るとすごい迫力があるのだそうだ。
碁会所のお客が言ってたが信じられないだろう。」
目を丸くした明子がうなずいた。
「そうですね。感情的なアキラさんはあまり見た事がありませんわね。」
納得したらしい明子に先生が今度は俺に目線を戻す。
「進藤くん、これからもアキラと仲良くしてやってほしい。」
それは碁打ちとしての先生の言葉でなく塔矢の父親としての
言葉だったのだろう。俺は先生が俺たちの仲を知らない事に
安堵しつつも後ろめたい気持ちに、目線を合わせることが
出来なかった。
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