ヒカルが緒方家についたのはお昼もかなりすぎた頃だった。
この辺りは武家屋敷が立ち並ぶが
今日から奉公に出る緒方家はその中でも一際大きくヒカルは屋敷の前で
胸を高鳴らせた。
12歳になったばかりで親元を離れるのも初めてであったし、庶民のヒカルには
「武家」などと言う所は敷居の高い場所でもあった。
本当は問屋場への奉公を望んでいたヒカルだったが武士の出身だった
祖父の勧めでここに今日から来ることになったのだ。
ここまで付き添った美津子が心配そうに屋敷の高い塀を見上げた。
ヒカルを迎えに来た緒方の家臣の芦原がそんな美津子に言った。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
「ええ、芦原さんがいうなら大丈夫だろうけど・・・。
ヒカル、いつでも帰ってきていいからね」
それでも美津子は言わずにいられなかったのだろう。
芦原は自分が奉公に来た時の事を思い出していた。
芦原の母親も同じことを何度も言ってた。それが親心というものなのだろう。
ヒカルはヒカルでそんな事を言われたらますます心細くなってしまう。
でも、それを美津子に見せては心配させてしまうだけだと子供心に思った。
「大丈夫だって、緒方様は子供でも奉公人には勉学や剣術を学ばせてるって
聞くし。」
ヒカルは勉学はあまり好きではなかったがこれも祖父の受け売りだった。
両親ともその言葉でしぶしぶヒカルを奉公に出すことにしたのだ。
「ええ、」
美津子はそれ以上何も言えなくなってヒカルを抱きしめた。
流石にこの年になるとヒカルも恥ずかしかった。でも母さんにこうやって
抱きしめられるのは嫌いじゃない。
ヒカルは美津子を心配させないように笑った。
「じゃあ行ってくるから、」
美津子が見守る中ヒカルはそのまま振り向くことなく芦原とともに
屋敷へと消えて行った。
昼過ぎの屋敷内はどこかのどかでヒカルが思っていたものとは少し
違っていた。
その中で一番ヒカルが驚いたのは奉公人たちがあちこちで「碁」を打って
いたことだった。
4、5人のグループが碁盤を囲み「ああだ」「こうだ」と意見を言い合ってる。
ヒカルは思わず足を止めた。
「芦原さん あれって囲碁だよね?」
「ああ、緒方様は囲碁がお好きなんだ。それにかなり強いんだよ。
今の徳川の世は『戦いや剣術より勉学だ!!』と言ってね。
奉公人たちに囲碁を打たせることで競わせたり、考える力を学べとか、
国でも囲碁や学問に力を入れてるんだ。だからここでは身分とか出生とかあまり
気にしなくていい。
ヒカルくんも囲碁が強くなれば緒方様の目に留まるかもしれないよ」
「あっうん。」
そうは頷いたものの囲碁なんてヒカルは祖父の家にあったのを見た
程度だったしあまり興味もわかなかった。
そんな時だった。二人の背後から呼び声がした。
「芦原さん 探したんですよ。馬舎の鞍の支度しないと」
芦原と同じ若衆だろうか?芦原と同じくらいの青年だった。
鞍の支度なら外で碁を打ってる者たちがすれば、ともヒカルは思ったが
そういうわけにはいかないようだった。
「ヒカルくん紹介しておくよ、こっちは冴木くん、若衆の頭なんだ。」
芦原は自分よりも目上だろうに冴木に敬語は使わなかった。
冴木の方も別にそんな事を気にしてる様子はない。
「冴木くん、今日来た進藤ヒカル君。」
「は、はじめまして進藤ヒカルです。よろしくお願いします。」
緊張して頭を下げると冴木がヒカルの頭をトントンと叩いた。
「そんなに緊張しなくていいって」
冴木が芦原に目くばせした。
「それより馬舎の鞍の準備だろ?ヒカルくん一人で大丈夫だよね?屋敷内好きに
見て回って構わないから」
ヒカルは頷いたが内心では『ええっ!?』と思ってもそう返すしかなかった。
2人が行った後ヒカルは小さく溜息をついた。
来たばかりで一体何をどうすればいいか全く見当もつかない。
仕方なくしばらく屋敷内をうろうろしていたら碁盤を囲む5人の中間たちがいた。
ヒカルはすることもなく輪の外から覗きこんだ。
碁はまだ始まったばかりだった。
「おっ小僧見ない顔だな」
すぐに観戦していた輪の中の侍が声を掛けてきた。
「オレ今日来たばっかで」
「そっか、そっか、今碁盤がなくて、この対局が終わったら相手してや
るから」
ヒカルはそれに心の中で苦笑した。
それまでには芦原さんに戻ってきて欲しいと、願わずにいられない。
ところがなんとなく対局を見ていたヒカルは吸い込まれるように引き込まれて
行った。
ルールも知ってるか知らない程度だったが。いつしか
『あそこに打ったらどうなるのだろう』とか『オレならこっちに打ってみたい』
とかそんな事ばかりを考えていた。
間もなくという所になって碁盤の前を何かが横切った。
その瞬間「ガラゴロ!!」と派手な音が鳴り響き碁笥が飛んだ。
「ニゃあー」
見ると猫が碁盤の上を横切ったようだった。
「うわあ、」
打っていた男が怒って立ち上がった。
「いいところだったのに、」
黒を握っていた男だった。よくわからないがヒカルは彼の方が勝っていたような
気がした。白を持っていた男はそれに笑った。
「猫が相手じゃしょうがないだろ?」
「猫の殺生は犯罪だしな」
いまいましげに猫を見たが猫の方は至ってのんびりと背伸びして
そのまま立ち去って行ってしまった。
「しょうがない、打ち直しか」
石を片付けだした2人にヒカルは口を挟んだ。
「待って、今のって打ち直ししないといけないの?オレ覚えてるぜ、」
その場にいたみんなが顔を合わせた。
「本当か?坊主、初手から全部だぞ?」
「うん」
ヒカルは頷くと5人が碁盤の前を開けてくれた。
ヒカルは初手から打とうとすると白石の碁笥も中間がヒカルの元においてくれた。
「あっありがとう」
その様子を固唾をのんで中間たちが見守る。
ヒカルは一手一手思い出しながら知らず知らず「自分が打ちたかった場所」も
同時に考え進行していた。
そして最後の白を置いた。
「ここで猫が来てめちゃくちゃになったんだよな、」
「ああ、そうだ、すごいな 坊主」
感心する男たちを前にヒカルは少し得意げに笑った。
丁度その背後から数人の若衆たちがそぞろ歩いて来た。
ヒカルも中間たちも振り返った。その中には芦原や冴木の姿もあった。
「あっ芦原さん、」
ヒカルが声を掛けようとしたら碁盤を囲んでいた中間が一斉に頭を下げた。
ヒカルは何事かわからずきょとんとした。隣りで小声の叱咤があった。
「坊主頭を下げろ、緒方様だ」
ヒカルは慌てて頭を下げた。きっとすごい粗相だったに違いない。
そう思うと顔が真っ赤になった。
「いや、別に構わん、碁を打ってたんだろ?」
ヒカルが初めて聞いた城主の声は低くてよく通る声だった。
「それでどんな内容だったんだ?」
「恐れながら・・・。」
黒を握っていた中間が先ほどの話を説明しだし、ヒカルはますます恐縮して頭を
下げた。
「ほう、初手から再現したと言うのは坊主お前か?」
「はい、」
「顔を上げてみろ、」
ヒカルは茹蛸状態だった。
低くて通る主は背が高く凛とした佇まいで城主の貫録を十分すぎるほどに
備えていた。
ヒカルはそんな緒方をまともに見ることができなかった。
「名は?」
見かねた芦原が代わりに応えた。
「進藤ヒカルです。
彼は今日から奉公に来たばかりでまだ緊張してます。
勘弁してやってください」
「今日から奉公か?坊主碁の経験は」
「・・・ないです。」
ヒカルは蚊のなくような声しか出なかったがそれでも十分で
中間たちは驚きどよめきを上げた。
「芦原、ヒカルは小者か?」
小者というのは屋敷内の小間使いのようなものだ。
「そうですが」
「だったらオレの小姓にする。」
「ええっ?」
芦原の驚きとともに
先ほどよりももっとどよめきが起こる。ヒカルには何が何だかさっぱりわから
なかった。
「小姓ですか?」
「ああ、小宮が元服して小姓が一人欠けたからな」
「しかし・・・。」
「何か文句でもあるのか?」
進言しようとした芦原は緒方の一言で言葉を失った。
城主のいう事は絶対だ。しかも緒方は嬉しそうに笑ってた。
これは面白いものを拾ったと言わんばかりに。
こんな緒方に反論などできるわけがない。
「わかりました」
しぶしぶ頷く芦原に緒方は声を上げて笑った。
「坊主,いやヒカル、明日から頼むぞ、楽しみにしてる。」
そう言って去って行った緒方をヒカルはぽかんと見つめた。
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