はっぴいえんど

はっぴいえんど

大瀧詠一: Vocal, Guitar

細野晴臣: Vocal, Bass, Guitar, Keyboards

鈴木茂: Vocal, Lead Guitar

松本隆: Drums, Percussions. Vocal


 細野晴臣は小坂忠、柳田ヒロ、菊池栄二、松本隆らとハード・ロック・バンド、エイプリル・フールでアルバム1枚を制作しましたが、解散。小坂と新たなるグループの構想を考えていたのですが、小坂がミュージカル“ヘアー”のオーディションを受ける為に離れてゆき、細野は松本と大瀧詠一とバレンタイン・ブルーを結成、当時細野宅に出入りしていた天才少年ギタリストを加えて活動を開始、バレンタイン・ブルーはいつしか“はっぴいえんど”と名前を改めていました。1970年URCからデビュー・アルバムをリリースする事が決まったが、ボブ・ディランがエレキに持ち替えてザ・バンドを率いて活動を開始したのに対抗?して岡林信康にとってのバンドをとはっぴいえんどがバックを務める事になり、1970年4月から12月まで行動を共にしました。その間の1970年8月7日にデビュー・アルバム『はっぴいえんど』がリリースされています。全曲日本語で唄われた画期的なアルバムだった。当時はロックは英語でないといけないとか言われていた時代だったからTVや雑誌などでもミュージシャンやファンも交えて論争されていたのです。翌年11月『風街ろまん』をリリース、松本に詞、各自の楽曲も前作より格段の成長を遂げています。何よりも音が格段に良くなっています。前作は4チャンネル、本作は8チャンネルでレコーディングされ、次作では16チャンネルと1作ごとにクオリティも上がっていきました。『風街ろまん』を発表後、燃え尽きてしまったのかメンバーの覇気も無くなってきていました。そんな時にシングルをディストリビュートしていたベルウッドから大瀧にソロ・アルバム制作の話が持ち上がり、松本は詞を他のアーティストへ提供し始め、細野と鈴木はセッション活動を精力的に行い始めていました。実質解散状態にあったバンドにロスでのレコーディングの話が持ち上がり、一時的に再結成、リトル・フィートやヴァン・ダイク・パークスら向こうの一流ミュージシャンをゲストに迎えてレコーディングは行われました。1972年12月に大瀧のソロ・デビュー・アルバム『大瀧詠一』がリリースされ、続いて1973年1月に3枚目にしてラスト・アルバム『HAPPYEND』はリリースされました。本作はリラックスしたいい雰囲気のアルバムに仕上がりましたが、鈴木の曲は一番成長期にあったのでクオリティも高い出来になっているのですが、大瀧はソロ・アルバム制作直後で楽曲のストックが無く、細野もソロ・アルバム用の曲を提供したもので、聞いた感じ指向性がバラバラなものと聞こえるものになっていました。なお、曲不足で現地でヴァン・ダイク・パークスと共に作られたのが「さよならアメリカ、さよならニッポン」でした。1973年9月21日に所属事務所の風都市主催で[CITY LAST TIME AROUND]はっぴいえんどの解散コンサートが行われました。このコンサートはまたメンバーの現在のバンドやプロデュースしたバンド、アーティスト達が一同に会したコンサートで、ニュー・ミュージックはここから始まったとも言えるのではないでしょうか?1985年6月に国立競技場で行われたオール・トゥゲザー・ナウというコンサートではっぴいえんどは再結成されました。この時のコンサートも[CITY LAST TIME AROUND]同様の試みだと彼らは考えて出演したのではないでしょうか?またこれがはっぴいえんどの本当の最後の姿、“お葬式”だったのかもしれません。


タイトルをクリックして下さい!

シングル一覧

アルバム

『はっぴいえんど』

『風街ろまん』

『HAPPYEND』

『CITY』

『ライブ』

『シングルス』

『はっぴいえんどストーリー』

『THE HAPPY END』

『LIVE ON STAGE』

『ベスト』

『GREATEST LIVE! ON STAGE』

『はっぴいえんど』(4CD)

『はっぴいえんど BOX』 (8CD)

『はっぴいえんどマスターピース』 (2CD+2LP+ハイレゾ)

*

トリビュートなど

セッション・ワーク

オムニバス盤収録作品


(写真「CITY/HAPPYEND BEST ALBUM」解説より)


[ 次ページへ ] [ 前ページへ ]

 [ メニューへ戻る ]

[ HOME ]