JAZZ 歴史年表
年 代 | 場 所 | 出 来 事 | |
1724年 | ニュー・オーリンズ | 黒人規則 (Black Code) 制定 | 奴隷解放規定 → クリオール階級誕生→肌は黒くても白人とおなじ身分 |
1776/7/4 | アメリカ | 独立宣言 | |
1783年 | パリ平和条約 | アメリカ合衆国誕生 | |
1850年 | クリオール全盛 | 子供に音楽教育 | |
1860年11月 | エイブラハム・リンカーンが大統領に | 奴隷制に反対 → 南北戦争勃発の機運高まる | |
1865年4月 | 南北戦争終結 | 奴隷解放令 → クリオール階級の没落 | |
ニュー・オーリンズ | 奴隷解放令により地位の下がったクリオールと地位の上がった黒人奴隷がミックスバンドを組んだところで接点ができた。 | ベーレントによるとジャズとは、アメリカにおいて黒人とヨーロッパ音楽の出会いによって生まれた芸術である | |
当時、メンフィス セントルイス ダラス カンザスシティー 等で似たような音楽が演奏されていた。 | |||
しかし、ジャズのエッセンスである即効演奏はニューオーリンズで形作られた | インプロビゼーション メロディーを飾る(バスター・ベイリー) を起源とする | ||
1916年3月 | シカゴ シラーカフェ | 観客が演奏者にJass it up と声援を送った | Stein's Band from Dixie に送られた声援が Jazz の語源となった |
1917年11月 | ニュー・オーリンズ | ストーリーヴィル 閉鎖 | 第一次世界大戦出兵は軍港ニューオーリンズから |
死を覚悟した兵士の目の前に生きる喜びを教える高楼があってはまずい | |||
周辺のダンスホール等が立ち行かなくなり、多くのジャズメンが職場を失った | |||
ごく少数のプロミュージシャンがシカゴに移動。その他大勢は日常の本職に戻る。 | |||
1910~1920 | 南部から北部工業都市へ人口移動 | 産業構造の変化 農業から工業へ 白人500万人 黒人350万人 | |
1922年6月 | シカゴ | キングオリバー ニューオーリンズからセカンドコルネットとしてルイ・アームストロングを呼び寄せる | |
1925年 | カンザス・シティー | トム・ペンダーガストが市政委員に | 以後13年間にわたり大腐敗政治を行い、大っぴらに酒が飲めて賭場がある街に |
優秀な子分をかかえ、そのうちの一人は 第33代大統領 トルーマン | |||
ジャズの発展に大いに貢献 | |||
K.C から生まれたミュージシャン チャーリー・パーカー チャーリー・クリスチャン EETC | |||
1929/10/24 | ウォール街 | 相場大暴落→世界恐慌 | 以後6年間、アメリカは音楽どころではなくなった |
1933年3月 | アメリカ | フランクリン・ルーズベルト 大統領 | ニュー・ディール政策により回復し始める アダム・スミス から ケインズへ |
1933年 | アメリカ | 禁酒法解除 | |
1935年 | アメリカ | 不況から脱出 | |
1935/8/21 | ロス・アンジェルス | 一夜にしてスウィング・ジャズの時代到来。 | パロマー・ボールルームにてベニー・グッドマン楽団大成功、これこそアメリカの音楽だ、と。 |
n | |||
1930年代後半 | カンザス・シティー | カウント・ベイシー楽団のソロイストはレスター・ヤング | レスターの、 ビ・バップに繋がる新しいフレージングはチャーリー・クリスチャン、チャーリー・パーカーに大いなる影響を与える。 但し、新しいのはメロディーのみであって、ハーモニーとリズムは旧来のスウィングの枠内であり、彼の演奏理念にもバップ・ムーブメントへの革新性は欠けていた。 |
1938年 | カンザス・シティー | トム・ペンダーガストの悪事が暴露される | 所得税脱税で逮捕される |
カンザス・シティー のジャズ黄金時代は終焉 | |||
ミュージシャン達はニュー・ヨークに進出 → ビ・バップ 誕生の機運が生成される | |||
1940年10月 | ニューヨーク | ヘンリー・ミントンがホテル・セシルのダイニングで ミントンズ・プレイハウスをオープン。 毎夜、10時から始まるインフォーマルなジャムセッションは、スイングの表現に飽き足りぬ人々にとっての、実験と研鑽の場となった。 |
ケニー・クラークがハウス・バンドのリーダー。 ジャムセッションのメンバーはベン・ウェブスター、アール・ハインズ、レスター・ヤング、チャーりー・クリスチャン、セロニアス・モンク。 少し遅れて、パーカー、ガレスピー、パウエル、ダメロン、ペティフォード。 |
スウィングからビ・バップへ | レスター・ヤングの新しい時代のフレージングを完全に理解したチャーリー・クリスチャンのコンセプトはガレスピー、モンク、クラーク、らに引き継がれ、モダンジャズへの一里塚となる。 | ||
1941/12/8 | 日米 | 真珠湾奇襲攻撃により日米開戦 | 戦時政策として、即時不要の娯楽に対する締付の一環で、ダンスに対して戦時特別税が課された結果、ビックバンドの職場であるボールルームが次々に閉鎖転業を余儀なくされた。 52丁目付近には、ダンス・フロアーを持たない小クラブが次々にオープンし、小編成のバンドの需要が増すとともに、ビッグバンドの需要は減少の一途をたどった。 |
1942/3/2 | チャーリー・クリスチャン | 肺結核のためこの世を去る。 | 以後、戦争の影響もあり、バップムーブメントは一旦下火となる。 |
1942/8/1 | 全米 | ミュージシャンのレコード吹き込みストライキ, ペトリロが宣言した |
レコードが放送されている間、ミュージシャンは生演奏の機会を奪われている |
1941年末までに、保証金300万ドルを支払うよう、レコード業界に要求 | |||
1944年11月 | ビクターとコロンビア | ペトリロの要求を呑み、契約書にサイン | このストライキの間にジャズの演奏スタイルは大きな変革期を迎えていた |
つまり、スイングからビーバップへの変遷 | |||
1944年 | パーカー・ ガレスピー |
地方巡業をするビリー・エクスタイン楽団を辞め、 ニューヨーク52丁目に戻る |
以後、二人による共演はニューヨーク及び西海岸のジャズメンに強い影響を及ぼす。 |
1944年10月 | ニュー・ヨーク | パーカーとマイルス共同生活を始める | 当時 マイルスはジュリアード音楽院の学生 |
1945年 | 日米 | 終戦 | 前線から引き揚げてきた将兵が一斉に52丁目のクラブに繰り出し大混乱。 |
ガレスピーは第一次ビッグバンドを編成して地方巡業に出るが南部では受け入れられず。理由はバップイディオムの音楽では踊れない。 |
|||
年末、パーカー・ガレスピーは6人のコンボを編成し、西海岸ハリウッドのビリー・バーグスと8週間の出演契約。 | |||
1946年 | ガレスピーの一行は、パーカー1人を西海岸に残してニューヨークに戻る。残ったパーカーはダイアルのスタジオ、及びクラブフィナーレで音楽活動を精力的にこなす。当時のサイドメンとしては、アート・ファーマー、ソニー・クリス、ハンプトン・ホーズ、後にマイルス・デイビス、エロール・ガーナー等が上がっている。 | ||
手堅いビジネスマンのガレスピーと人騒がせな事件を起こす破滅型天才のパーカーのコンビは長続きせず、ガレスピーは第二次ビッグバンドを旗揚げし、その野性味あふれる演奏は大成功を収める。 | |||
この年を境に、若手ミュージシャンの技量が加速度的にレベルアップしていき、ビ・バップの表現が一部の天才によるものから、ユニットによるものに移行していった。 また、ジャズはダンスのための音楽ではなく、鑑賞のためのものとなる。 |
|||
1948年 | ニュー・ヨーク | ジャズ・クラブの中心は52丁目からブロード・ウェイに移る。 | チューバ、フレンチホルンを加えたマイルス9重奏団 ブロードウェイのロイヤル・ルーストに出演 クール派の礎 |
1949年 | ニュー・ヨーク | 白人テナーマンらによる、ビブラートのない冷ややかな抑制された表現 → クールジャズ | スタン・ゲッツ、ズート・シムズ、アル・コーン、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュ |
1950年6月 | ロス・アンジェルス | 朝鮮戦争勃発により、航空機生産という特需景気に沸いた。 | この恩恵で、近郊の小クラブが相次いでジャズメンを出演させるようになり、ウェストコースト・ジャズ繁栄のきっかけとなる。 |
1954年 | 西海岸 | ウェストコースト・ジャズがピークを迎えていた。 | カリフォルニアの太陽のように明るく爽やかなサウンド |
1954年 | 東海岸 | 黒人ジャズメンが、西海岸の白人に奪われていた主導権を取り戻す曙光を見いだし得た年 | ジョン・ルイス、クリフォード・ブラウン、アート・ブレイキー、マックス・ローチ、マイルス・デイビス、チャールス・ミンガス、ソニー・ロリンズ |
ニュー・ヨーク | ビ・バップからハードバップへ | より流麗なメロディーライン、安定したリズム、グループとしての統一感 | |
1955/3/12 | ニュー・ヨーク | チャーリー・パーカー死す | セカンド、サード・ジェネレーションの若手を日の当たる場所へ駆り立てる |
1955年9月 | コルトレーン | マイルスクインテットに参加 | 当時は未熟なテナーマン |
1958年 | ジャズ・メッセンジャーズの’モーニン’が大ヒット | ファンキーブーム到来 バップエイジの2巻編成のコンボが主流となる | |
1958年秋 | ニュー・ヨーク | 人気の頂点にあったソニー・ロリンズ2度目の雲隠れ ロリンズの行き詰まりが次第に明らかになる |
ハード・バップのマンネリズムが目前に迫る |
1959年 | ニュー・ヨーク | マイルス・デイビス カインド・オブ・ブルー 録音 |
モード奏法完成 従来のコード分解によるアドリブから、スケールに基づくアドリブへ |
ジョン・コルトレーン ジャイアント・ステップス 録音 | ママイルスのコンセプトをすかさず受け入れ、60年代以降の疾走のスタート地点となる | ||
1959年11月 | ニュー・ヨーク | オーネット・コールマン ファイブ・スポットに進出 | フリー・ジャズの幕開け 調性を破壊し、無調の世界へ |
1960年4月 | コルトレーン | マイルスのグループを離れ、自己カルテット編成 | |
1960年12月 | オーネット・コールマン 「FREE JAZZ」}録音 | ||
1962年 | ソニー・ロリンズ アワ・マン・イン・ジャズ 録音 | オーネット・コールマンへの理解を示した演奏 | |
1965年 | ジョン・コルトレーン Ascension 録音 | オーネット・コールマンの「FREE JZZ」からの影響を強く受けた作品 | |
1969年8月 | マイルス・デイビス ビッチェズ・ブリュー録音 | ロック・リズムとエレクトリック・サウンド 70年代のクロス・オーバーの幕開け と同時に1940年代以降のモダンジャズの歴史は幕を閉じた |