この空の向こうに
(疑 惑)

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その日アキラは棋院で1日仕事が入っていた。
雑誌の取材やスポンサーとの会合、そして昼すぎからは研究会もあった。

2階のエレベーターを降りた宣伝部前で天野がアキラに声を掛けた。

「こんにちわ、塔矢先生今日は取材でしたか?」

「ええ、それもですが今からスポンサーとの会合です。」

天野は周りを伺って声を落とした。

「ところで先日のsaiとのネット対局。あれは塔矢先生
ご自身が打ったというのは本当ですか?」

saiとネット対局してからアキラはよくそのことを聞かれた。

「ええ、恥ずかしながら負けてしまいましたが。
天野さんもご覧になっていたのですか?」

苦笑すると天野は首を横に振った。

「いえいえ、編集部のもので観戦していたものがいて
私は後から棋譜を拝見したのです。
塔矢先生の碁全く悪くなかった。
それにしても緒方先生や塔矢先生までも負かしてしまうとは、
saiは一体何者なのか?編集部はそれでもちきりですよ。」

「僕もそのことを考えていました。」

「塔矢先生も思い当たる人はいませんか?」

「残念ながら。」

アキラはため息をついた。そう全く思い当たる者はない。
その筈なのに・・・。アキラはちらついた進藤の影に
どうかしていると思う。

「しかし日本人でプロ棋士となれば限られているはず。
これほど注目を浴びていれば相手を特定できそうなもの
なのに。」

ネットでプロを名乗ることができるのは当然プロだけだ。
登録する際に確認があり一般人はプロを名乗ることは出来ない。

「saiが日本国籍のプロ棋士であることは間違いないでしょう。」

アキラはパンネットに問い合わせてみたのだ。
だが答えは「教えられない」というものだった。
ネットには匿名にする意味がある。それは個人を守るためでもあり
当然そう返答が帰ってくるのはわかっていたはずなのに、
アキラはそうせずにいられなかった。

「私なりにも調べてみたのですが、ネットのプロ棋士登録は一度すれば
その後プロを辞めても解除はされないようです。」

「それは本人からの申告がなければ・・ということですか。」

「そういうことになりますね。ですからsaiは以前プロ棋士だった人。
・・・かもしれませんよ。たとえば塔矢名誉名人のように、」

塔矢名誉名人というのは父の事だ。
なるほどっとアキラは思った。

「まさかsaiは名誉名人なんてことはないでしょうね?」

アキラはそれに苦笑するしかなかった。

「それはないですね。父は実名を使います。」


それはプロとして「塔矢行洋」であることを偽らないためだ。
同時にその名を背負い責任を取るということでもある。
それはアキラとて同じ考えだった。

「しかし・・・そうなると本当に誰なのか・・・。」

天野はsaiが「塔矢行洋」だとは本気では思っていなかったで
あろうが多少は勘ぐっていたようだった。

「ええ、それにsaiは僕との対局以来ネットに現れていないことも
気になります。」

この騒ぎを知って控えたのか。
それともアキラに自分の存在を知らしめるためにネット碁を
していたのか。

だがこの強さで匿名にすれば騒ぎになるのは最初から
saiもわかっていたはずだ。ましてsaiは亡くなった進藤が使っていた
ハンドルネームなのだ。

自惚れかもしれないがアキラを挑発しているようにしか思えなかった。

この時エレベーターが開いて約束していたスポンサーの担当者が
降りてきた。

アキラと天野は軽く会釈した。




そのエレベーターから子供たちの会話が漏れた。

「そんなに強いのか?」

『そりゃもうsaiは本当強えんだって。』



この声・・・!?

ひときわ高い子供の声に
アキラは心臓が鷲掴みされたようにエレベーターを振り返った。
だがアキラが見た時はエレベーターは閉まった直後だった。

「あの・・・エレベーターで誰か一緒でしたか?」

アキラの質問に担当者は一瞬きょとんとした。

「ああ、子供が3人。一緒でしたが。」

もう1度アキラはエレベーターを見るとその行先は5階だった。
天野が笑った

「この時間だと院生ですよ。院生の間でもsaiの噂は広がってる
いるのでしょう。」

天野は子供たちが話していたのがsaiの話題だったことに気を留めた
ようだったがアキラは違っていた。


『あの声…』・・・・似ていた。



足を止めたアキラを天野がやんわり促した。

「塔矢先生部屋の準備出来てますよ。」










夕刻からの研究会も終わった後、1階のエレベーター前でアキラは
伊角と出くわした。
軽く挨拶を交わしてすれ違おうとしたら伊角の方から声をかけてきた。

「塔矢、今日は仕事か?」

「ええ、もう終わりましたが。」

「そっか、だったら少し時間を取れないかな。」

「構いませんよ。」

伊角がアキラに声をかけてくることなんて珍しかった。
対局か仕事で一緒になるぐらいか。
もっとも進藤が生きていたころはもう少し接点があったのだが・・・。

伊角はエレベーターのボタンを押した。
アキラは今しがた降りたエレベーターにもう1度乗車した。
行先は6階だった。

「それで今からどこに?」

「いずれ黙っていてもわかることだから。」

伊角が言ったのはそれだけでアキラもそれ以上問わなかった。

6階には控室や検討室が並んでる。
その一室を伊角は示した。

「ここにいるんだ。」

アキラが入室すると和谷と一人の少年が対局していた。



アキラはその少年の姿に全身の血がいっきに沸騰したような気がした。



進藤・・・・だった。

出会ったころの進藤そのままの容姿の少年がそこにいた。


違うことと言えば彼のチャームポイントだった前髪が黒かった
ことぐらいだ。

和谷は伊角とアキラの入室にすぐ気付いたが少年は全く
解していなかった。
相当に集中しているのだ。


「ひょっとして進藤の・・・?」


アキラの声は震えていた。


「ああ、弟の勲(いさむ)だ。」



進藤が亡くなった日に生まれた彼の弟・・・。
病室で進藤は弟が生まれてくるのを心待ちにしていた。

そして進藤は生まれたばかりの弟を愛おしげにその胸に抱いて・・・。
息を引き取ったのだと美津子から聞いた。

まるで生まれ出るその日を待つように。
その子に託すように・・・。




アキラはヒカルが亡くなった日の事を思い出し戦慄いた。



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本編からヒカルの弟の名を変えました。ひいろ




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