大地へ






     
楊海が出かけた後、対局室を覗いてみたが連休なのと朝早いせいか
人影はなかった。俺はやむなく資料室へと足を運んだ。



ここには、古今東西の棋譜はもちろん日本の囲碁に関する
本や資料も取り揃えられていた。その中から週刊囲碁を取り出す。


さすがにリアルタイムというわけにはいかず最新号で7月5日発刊。


その号の昇段棋士の中に塔矢の名前を見つけて俺ははっとして
息を飲み込んだ。


あいつ4段になったんだ。


「塔矢おめでとう。」


そうつぶやいて塔矢 アキラの名をそっと指でなぞると募るおもいが
胸から溢れ出しそうになった。


『塔矢に会いてえ・・・・』


そう言葉にすると胸が余計に締め付けられた。



俺はこの気持ちが治まるまでずっと週刊碁を胸に押し付けた。





なんとか気持ちを切り替えられたのは秀策(佐為)の棋譜が
目にはいったからかもしれない。

だめだよな。俺、こんな所で挫けてたら。お前のライバルとして失格
じゃん。
自分に叱咤して週刊碁を棚にしまうと代わりに完本秀策全集の4巻を
手に取り資料室を後にした。




部屋に帰る途中通りかかった対局室で俺は懐かしい声を聞いた。


聞き間違いかと思って対局室に入ると先ほどと違って人が数人いて・・・
その中心にいたのは塔矢先生だった。



「塔矢先生!?」

俺の声に先生を囲んでいた人たちが振り返った。

「労駕(ロオジラ)・・・・」 :( ごめんなさいの意)

対局中に声を掛けたと思って咄嗟に謝ったがちがったらしい。
塔矢先生は俺の声に笑顔で微笑んだ。

「進藤君 久しぶりだね。こっちでもがんばっているそうじゃないか。」

懐かしい声と顔に俺もつい顔がほころぶ。

「ええ。まあ、」


先生の周りにいた人たちが気を利かせてくれたのか席を外してくれた。
俺はそのまま先生の向かいに腰かけた。

「先生こちらにはいつ、どれぐらい滞在予定なんですか?」

「ここに来たのは3日ほど前だよ。12月には韓国に行くけれど
半年はこっちで暮らす事になりそうだ。進藤君その間はよろしく頼むよ。」

「俺の方こそお願いします。」



ここが日本であればこんなになれなれしく先生に話しかける事はないのだが、
なれない中国で日本人の知り合いに会えただけでも俺はうれしくてつい礼儀を
欠いてしまう。

それが、塔矢先生だったんだからなおさらだ。この際自分から対局を申し込んで
みようかなどと、かなり大胆な事を考えてるあたりすごい事だと思うのに。
そんな俺に先生は優しく話しかけてくれた。


「進藤くん。今日 明日は休みなのだろう。」

「ええ。」

「よかったら家へこないか?」

「先生の?」

「うむ。北京郊外にマンションを借りている。」

塔矢先生の申し出は非常にうれしかった。

「お邪魔していいんですか?」

「ああ。アキラと同じ年の君が来たら明子も喜ぶ。それに君とは
ゆっくり一度対局したいと思っていたからね。今日はマンションに
泊まっていったらいい。」

俺は先生の言葉に感激する。
もしかしたら俺の心情を察してくれたのかもしれない。

「予定がないなら今から出掛けてもよいんだが・・・」

「ありがとうございます。俺出掛ける準備してきます。」

「ここで待っているよ。」

俺はいそいで部屋に飛び込むと準備に取り掛かかった。
とにかく先生を待たせるわけにはいかない。

昨日お袋が送ってくれた煎餅もリュックにつめこんで
出掛けようとした時俺はもう一度思い出して楊海に置き
手紙をした。
ひょっとしたら楊海より帰りが遅くなるかもしれない。


メモ用紙に用件だけを書く。

[今日は塔矢先生のマンションに泊まります。心配しないでください。 進藤 ]

よし、これで準備は完了。



俺は塔矢先生の待つ対局室にいそいだ。
     
      


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