美津子はガランドウの部屋の窓を開け放ち、雑巾を掛ける。
電気も、ガスも閉められたこの家には本当に何もない。
水はお隣さんにお願いしてベランダの水栓をお借りしてるというのだから・・。
そのがらんどうの部屋の真ん中で晃は1人、本を広げ鉛筆を握っている。
昨日ヒカルが新しくかった碁の本らしいが美津子にはちんぷんかんぷんだった。
なるだけ晃の邪魔にならないように心掛けながら一通り雑巾がけを終え時計を見る。
約束の時間の20分前だった。
「そろそろね」
美津子は立ち上がり、自販機でお茶ぐらいは買ってきた方がいいだろうと雑巾を片付ける。
何せこの家には冷蔵庫もなく、食べるものを買う事は出来ない。相手方にはその事も伝えているのだが、それでもわざわざ足を運んで頂くのに申し訳ない。
「晃、みっちゃん少し出掛けるけど大丈夫?」
「うん」
「もしみっちゃんがいない時にお客様が来たら晃お願いね」
「うん」
話しかけても晃は生返事するだけで美津子は少し呆れ
小さく溜息を吐いた。こういう所はヒカルに本当にそっくりだ。
結局1人で美津子は出かけコンビニまで行って、簡単なものを購入し家に帰るとすでに玄関に靴が揃えてあった。
美津子が慌ててリビングに入ると、晃が明子と本を読んでいた。
声を話し掛けようとして、思わず声を掛けるのを躊躇う程にそれは自然だった。
初めて晃と会ったとは思えないぐらいだ。
「ごめんなさい。約束より早く来てしまった上に勝手にお
邪魔して」
先に美津子に気付いた明子が頭を下げる。
「いえ、いいんですよ。こんな何もない所に来ていただいて私の方こそ申し訳ない」
「それは、私が無理にお願いしたからですし」
アキラとヒカルが婚約を交わした頃から明子と美津子とは何かとやり取りを取っていた。
・・と言ってもアキラが亡くなる前の事だが。
明子が美津子に連絡を取ったのは、ヒカルへの配慮を考えてだった。
そして美津子が明子から連絡を受けて、ここを選んだのはヒカルに『内緒に』しなければならなかったからだ。
祖父の家だと義父母の目があるが、この家であれば『掃除』
と言う名目もあるし、『近所のお友達が来てくれた』で誤魔化す事も出来た。
晃は嬉しそうに顔をあげ、美津子に言った。
「『きっこおばさん』碁を少し打つんだって」
明子が『きっこ』と名乗ったのは美津子が内緒にして欲しいと言った事を感ばかっての事だろう。
「そう?そうなの。だから『きっこさん』に晃の相手してもらえるかなっと思って来てもらったの」
美津子が苦笑すると明子もつられるように笑った。
「晃くんは碁を打つのですね?」
「ええもう、ヒカルが仕事の時は打つ相手がいなくて私に強請るんですよ。でも私ちっともわからないし、困って。
前に碁会所に連れて行ったらヒカルに早すぎる!!って怒られちゃって」
その話を聞いていた晃が小さく『ごめんなさい』とつぶやく。
明子は微笑んで晃の頭を撫でた。
「だったら今日は私が相手しましょうか?晃くん碁盤ある」
「うん、ちっさいのだけど」
晃は満面の笑みを浮かべ隣の部屋に取りに行く。
晃の背を追っていた明子の目がうっすらと弛む。
「明子さん?」
「ごめんなさい」
美津子は聞いていいかどうかわからなかったが声を掛けた。
「塔矢くんの面影はありますか?」
「もう最初ここに入った時にアキラさんかと思ったぐらい」
ハンカチで目を押さえながら明子は泣き笑いする。
晃が両手いっぱいに碁盤と碁石を持ってくる。
「きっこおばさんどうかしたの?」
「ううん、何でもないのよ」
明子は首を横に振りそれでも微笑むと晃から碁盤と碁石を受け取る。
「13路盤ね?」
「はい」
碁盤を広げ2人が向かい合う。
「お願いします」
「おねがいします」
打ち始めると碁石の音だけになり、美津子は少し離れて見る。
明子はアキラが子供のころからこうやって相手をしていたのだろうと思う。
ヒカルが打ち明けない理由はそれなりにあるのだろうと美津子は思ってる。
晃が生まれてからヒカルは人一倍碁の勉強に励むようになり、育児だって手を抜くような事はなかった。
めいいっぱい、必死で美津子はだからこそヒカルの心身に気を配ってきたつもりだった。
いつか晃に本当の事を言わなければならない日は必ず来るのだから。
それを思うと明子と無邪気に碁を打つ晃の姿に胸が詰まりそうになる。
ひとしきり打ち終え3人でお茶を飲んだ後、明子が名残惜しそうに立ち上がる。
ヒカルが戻ってくる時間を考えて16時までと美津子が始めから約束していたのだ。
「美津子さんごめんなさい。時間を過ぎてしまって」
「いいえ、私たちもきっこさんと一緒に出ましょうか。
晃、碁盤と本の片付けしようか?」
少しでも一緒にと思う。
美津子は戸締りで2階に上がると明子も手伝いに
来てくれた。シャッターを閉めていた明子の手が止まる。
「美津子さん、あのこんな事言って差し出がましいかもしれませんが、私に・・・私たちに何か出来る事はありませんか?」
深く頭を下げた明子に美津子は慌てた。
「どうぞ顔を上げてください。晃を産み育てると決めたのはヒカルですから」
「でもあの子が生きていたら・・・」
明子は口を押え嗚咽する。
『どうか心配しないで下さい』と言うのは簡単だった。
でも明子の、そして今日ここに来たくても来る事ができなかった行洋の気持ちを考えると美津子はそう言うことが出来なかった。
「明子さん、私の方こそお願いします。
もし何か困ったことがあったら一番に相談します。その時はどうかお願いします」
「もちろんです。また来てもいいですか?」
「ええ、また私が一緒に来た時は是非。ただしばらくはヒカルに内緒にして欲しいですが」
「ヒカルさんに申し訳なくて」
「あの子の事は気にしなくていいです。時々躓く時はあっても母親になって強くなりましたから」
晃が階段を上がってくる足音で二人はっとする。
お互い目尻に涙が溜まっていた。
「晃くんにこんな所見せられませんね」
明子は無理に笑おうと微笑んだ。
晃を挟んで3人で手を繋いで駅までの道のりを歩く。
美津子には当たり前の日常だ。
反対方面の電車に乗り込む晃と美津子の為、明子は対面式のホームまで来て見送ってくれた。
いつまでも手を振る明子に晃は一生懸命小さなその手で返す。
晃と手を繋いだ美津子の目にも涙が浮かんでいた。
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