RAIN

10

 

     




部屋を出るアキラを市川が追う。
向かおうとしたアキラが振り返った。

「あの市川さん、今回は迎えはいいです。」

その言葉に市川は寂しさも、もどかしさもこみ上げる。
例え勝負に負けても・・・、そんな時だからこそ
支えられる存在になりたいと思うのに、アキラはそんな所は見せたくはないのだろう。

「うん、わかってる」

それでも市川はそう言ってほほ笑んだ。

「でも・・・、」

そんな市川の気持ちを悟ってかアキラは慌てて何か言おうとしたが、市川は背伸びしてアキラの口元に軽くキスした。

「頑張って」

「はい」

アキラが去った後、市川は深い溜息をついた。
あれ程考えた見送りの言葉が『頑張って』なんて。

あまりにチープな気がした。
でもこれから勝負へと立ち向かっていくアキラに言える言葉は市川は思いつかなかった。

『アキラくん、頑張って』

心の中でもう1度強く市川はそう言った。







----名人戦第一局


ホテルの部屋からエレベーターに乗り込むと先客と目が合った。

「よぉ!」

進藤は歌うように軽く声を上げた。
そんな彼に小さく会釈だけして何も言わなかった。

息がつまるようなエレベーターの中で、ちらりとみた進藤の横顔は心なしか楽しそうに見えた。
この二人きりのエレベーターの状況さえも楽しんでいるような。
その様子に少しほっともしてる。


エレベーターが開き、進藤はアキラに先を譲るように開閉ボタンを押した。

「どうぞ、塔矢名人」

少しおどけてみせたのは、恥ずかしかったからかもしれない。
だがその態度は僕に対する敬意、いや今から対局する相手への敬意がこもっていた。
相手がアキラでなくともそうしていただろう。

その敬意をありがたく受け取り、アキラは速足で歩きだす。

アキラの中にある懸念がなくなったわけじゃない。
それは進藤だってそうだろう。

けれど・・・、 今日を待っていたのは君だけじゃない。
今はただ純粋に進藤との対局に臨みたい。
アキラの心の中も今これから始まる対局に胸が躍っていた。





激闘の途中で1日目が終わり、進藤が大きく背伸びする。

「足しびれた〜疲れた!!」

進藤の声に対局の緊迫が解け、報道陣からどっと笑いがもれ思わずアキラもつられたように笑った。

進藤は前の緒方とのタイトル戦の時のような精神面の弱さ
は感じなかった。もっとも報道陣の前でそういう姿を見せてはいないだけかもしれないが・・・。

今日は初日のそれも1日目なので簡単な感想戦があるだけだ。

先に出たアキラを追って出た進藤が背後から声を掛けてきた。

「塔矢明日は嵐になるってさ」

振り返ると進藤は笑っていた。

明日の天気予報は数日前から荒れるだろうと予報されていた。
アキラが市川に迎えを断った理由の一つもそこにあったが
予報は今も変わっていない。
だが、進藤の言ったのは天気の事だけではなさそうだ。

「そうだな」

進藤はそれだけ言うと満足したのかアキラの横をすり抜けた。

そしてそんな進藤を追う事も出来ずアキラはただその背を見つめた。

離れて行くその背が、進藤から・・・目が離せなくなる。



こんな時に、こんな他愛もない事で気づくなんて・・・。

アキラは隠すことが出来なくなった心の奥の想いを手で
握りつぶすように拳を込める。それでもあふれ出す想いは本当にもうどうしようもなかった。



『君が・・・好きだ』

引き留めたい衝動がアキラ襲う。

『君が好きだ。』

抱きしめてしまいたくなる衝動が突き抜ける。

『進藤・・・』



その背を呼び止めた心の声は、けれど声にはならない。



どうにもならない苛立ちと、
そして今この時君と真剣に戦える喜びが交じり合ってる。


矛盾するような感情はそれでも後者の方が大きかった。





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