★ギョーム・ルジャンティ フランスの天文学者 Guillaume-Joseph-Hyacinthe-Jean-Baptiste Le Gentil de la Galaziere (September 11, 1725 - October 22, 1792) とても長い名前だ。
初めのうちは神学を学ぼうとしていたようだが、ドリルから天文学のレクチャーを受けたことがきっかけで天文学に興味を持つようになった。パリ天文台でジャック・カッシーニの助手になった。測地観測をする傍ら、ディープスカイの観測を始めた。
当時、フランス最高の天文台であるパリ天文台の台長はジャック・カッシーニだった。ジャックは生まれも育ちもパリ天文台。父親ジョバンニ・カッシーニが台長だったのだ。カッシーニ家は、4代にわたりパリ天文台の台長を務めているが、初代のジョバンニは土星の衛星やカッシーニの隙間の発見で知られる。2代目のジャックは地球の大きさと形を測るためにフランスを南北に縦断する測量などを行った。このジャックの下で働いていたのがルジャンティであるが、彼が影響を受けたドリル(Joseph-Nicolas Delisle 1688-1768)もジャック・カッシーニの指導を受け、1715年にフランス科学アカデミーに入っていた。ドリルは1721年から1747年にかけてロシアのピョートル大帝に招かれて天文学者養成の学校を任された。ロシアで裕福になったドリルは、フランスに帰国後、クリュニーに私設天文台を作り、そこに1751年にシャルル・メシエを助手として迎えた。
さて、ルジャンティといえば金星の太陽面通過の悲運があげられるが、その前に星雲星団の発見もいくつか行っている。 1747年にアンドロメダ銀河の伴銀河M32を発見、そして1749年にはM8の星雲やぎょしゃ座の散開星団M36,M38を、1750年にはM20を発見した。メシエがカタログを作る前の発見である。またNGC6712球状星団を発見したとされる。これら星雲の発見等が認められ、1753年にパリの王立科学アカデミーに入った。
1758年7月26日に、アンドロメダの星雲とオリオン星雲に関する大勢の観測者の報告や、デ・シェゾーのカタログの詳しい紹介を含めて星雲の観測をまとめた報告を行ったが、これはメシエが最初の星雲を見る1ヶ月前だった。また、はくちょう座の暗黒星雲(Le Gentil 3 )も発見した。
ルジャンティは、1761年6月3日に起きる金星の太陽面通過を、フランスの植民地であったインドの東海岸の町、ポンディシェリーで観測しようとした。1760年3月26日に彼が率いる観測隊はフランスを出航した(34才)。太陽面通過の1年と3ヶ月前だ。喜望峰を回って7月10日にインド洋のモーリシャス島に到着したとき、ポンディシェリーは英国軍に包囲されているという悪い知らせが入った。当時、フランスと英国は七年戦争の最中で、戦火はヨーロッパのみならず遠く離れた植民地にも及んでいたのだ。
そこでかかった赤痢が回復した後、フランスのフリゲート艦(3本マストの快速帆船)La
Sylphide
がポンディシェリーの救援に向かうことを聞いたルジャンティは乗船した。船は3月11日に出航したが、何週間も風向きが悪く順調に進めなかった。そしてポンディシェリーは英軍に陥落したという知らせが5月24日に届き、艦長はモーリシャスに引き返すことにした。
太陽面通過の6月3日までにモーリシャスに戻ることはできず、ルジャンティは船上から金星の太陽面通過を観測した。現象の最初から最後まで晴天に恵まれたが、揺れる船上での観測となったし、船の正確な経度を知ることができず、彼の観測は科学的には不成功に終わった(35才)。
ルジャンティは、8年後に再び起きる現象を逃すまいと決意した。フランスに帰国せず、モーリシャスやマダガスカルの植物、動物、地形などを調査して時を過ごしていた。だが、フィルピンのマニラは晴天になりそうだと考えた。スペインの戦艦がマニラに行くことを知ったルジャンティは、艦長に事情を話して乗船させてもらった。1766年8月10日に彼は目的地に着いた。しかし、11ヶ月後、フランスの科学アカデミーからポンディシェリーはフランスに返還されたので、そこで観測せよとの命令書を受け取った。太陽面通過の1年以上前、1768年3月にポンディシェリーに着いたルジャンティは、観測の準備にとりかかった(*1)。
ポンディシェリーでは1769年5月からずっと晴天が続き、6月3日夜も晴天で木星の衛星が観測できた。しかし、ルジャンティが午前2時に起きてみると、「空は全て雲に覆われていることを最大の驚きをもって知った。....そのとき悲運を覚え、ベッドに身を投げた。そして目を閉じることさえできなかった」と後に報告している。雲は太陽面通過が終わるまで空を覆い、その後は晴れていたようだ。ルジャンティは、後にマニラはずっと快晴であったことを知るのである。
「それはしばしば天文学者を待ち受けている運命である。私は1万リーグ以上も航海した。果てしなく大きな海を渡り、故国から遠く離れ、その果てに致命的な雲を目撃しただけ。雲は、私の最も貴重な時間に太陽の前に現れ、私から苦悩と疲労という果実を勝ち取った。」
彼の不運は続いた。再びかかった赤痢が治ると、ポンディシェリーを1770年3月1日に後にしてモーリシャスに向かった。12月にフランスへ戻るとき、船は喜望峰で嵐に合い、メインマストが折れてモーリシャスに戻った。1771年3月下旬にスペインの軍艦に乗り、ついに8月1日にスペインのジブラルタルにあるCadiz港に着いた。Cadizで1ヶ月休養をとってから、歩いてピレネーの山を越えた。
11年半の遠征の後、ルジャンティは1771年10月にパリに戻った(46才)。彼は既に死んでしまったものと思われていて、財産は相続人に分けられていた。王立アカデミーは、個人の利益を求めて職務を怠ったということで、彼の地位をveteran(退職者)に降格させた。
後に、ルジャンティは地位を回復し、パリ天文台に職を得た。個人の財産を取り戻す法律上の手続きを行い、結婚もした。残りの20年は娘を育て、著述活動を行った。1779年と1781年にインド洋への航海の報告を出版した。1792年10月に67才で亡くなった。
(*1)マニラを離れた理由について、オペラの解説ではスペイン政府との書面のやりとりでマニラの係官から疑念を抱かれ、ルジャンティが投獄されるかもしれないと恐れたためにマニラを離れたという説明がされている。
資料は、
The 1761 Transit of Venus : Eli Maor Sly&Telescope June2012
SEDSのHP http://messier.seds.org/xtra/Bios/legentil.html
Transit of Venus Manitoba Opera http://www.manitobaopera.mb.ca 等による。