翌朝、幕府の使いが緒方邸に訪れた。
傍には芦原と冴木が控え
緒方は幕府からの佐為の処分についての報告を受けていた。
「・・つまり此度のお城碁で見極めると」
「はい。佐為殿と塔矢アキラの一件が上様の耳にも入り、弟子との一局に
命を懸けようとするものが八百長など目論むであろうか・・・と。」
緒方は腕を組む。佐為の八百長疑惑は晴れたわけではない。
だがチャンスを与えられた。アキラとの命を懸けたお城碁に。
「将軍様の采配に心からお礼申し上げる」
緒方はふかぶかと使者に頭を下げた。
胸を刺すような痛みに緒方は言い表せない思いを抱いていた。
佐為が負けるはずがない・・・。
だがあの時見た佐為はあまりに儚く美しすぎた。
使いとそれを見送りに出た冴木と入れ替わるように、ヒカルは緒方
の元に訪れた。
芦原は緊張を解くと緒方に言った。
「ヒカルが来ております」
「緒方様、お暇の前に挨拶を」
顔は見えないが、ヒカルの声に緒方も笑みをようやく浮かべた。
「こっちにこい」
緒方に所望されヒカルが部屋に入る。
「もっとこっちだ」
言われるまま緒方の前に赴き膝を落とそうとするとまた声を掛けられた。
「もっとこっちだと言ってる」
「えっ・・と」
ヒカルは困ったように声を上げ、視線を上げた。
すでに緒方との距離は3メートル程で用もなくこれ以上近くに寄ると失礼であった。
まして今は芦原も傍にいるのだ。
芦原は緒方を咎めるように咳払いして、緒方は苦笑した。
「芦原、お前邪魔だ」
「なんですか?それは」
「邪魔だから邪魔だと言ってる」
芦原は止む無く立ち上がった。
「ヒカルくん、殿との話が終わったら僕の所に来て、送って行こう」
『一人で帰れる』とヒカルが言う前に芦原は部屋を出て行ってしまった。
「邪魔なやつが退散したな」
緒方は自分から立ち上がりヒカルの元に歩み寄った。
「緒方様?」
「ようやく可愛い声も戻ったな」
まだ吃音はあったが、会話に支障はほとんどなくなっていた。
「行くのだな」
緒方がヒカルを抱き寄せた。
「緒方さま・・」
ヒカルを抱きしめる腕の力が痛いほどに強くなる。
ヒカルは昨夜の緒方の譫言を思い出した。
ヒカルを抱きしめ「行くな・・・」と2度言ったあの言葉だ。
それは夢の中の佐為に言った言葉であったかもしれないが、
今自分に向けてそう言われている気がした。
この腕は大きくて強くて、与え、奪う。
ヒカルは緒方に応える為腕を回した。その手はまだ緒方の背に十分に届
かないが。
ヒカルはこの1週間でアキラに会えるかもしれない・・・という
甘い気持ちを持っていた。
けれど会うべきでないのだと今はっきり感じていた。
ヒカルを抱きしめていた手が解かれる。
顎を持ち上げられ視線をはぐらかせても、捉えられ、
甘いキスにくらりとして、頬を染めた。
「ダメだな。お前をこの腕に抱くと留めておきたくなる」
「お、緒方様」
ヒカルが真っ赤になると緒方は笑いながらヒカルを解放した。
「21日 国について来い」
ヒカルは一瞬の間の後「はい」と頷いた。
ヒカルが芦原の部屋に行くと芦原はもう出掛ける準備が整っていた。
「行こうか?」
屋敷を出てヒカルは芦原に気になっていた事を聞いた。
「芦原さん、あの緒方様何かあったのですか?」
「どうして?」
「いや、あの・・・先日から屋敷の様子が慌ただしいっていうか」
「ああ、まもなく国に帰るからな。予定より早くなったし、先日は将軍さまへの
あいさつもあったしでバタバタだよ」
最近周りがヒカルに余所余所しい事にヒカルは気づいていた。
まるで腫れ物にも触るようだと思うときもある。
ヒカルが緒方の寵愛を受けていることもあるだろうし、ヒカルの自殺未遂の
事もあるのだろうが。
ヒカルにはそれだけとはどうしても思えなかった。
緒方のあの譫言もだ。
「それより、ヒカルくんの方はどう?」
「どうって?」
「今朝、縁側で緒方様と一緒に寝てたろ?」
ヒカルは真っ赤になった。まさかそんな事を芦原に見られていたとは思って
なかったのだ。
「あれは緒方様が酔いつぶれて寝所に移ってくれないから」
いやいや、と芦原はヒカルを冷やかすように笑った。
「あんな所で寝たらまるでみんなに見てくださいと言ってるみたいだろ?
僕も、目のやりどころに困ったよ」
「ひょっとして、他の人にも見られたとか?」
「もちろん、冴木くんから報告を受けて中頭たちもいたよ。
起こした方がいいんじゃないかって冴木さんが言ったけど
僕が面白いからこのままにしておこうって」
「あっ芦原さん!?」
ヒカルは全くそんな事気付かなかった。まさか芦原だけでなく冴木や中頭
たちにも見られたのなら、今頃は屋敷中に広まってるはずだ。
「でもよかったよ。ヒカルくんが元気になって。ご両親から預かっている手前
気が気じゃなかったんだ」
「ごめんなさい、芦原さん」
「謝らなくていいよ」
芦原は間もなくヒカルの両親の住む長屋も見えるという所で足を止めた。
「ヒカルくん、諦めはついたのかい?」
一瞬の間にヒカルはドキリとした。
芦原が碁の事を言ってるのか、アキラの事を聞いてのかヒカルにはわからな
かった。
「諦めたふりをして、自分を誤魔化してるんじゃないかい?」
「芦原さん、正直オレ今わからないんだ。
でもアキラが佐為とお城碁で戦えるなら、オレはそれでいいんじゃないかって・・・
思ってる」
「お城碁の話は誰に聞いたの?」
「佐為が屋敷に来た時に、この7月20日にアキラと対局するって」
「ヒカルくんは塔矢アキラ殿を諦められるのかい?」
「あっ・・・」
ヒカルは応えられず、顔を落とした。
「ここだけの話にする。僕は誰にも言わないよ」
「ずっと、きっとオレはアキラを想ってる。たとえ死ぬまで会えなくても
オレは、あいつを諦める事なんて出来ない。心だけはあいつをずっと・・・想って、」
ヒカルはボロボロと溢れる涙を止めることができなかった。
芦原はヒカルの背を優しく撫でた。
「ごめん、ヒカルくん。辛い事を聞いてしまった。
せっかく家に帰るって言うのに、そんな顔じゃ、ご両親が心配する」
えぐえぐしゃくりながらヒカルは小さく頷いた。
「もう一つだけ聞いていい?このお休みの間にアキラ殿に会いに
行こうと思ってるかい?」
芦原はそう言ったあと、『これもここだけの話だから』と付け加えた。
ヒカルはしゃくりながら首を横に振った。
「アキラには会わない。会えば辛くなるし、その・・・緒方様に後ろめたくなるから。
でも佐為には会いに行こうと思ってる」
「そっか、じゃあ僕は屋敷でヒカルくんが帰ってくるのを待ってる。
一緒に駿河に行こう」
「はい」
大きく手を振るヒカルに芦原は笑顔で応えた。先ほどまで泣いていたヒカルにも
笑顔が戻っていた。
ヒカルが佐為の元に行けば真実を知ってしまうだろう。
その時どうするのか、どうなってしまうのか芦原は正直怖かった。
勘のいい緒方だって、その危険はわかっていたはずだ。
なのに敢えてヒカルを家に帰らせた。
ヒカルを信じているのか?それとも試したのか、今の芦原にはわからなかった。
『ヒカルくん、くれぐれも早まった事だけはしないでくれ』
言葉に出来ない思いを芦原はヒカルの背に向かって叫んだ。
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