朝原選手がきたぁ〜
       平成21年9月4日
 
 5日から始まる豊高祭の記念講演として「あきらめなければ夢は叶う」という演題で、全校生に語ってくれました(内容については後日掲載する予定です)。その前日の夕方、豊岡駅に着いた朝原選手は私たちが練習をしている豊高のグランドに来られ私たちに少しの間指導をしていただきました。朝原選手のJOGは大学時代から黒人選手のような美しさだったそうです。JOGのポイントや走り方について指導をしていただきました。練習が終わったら「腹筋を触らせてください」「練習をあんまりしてないのでどうかな」と言いながら応じてくれました。

「あきらめなければ夢は叶う」 講演の内容
 この夏のベルリン世界陸上大会では解説をしながらも、決勝は自分のことのようにドキドキしました。振り返ってみると北京オリンピックでの私たちのチームは、メンバーが適材適所に配置され、チームの仲間に対する信頼と尊敬がチームの質を高め、個人の力以上のものを発揮することができました。
 小学時代は、普通に遊び運動会では活躍しました。サッカーに興味があり中学でやりたかったけれど、サッカー部がなく、しかたなくハンドボール部に入りました。当時は「スポ根」全盛期で練習中は水も飲ませてもらえず、先生の日を盗んで飲む水のおいしかったことを憶えています。土・日の練習は当たり前で、その甲斐あって全国大会に出湯しました。理不尽な我慢もしましたが、そうすれば大きな成果を得ることができるということを経験できてよかったと思います。
 高校では走り幅跳びをしました。先生は専門的なことは教えてくれなかったので、自分で考え試して練習し、合同合宿では様々な指導者から色々な理論や練習法を学び自分にあったものを取捨選択しました。このような自分の練習方法を高校時代に確立しました。
 同志社大学では、目標であった走り幅跳びの8メートルの記録を出し、自分も世界で戦
えるのではないかと思い始めました。小さいころから海外で活躍したいと思っていたのでドイツに留学しました。一からのスタートでしたが、いいものはどんどん吸収していき、本場∃−ロッパのたくさんの試合に出て賞金を稼ぎ、日本記録も更新できました。
 27歳の頃には、もっと記録を出さなければという思いから、小さな怪我くらいでは休まなかったので足首を骨折してしまいました。この時私はしがみついていたキャリアや記録から自由になり、これを契機に一からやり直そうと思いました。その後リハビリを続けシドニーオリンピックでは代表に選ばれ、アテネオリンピックにも出場し、風を切って走る喜びをかみしめました。アテネ後は世間も自分も私の選手生命の終わりを感じていましたが、地元開催である世界陸上大阪大会出場を果たし、北京オリンピックで広大きな成果をあげることができました。自分の力に対する疑いをはねのけ、自分の思いを形にし、やり遂げられたということは競技者としてだけでなく、人生にとっても大きな意味があったと思います。
 高校時代には、オリンピック出ることや海外で働くことなど夢にも思っていませんでした。誰も先のこととは分かりません。しかし、なにげなくやっていることが将来につな
がるのでアンテナを常に張っておき、あきらめず、没頭できる好きなことに一生懸命取り組んでほしい、そう思います。