ひかる茜雲


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それから3日、ヒカルはようやく起き上がる事は出来るように
なっていた。

あの日痛みで眠る事も出来なかった日、
厠に向かったヒカルはそこで蹲って崩れ落ちた。

そんな事もあってまる二日昼夜と言わず芦原が付き添ってくれたが
今日は随分良くなった気がする。

「芦原さん、忙しいのに。オレ今日は一人でも大丈夫だと思う」

流石に佐為の所に行くまでは回復はしていなかったが一人で自分の事ぐらい
は出来る。


「緒方様がヒカルくんの事を随分気にしてて」

芦原は苦笑した。

「全くご自身の所業のせいだって言うのにな」

それにはヒカルも苦笑せざるには得なかった。

「ヒカルくんの顔を見たいとぼやくものだから、今は絶対にダメだと言って
おいたよ。
他の家臣たちへの手前もあるしね、それは殿もよく
わかってはおいでだろうけど」


ヒカルはそれに頷いた。正直緒方に会えないのは少し寂しくもある。
碁も打って欲しいとも思う
だが行為の意味を知った今も恐怖はあるし、抵抗は大きくてとてもじゃないが
緒方を受け入れるなんて無理だと思う。
思い出しただけで今も体が震えを纏うのだ。

芦原は1冊の棋譜の本を渡した。

「緒方様からだよ。ヒカルくんの調子がよくなったら渡して欲しい
と言われていたんだ。『あいつの事だ、棋譜を渡せば自分の体もそっちのけに
なる』

芦原は緒方の声色を真似て言った。ヒカルは笑った。

「ありがとうっ、て緒方様に伝えてください」

「それはヒカルくん自身の口から言わないとね」

芦原はそういうと立ち上がった。

「食事は配膳するし、時々は覗きに来るよ。筒井くんに声掛けとくね」

芦原が部屋から出て行ったあと、ヒカルは棋譜を見るため布団に
腰を下ろした。
座せば痛みがまだあるが、布団がある分この方が楽だった。



筒井が来たのはお昼も回った時間だった。

「ヒカルくんにお目通りしたいと言う客人が来てるんだけど」

ヒカルは『はて?』と思う。
外部の客人がヒカルを訪ねる者なんて今までなかったからだ。

「誰だろう?」

「塔矢アキラ殿とかって」

「えっ?」

ヒカルは聞き間違いかと思ってもう1度筒井を見た。

「本当に、アキラが?」

「僕も会ってないからわからないよ」

筒井はヒカルのその反応に苦笑した。

「でも塔矢アキラ殿って名人家のご子息君だろう。ヒカルくん知り合い?」

「うん、佐為の道場で友達になったんだ」

「だったら会う?調子があまり優れないと言って面談できるか伺ってくると
言う返事をしてるみたいだから」

ヒカルは口を結んだ。

アキラにはあの日、佐為の家で別れて以来会ってない。
アキラがここに来てくれた事さえ嬉しくて、会って話したい。
直ぐに伝えたい事だってあるというのに。

「ヒカルくん?」

返事を返さないヒカルに筒井が再度呼びかけた。

「あっうん、やっぱ、やめとく」

そう返した瞬間、胸が痛くなった。
会いたいのに会いたくない。

今の自分をアキラに見せたくなかった。知られたくなかった。
矛盾する気持ちが、不可解でやるせない想いになる。

目を伏せたヒカルに筒井は何か感じたようだった。

「ヒカルくん、緒方様の今回の所業をどう思ってるの?」

筒井に聞かれてヒカルは首を横に振った。

「正直よくわからないっていうか。怖かったし、痛かったし・・・」

「小姓たちも家臣の一部もヒカルくんの事羨ましがってる。
殿の寵愛を受ける事は幸せな事だって、これからの地位を築
く事になるから」

「それって何か変じゃねえ。戦で活躍するとか、手柄を立てるっていうなら
地位や名誉もわかるけど、」

解せなかった。出世が幸せっていうのもだ。
ヒカルはただ緒方に認められ、碁を打っていられたらよかったのだ。

「それはそのうちわかると思うよ」

筒井からは明確な返事がなくてヒカルは不安になる。

「ひょっとして筒井さんも・・そんな風にオレの事思ってる?」

違うと言って欲しくて筒井を見上げた。

「僕はヒカルくんの事そんな風には思ってない。
ただ緒方様の気持ちは裏切らないで欲しい。
緒方様の想いには応えて欲しいんだ。それが本当の主従だって
僕は思うから」

「オレが緒方様に出来ることならどんな事だってしたい・・と思うけど」

その気持ちがあってもやっぱり怖いものは怖い。
ヒカルは色々な想いがごちゃごちゃになって胸で詰まっているようだった。
何もかもがわからなかった。

「塔矢アキラ殿に伝えに行ってくるね」

立ち去ろうとした筒井にヒカルは声を掛けた。

「『来週には必ず佐為の道場に行くからっ』て、『来てくれてありがとうっ』て
アキラに伝えて欲しい」

「わかった」

そう言って立ち去った筒井の背をヒカルはまだ追っているようだった。
そうすればアキラに会えるような気がした。

しばらく経って戻ってきた筒井はアキラからの言伝の手紙を預かっていた。
ヒカルは一人になるとそれを広げた。



「ヒカルへ

君が僕と父の事をとても心配していたのだと佐為様から聞いたので、

父の事はこれまでの疲労と過労が祟ったものだろうと思う。
今はまだ療養中だけど、随分よくなって落ち着いた事を
伝えておきます。

もう一つ君が江戸に残る事になったという事も聞きました。

僕は間もなく屋敷が完成して道場には通えなくなるけれど
君が江戸に残るならまた会う機会もあるだろう。

君が体調が悪く臥せっていると聞いて、小姓の方にどんな様子なのか
と聞いたら今日は幾分よくなったと教えてくれました。

来週君が必ず・・・と言うのだから会おう。道場で・・・。


アキラ



放心したようにヒカルはその書状をみつめた。

アキラは、まもなく完成する屋敷に帰ってしまうと言うのだ。
そうなればアキラは道場にも通わなくなる。
機会はあると言っても、約束出来るとはかぎらない。

そんなのはわかっていた事だったはずなのに。
今アキラに会わなかった事が後悔へと変っていくようだった。

ヒカルの瞳をぽたり、ぽたりと涙が溢れだしてくる。
どうして自分が泣いているかさえ今のヒカルにはわからなかった。

ただこの胸にアキラの手紙を握りしめた。



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