塔矢はその場でマンションの仮契約を済ませ、その後は食事をして帰宅ラッシュがそろそろ終わるという時間に二人駅の階段を下った。
同じホームだったが、乗車する列車は違っていた。
塔矢が鞄から小さな紙袋を取り出す。
「遠征のお土産なんだけど、荷物になるかと思って」
塔矢はそう言ったが、ただ渡すタイミングを計っていたのではないかと思う。
このタイミングだと今中を見る事も出来ない。
「貰っていいのか、高価なもんじゃねえよね?」
そう言ったのは紙袋の中に小さな箱が見えたからだ。
貴金属かも知れない。
「君が気にするだろうと思って、高価なものじゃないよ」
「じゃあ貰っておくけど」
無言の間が流れる。
時間があまりないのは行先電光板を見れば2人わかる。
「進藤・・・」
アキラは躊躇し、見上げたヒカルはアキラが立ち尽くしているように見えた。
「どうかしたのか?」
「塔矢門下の研究会に来る気はまだない?」
塔矢の乗車方面の列車が間もなくホームに来ると放送があり、
アキラは口早にそう言った。
躊躇するほどの事だったとも思えなかったが、ヒカルは幾度かその誘いを断ってきていた。
『オレは森下先生にお世話になってるから』
今まではそう言って断ってきた。塔矢個人と勉強会を開くのはいいとして、門下生の集まる研究会は森下先生に角が立って
しまう。
「いつも言ってるだろ?オレは森下門下生じゃねえけど。すごく世話になってるから」
「その事はもうそんなに気にしなくていいと思うんだ。父は引退したし、森下先生とも個人的なお付き合いがあって、うちに気軽に対局にも来られてる」
塔矢が乗るはずだった列車がホームに入ったが、塔矢は乗り込まずそのまま言葉を続けた。
「父は引退してから、誰彼と対局に来てくれると言ってる。ネット碁も積極的にしてるんだ」
それはヒカルも知っていた。
塔矢からも聞いていたし、ネット碁で遭遇した事もあった。塔矢先生から対局を申し込まれたこともあったが、それは辞退した。
「君とも対局したい、と言ってる」
「それは・・・?」
佐為絡みもあるのではないかとヒカルはますます断る理由を考えてしまう。
塔矢先生と対局望んでいないわけじゃない・・・が。今の自分ではまだ駄目なのだ。
「とは言っても今は父は日本にはいないから。塔矢門下の研究会もしばらくは僕が主催なんだ」
「飛び入りとか、たまでよかったら考えてみるよ。それでも
いいか?」
「もちろん構わないよ。次は来週末だけどどうだろう?」
早速であったが、前々からの誘いを断り続けてきた手前受けた方がいいだろうとヒカルは思案する。
しかも塔矢はヒカルのスケジュールを把握しておりその日はオフだった。
「わかった、その日は行く」
間もなくヒカルの帰る方面に列車が入ると案内があり、『もう少し時間が欲しい』と思いながら、意味もなくネオンの光、夜空を仰いだ。名残惜しさが胸を過る。
「お前は明後日からリーグ戦が始まるな」
「君から勝ち取った大事なリーグ戦だ」
ヒカルは忘れるはずないあの日の悔しさを思いだし、顔を
顰めた。
列車がホームに滑り込む。悔しさと同時に後ろ髪引かれ立ち止まりそうになる。
「絶対勝てよ。勝っていい加減タイトル取れ!!」
吐き捨てるように言った言葉が自分の足を列車の中に押し込んだ。
「簡単に言ってくれるけれど」
その背に塔矢のつぶやきを聞きヒカルは苦笑した。
扉が閉まった瞬間塔矢を見るとその口が僅かに動く。
声は聞こえなかったが、その動きでわかった。
列車が動きだし『バカやろ』とヒカルは小さく吐いた。
赤面したヒカルはアキラを見送る事が出来なかった。
塔矢との約束の日。
塔矢門下の研究会に出かける為、自宅を出た所で携帯の着信を告げた。
相手は和谷で和谷がメールでなく電話してくるなんて珍しい事で急ぎかもしれないと応答した。
「和谷?どうかしたのか」
「進藤、今大丈夫か?」
「まあ少しなら」
ヒカルは時計に目を落とした。一端家に引き返そうとかとも思ったが時間にそれほど余裕がなかったのは、珍しくヒカルが研究会に着ていく服やアクセサリを選んだからだ。
「今棋院だけど、ペア碁の相手が発表されたからさ」
「あっそっか!!」
そう言えば今日がクジの日だと言う事をヒカルは聞いていた。発表の時間までは知らなかったが。
それは確かに少しでも早く知りたい情報だった。
ヒカルは自然に早なる胸の鼓動を押さえた。
「それで・・・オレの相手は」
「知りたいだろう?」
和谷の連絡がなくてもこういうのはすぐに連絡があるが、わかっているなら少しでも早く知りたかった。
勿体ぶった和谷の返事にヒカルは『もうなんだよ』と声を荒げた。
『移動中だからな』と訴えると和谷は素直に『悪い、悪い』と謝罪した。
「伊角さんだよ」
その名を聞いた瞬間ヒカルは携帯片手にガッツポーズを
取った。
「マジで?本当にオレのペアは伊角さんなのか!!」
「こんな事冗談でオレが言うと思うのか?」
伊角は一番気兼ねなく、ヒカルが打てる相手だと思う。
「いや、ちょっとオレ伊角さんだったらいいな、って思ってからさ。まさかと思って」
「そうなのか?塔矢じゃダメだったのか?」
「塔矢とペア組んじまったら、対局出来ねえじゃねえか」
『らしいな』と和谷は苦笑いした。
「次いでだからな、塔矢は小林女流とのペアだぜ?」
ヒカルはこの時初めて塔矢がペア碁に申し込んでいた事を知った。
小林女流と塔矢のペアの対局が叶ったら、いい対局になるだろう。女流タイトル保持者 なのだから。
「望むところだな、それで和谷はどうだったんだ?」
「オレは当たらなかった」
受話器の向こうで和谷は苦笑した。それでも声が少し高いのはヒカルと伊角がペアになって興奮しているからなのだろう。
「そっか、まあしょうがないよな?男の方が少ないんだから。
そういや、緒方先生って誰と組むか知ってる?落ちたかな」
「緒方先生?いや名前見なかったぜ。申し込んでたのか?」
「ああ、オレ狙いで、棚から牡丹餅って言ってたから」
「なんだよ、それ、お前まだ緒方先生にはっきり言って
ないのか?」
「言ったよ。けど仕事とは別だろ」
「そりゃそうだけど」
和谷の溜息がこちらまで届きそうだった。
「まあオレも安心したぜ。進藤のペアが害のない伊角さんでさ。
進藤と伊角さんが世界大会に行く時は、オレも棋譜係で同行しようかな」
「もう、気が早えつうかさ、そんなプレッシャーはいらねえからな」
冗談を言って電話を切った直後に今度はメールの受信音が鳴った。
『次は何だ?』とヒカルが見ると今度は伊角からだった。
【進藤とオレがペアになったと和谷から連絡あったんだ。
進藤が囲碁クィーンの称号を落としたらオレの
せいだ・・・て和谷にプレッシャー掛けられたから・・・。お互い頑張ろうな。】
ヒカルは自然に漏れる笑みを堪えながら伊角に返信を返した。
【4年に一度のこのチャンス、物にしねえとな。伊角さん絶対に世界に行こうぜ!!】
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