雨降り仕切る中、アキラは雑居ビルの2階を見上げた。
閉店前久しぶりに訪れた碁会所にはそこだけ薄灯りがともっていた。
傘を閉じる間ももどかしくて、アキラは駆け足で階段を上がった。
扉を開けると『カランカラン』と優しい音が出迎える。
「あら、アキラくん久しぶりね」
迎えた市川は普段と変わりなかった。
「今からでも大丈夫でしょうか?」
「ええ、もちろん、どうぞ」
店内にはすでにお客はない。それに少しほっとしてカ
ウンター席に座ると市川は『少し待ってね』とコーヒーを淹れはじめた。
インスタントでなく豆から挽いたキリマンジャロだ。
店内にコーヒーの香りが立ち込める。
市川と付き合っていた当時からその光景は当たり前だった。
いや、子供の頃からアキラはこうやって何かあるとここに来ていた。
『どうぞ』とコーヒーが置かれる。
「一昨日は緒方先生が来て、昨日は進藤くんが来てくれたのよ」
アキラは市川の物言いにまるで見透かされているような気
がした。
「モテモテでしょう?」
おどけて笑った市川にアキラは何と言ってよいかわからなくて差し出されたコーヒーを含んだ。
ほろ苦さが口内に広がる。でもアキラはこの市川の淹れるキリマンジャロが好きだった。
「名人戦5局目、残念だったわ」
進藤との名人戦も後半戦に入り、
1局目と2局目はアキラが勝ち、3局目は進藤が取り、4局目は
アキラが勝った。先行しているのはアキラの方で
後一勝すればいい。
けれど進藤はそう簡単には勝たせてはくれないだろう。
アキラはまじまじと市川を見た。『残念だ』というけれど、その口で進藤には何と言ったのだろうか?そんな事を思った自分が浅はかだと思う。
「市川さん、進藤と付き合っているというのは本当ですか?」
「ええ、本当よ」
遠かった雨音が近くなり静かな碁会所の窓に叩きつけていた。
「言い出したのは私なんだけどね」
「どうして?」
「進藤君がアキラくんを愛してるって知ったからかな」
その意味をアキラは計りかねた。
「進藤がそんな事を言ったんですか?」
「まあ直接は聞いたような、聞いてないような・・・。」
市川は笑って誤魔化すと自分もコーヒーを運んだ。
「アキラくんも・・・なのでしょう?」
一瞬の間の後アキラは頷いた。
「アキラくん、なぜ進藤くんがアキラくんに応えないと思う?」
「市川さんは知っているのですか?」
「うん、まあ」
「教えてくれませんか?」
「アキラくん・・・。」
言葉を探す市川にアキラは酷く苦い想いを抱く。こんな事を市川に聞くなんて身勝手極まりない事だ。
「すみません」
「謝らないでよ。私もひどい事してる自覚あるもの。
私ね、進藤くんの事ほっとけなかったの。
進藤君はね、自分の存在がアキラくんの幸せを妨げてるって思ってるのよ」
「なぜそんな事を?」
「進藤くんはアキラくんに結婚して幸せになって欲しいのよ。
それで、アキラくんがそうであったように子供に繋いで行って欲し
いって。
進藤くんはお父さんになったアキラくんを見たいのだと言ってたわ」
「彼はそれが僕の幸せだと思ってるのですか?!」
声が上ずった。そんな勝手な事を決めつける言われはない。
進藤は何もわかっていない。
本当の幸せなんて押し付けでも、決められるものでない。
「進藤くんは本当にアキラくんを愛してるのよ。自分の幸せよりもアキラくんの幸せを望んでいるもの・・・」
「そんな勝手な事を、」
「だったら聞くけれど、アキラくんは進藤くんが別の誰かに恋をしても、もし結婚してもその幸せを心から喜んであげられる?・・それでも進藤くんを愛せるかしら?」
「それは・・・。」
絶句して、アキラは市川に自分の甘さを叱咤された気がした。
進藤はずっと自分だけを想い続けてくれた。
アキラが気づかなくても、市川と付き合ってる時も、そして今も
変わりなく。
何も求めず、ただアキラとライバルとして歩いてくれた。
そんな無償の愛にアキラは応えることが出来るのかと市川は
問うているのだ。
その愛に応える為に今、何をすべきかアキラはようやくわかったような気がした。
「・・・僕はどんな進藤も愛せます」
「ああ〜。恋敵に塩送るようなマネしちゃったかな」
苦笑した市川にアキラも苦笑した。
「市川さん、ごめんなさい。やっぱりあなたに進藤は譲れません」
「あはは・・・、言ってくれるじゃないの」
軽い口調で答えた市川の気持ちは本当はアキラが一番わかっていた。だからこそそういう事にして置こうと思った。
「うん、じゃあこんな所で油売ってる場合じゃないでしょう」
「はい」
アキラも逸る気持ちがあったが、本当は市川が一人になりたいのだろうと思う。
アキラは店を出る前に言った
「市川さん、僕は貴方を好きになってよかった・・・。」
背後で『うん、ありがとう』と小さく頷いた声はいつもの市川のものではなかった。
だから振り向かなかった。
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