棋院へと向う電車の中 僕は進藤の事を思い巡らせた。
中国棋院への留学・・・・それは彼が碁打ちとして飛躍する
大きなチャンスとなるだろう。
ライバルの彼がそういう場所に身を置くのはうれしくもあり誇らしくもある。
ただ、それはあくまでライバルとして碁打ちのとしての進藤に対する
感情で、恋人としてはけっして許せるべき事ではなかった。
何故、君は僕に何も言ってはくれなかった。
どうしてこんな大事な話を他の人から聞かなきゃならない。
君にとって僕はその程度の存在だったのだろうか。
そして・・・緒方のあの態度。
まるでそういった自分の心中を全て見透かしあざとく笑っているようで
僕の感情を逆撫でした。
若獅子戦の夜、緒方に車で挑発された時僕は緒方に感謝さえした。
それは緒方が僕の進藤に対する煮え切らない態度を見かねて
そう仕向けたのだと思ったから。
だが、違う。
緒方はこうなる事をはじめからわかっていてあの時僕を行かせたのだ。
悔しさや切なさで胸が張り裂けそうに痛い。
彼と恋人になったのはたった1週間前。
この1週間満たされた思いで幸せだった。
ずっと好きだった彼に愛されている・・・・それはどんなに自分の
心を満たしただろう。
なのに、今は恋人どおしになってしまった自分たちの方が疎ましい。
いっそ何もなければ君が中国に行く事を表面上は喜んであげることも
できただろうに。
今日はいつもよりも棋院への道のりが長く感じた。
棋院の入り口で僕は聞きなれた彼の声を聞いた。
「それでさ、伊角さんったら餞別にって正露丸くれるっていうんだぜ。」
「何それ?」
「可笑しいだろ。」
同期で同門でもある和谷という棋士と楽しそうに話す進藤に
僕は苛立ちと腹立たしさを感じながら歩を進めた。
僕の姿に気がついた二人が歩調を緩めた。
「塔矢!?」
進藤の顔に戸惑いの色がうかんだ。
「進藤 話がある。少し時間が欲しい。」
「うん。俺もお前に話があったんだ。」
僕も進藤も口調はあくまで穏やかだ。
だが、隣に居た棋士はそれほど鈍感ではなかったようだ。
鋭く僕と進藤を見比べると進藤の肩をポンと叩いた。
「俺のほうが先客だったけどな。まあ、しゃあねえか。俺んちの
研究会には絶対来いよな。」
「うん。和谷ごめんな。」
その棋士はすれ違いざまに僕に鋭い視線を残した。
彼が去った後、僕は進藤にむかって静かに言った。
「棋院を出よう。」
僕が進藤と話をするために選んだのは棋院からさほど遠くない
公園だった。
僕は彼の歩幅にあわせる事もなく早足で歩いた。
丁度お昼時分のせいか、ほとんど人の姿はなく僕は噴水近くの
憩いの場で足を止めた。
進藤は噴水の外堀に腰を下ろすと僕を見上げた。
「塔矢、誰かに聞いたんだろ。俺が中国に行く事。」
進藤に先に切り出された事でもはや苛立ちを隠す必要はなくなった。
「やっぱり本当だったんだな。君が中国へ行くというのは。」
「ああ。」
「何故そんな大事な事を君は僕に言わなかった。」
その問いに進藤は目線を落とした。
「何でだろ。俺もわかんねえ。」
「わからないって、君の事だろう。」
「できなかったんだ。何度も電話をしようとしたし研究会の時もお前に
切りだそうとしても何でだか言えなかった。
それなのに、お前が俺の留学を知ったってわかった時ほっとした。
やっぱりお前に何も言わずに行くのは言わない以上に抵抗
があったんだと思う。」
「君は僕に何も言わずにいくつもりだったのか?」
「・・・・・・・」
無言の進藤に苛立ちが募る。
「進藤。僕は君を見損なった。君と恋人になれたと思ったのは僕だけ
だったのか。君の僕への想いはその程度だったのか?」
伏目がちだった進藤が僕の言葉に目線を上げた。
「塔矢俺の話を聞いてくれないか。中国棋院への留学の話が出た時、
俺すげえうれしかった。
強い奴と打てるって思うとわくわくして、自分の事ばっか優先して
お前の気持ちとか考えなかった。」
正直過ぎるほどの彼に僕は苦笑とため息が漏れた。
「俺ここん所の手合いぜんぜん満足してない。
気が抜けたような手合いばっかで、俺このままじゃだめだってどこかで
思ってたんだ。
この間ヨンハやお前に勝つなんて大口叩いたけど今のままじゃとても無理だ。
だって今までのままで待ってくれるわけないじゃん。
だのに俺はどんなに焦ってもただの初段で。
一歩ずつ進んでいくしかないってわかっていてももどかしくて。
だから俺はどんな可能性でもそこにあるなら自分を試したい。
強くやりたい。どこまでも、ずっと塔矢と一緒にいたいから。」
進藤はそこで一旦話を区切るとまっすぐに僕を見た。
「・・・・・・・・・・・塔矢1年間俺を待っててくれないか。」
進藤の真直ぐな眼差しはいつも僕を追っている。
それは以前も今ももこれからも・・・・
僕とずっと一緒にいる為にこの1年を中国留学に望む。待って欲しいと、
そういった彼の気持ちはうれしくないはずなどなく、
だけど同時にもどかしさや切なさやが押し寄せた。
なぜそれが中国でなければならないのか、1年という
月日が必要なのかと。
「俺はこの1年決して長いとは思わない。俺たちの長い人生の中の
たった1年じゃん。俺この1年で何としてもお前の隣に並んでみせる。」
そういった進藤に僕は後者の気持ちを飲み込むしかなかった。
「わかったよ。進藤。ただし、僕はただ待つわけじゃないよ。歩みは
とめない。僕も君とずっとこの道を歩きたいんだ。君のライバルとして
恋人として。」
「塔矢・・・」
「それで進藤中国棋院へはいつ旅立つんだい?」
「6月の2日来週の月曜日 」
「来週!?あと1週間しかないじゃないか。」
「うん。」
君って人は僕はそうなじりそうになった言葉を何とか飲みこんだ。
「進藤5月31日 僕の家に泊まりにこないか?」
「31日は和谷たちが送別会をしてくれる事になってるんだ。」
申し訳なさそうにいう進藤に僕はため息を着いた。
「僕には言わなかったのに和谷君には言ったのか。」
口調がきつくなってしまったのは致し方ないだろう。
「和谷は偶然この話が出た時に傍にいたんだ。」
「じゃあもう君が中国にいくまでに二人で会える機会はないんだね。」
僕の言葉に進藤は慌てたようには早口で言った。
「俺、5月31日お前の家に行くよ。遅くなるかも知れないけど。
必ずいく。だから・・・・」
「わかった。待ってる。」
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