物置部屋でやり過ごした時間もタイムアップになり、外に出来ることになった。
その時には涙も乾いていたが。
道場に通えば気もまぎれるだろうと思っていたヒカルだったが、
それは少し違った。
アキラを想うと心が揺れる。乱れるのだ。
アキラはその後、何事もなかったように過ごし、夕刻ヒカルに何も告げずに
帰ってしまった。
それがまた寂しかった。
「ヒカル、今日はあまり対局出来なかったでしょうから私と打ちましょうか?」
ヒカルの気持ちを知ってか知らずか、子供たちが帰った後
佐為がそう言った。
「うん」
煩わしい想いを断ち切るようにヒカルは碁盤に向かう。
何手が打った後、佐為が手を止めた。
「ヒカル、何かありましたか?」
「どうして?」
顔を上げたヒカルに佐為は苦笑した。
「なんとなくです。いつものヒカルなら対局中話しかけても集中して
返事を返したりしません」
そう断言した佐為にヒカルは思わず苦笑した。
「えっと・・・」
「それに石に迷いがあります」
そんなに態度や碁に出ていただろうかとヒカルは思う。
でも佐為ならどんな事も受け入れてくれるような気がした。
「オレいろんな事がわからなくなったんだ」
「ヒカルが、本当にやりたいと思う事はその胸の中にあるので
はないですか?」
「オレはこうして、佐為の道場も通って、アキラや和谷や伊角さんや
皆と碁を打っていたいよ」
「その望みは叶っていませんか?」
「・・・でもいつかそれも終わっちまう。佐為ともアキラとも・・・」
「私もずっとこうして碁を打って、子供たちといられたらって思う時が度々あり
ます。
でも刻は待ってはくれません。自分にはどうしようもない事が起こる事も
あります。明日の事もわからない世の中ですから」
佐為は少し寂しそうにそう言って碁盤を見つめた。
「だから今を最善を尽くすしかないのだと思うのです。前に進むために。
私も後悔したくない」
佐為が碁盤に1手を放った。
その白石が輝くのをヒカルは確かに見た。
まるで今が・・・選んだ1手がこの先に繋がるのだと言われたようだっ
た。
囲碁はそう人の道とどこか似てる。
「うん」
あれ程泣いて涙も枯れ果てたと思っていたのにヒカルの瞳から涙が
落ちた。
「ごめん、オレ」
ごしごし袖で目を擦ると、右の袖はしわしわになっていた。
それすらヒカルは気づいていなかった。
「いいですよ。今日は碁はここまでにして夕飯にしましょうか」
佐為の優しい笑顔に励まされる。
「ヒカルは明日も泊まるのでしょう?
明日私は遠出になって帰りが遅くなります。屋敷の者には
伝えておきますが、子供たちの事ヒカルとアキラくんにお願いします」
明日はアキラと碁を打てるだろうか?
いや、絶対打とう。
そして話をするのだと決心する。
アキラとの時間を大事にしたい。それが今のヒカルに出来る最善だと
思える。
翌日佐為は早朝から出かけて行った。
アキラと二人になったのは子供たちが帰った後だった。
アキラは棋譜打ちをしていたが、子供たちが全員帰った後、それを閉じた。
ヒカルが声を掛けなければアキラはそのまま帰ってしまいそうで、でも
掛ける言葉にしどろもどろする。
アキラに声を掛ける事を、ヒカルはなぜこんなに躊躇っているのかわから
なかった。
「あの、アキラ、今日これから時間ある?打たねえ」
ようやくそう言った後、胸がドキリと高鳴った。
「すまない。今日はもう帰らないといけないんだ」
高鳴った胸がズキリと痛みに変わった。
昨日自分がアキラにあんな事を言ってから避けられてるような気がする。
あんな事言わなければよかったとヒカルは後悔する。
「そっか、お前さこっちいられるのって後どれくらいなんだ?」
「2週間ぐらいかな」
「2週間・・・」
お互いに口を閉じて黙り告った。
何か言わなきゃいけないのに言えなくて、への字に結んだ口を開こうした時
アキラが顔をゆがませた。
「君は緒方様の事をどう思ってるんだ」
「すごく感謝してる。オレが碁を知ったのは緒方様の屋敷に奉公に出てから
なんだ。
こうして佐為やアキラと会えたのも緒方様のお蔭だし」
緒方の屋敷に奉公に出なければ、繋がらなかった出会いであり、未来であり
だからヒカルは大切にしたいと思う。
「そういう事を言ってるんじゃないんだ。
佐為様はいずれ君に本因坊家を継がせたいと考えておられる」
「ええっ?」
あまりに唐突すぎてヒカルは面食らった。そんな事を佐為が考えていたなんて
思いもしていなかった。
「でもオレまだ始めたばっかで本因坊なんて・・・」
「今の君にはまだ無理だろうけど、僕も佐為様の気持ちがわかるんだ。
君がどこまで強くなるのか、見てみたい。・・・僕は君と歩みたい」
普段アキラはヒカルの碁を褒める事なんてない。
素直に嬉しいし、アキラにそんな事言われると、むず痒くて照れ臭くもなり
ヒカルは返事に困って頬を染めた。
アキラは一瞬の間の後ヒカルをまっすぐに見た。
「僕と一緒になって欲しい」
アキラは声も身体も震えていた。
ヒカルは一瞬何を言われたかわからなかった。
「一緒にって・・・どういう意味?」
「緒方様の小姓なんてやめて、佐為様の跡を継いで僕と一緒に生きて欲しい」
あまりに驚きすぎて声すら出なかった。
アキラはヒカルの腕を掴んだ。
「君が好きだ」
「あ、アキラ!?」
アキラの綺麗な顔が近づいてきて唇が重なる。
重なった唇が震えて、その温もりを抱きしめたくなる。
昨日抱きしめられた時よりも胸が突き刺すように痛く、それは
深くなっていく。
一瞬そうしていたいと想う感情に流されたもののヒカルは精一杯
の抵抗でアキラを突き飛ばした。
突然の事によろけたアキラにヒカルは拳をぎゅっと握った。
「そんなの出来ない。オレは緒方様の小姓だ」
「君は緒方様を慕ってるのか?」
ヒカルは緒方を思い出す。こういう時思い出す緒方は優しく笑顔の
緒方だった。
裏切る事なんてどうして出来るだろう。緒方はこんな何もないヒカルに色んな
ものをくれた。教えてくれたのだ。
自分に緒方に返せるものなんて他にない。
「想ってる。オレは緒方様を・・・」
「ヒカル・・・」
おそろおそるアキラを見ると、怒りと悲しみで顔を歪めていた。
アキラにこんな顔をさせたのが自分だと思うと悲しくて、泣きたくなる。
アキラは踵を返してその場を立ち去った。
声を掛ける事なんて、追いかけて行くことなんてどうしてできるだろう。
もう2度とアキラと会う事はないかもしれないと、ヒカルはこの時思った。
それが何より辛くて、胸が張り裂けんばかりに痛い。 ボロボロと涙が零れだす
「オレもアキラの事・・・」
そう口にして初めてヒカルは自分の気持ちに気づいた。
ヒカルが崩れ落ちた場所にはアキラが置いて行った棋譜があった。
その棋譜に手を伸ばし胸に強く抱き嗚咽した。
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