●●●●●惑星状星雲 Fg1 とウィリアミーナ・フレミング

 2011年2月1日にワディーで惑星状星雲Fg1を見た。Fgとは何かを調べていて、発見者はWilliamina Fleming であることを知ったのでいろいろ調べた。

 惑星状星雲Fg1は、ケンタウルス座にある小さな惑星状星雲で、40cm65倍で小さくて淡いのがストレートで見えていた。O3フィルターでもっとはっきりする。これは7mmノーフィルターでは、丸い星雲は直視で常に見え、そらし目で中心星が見えていた。
 Sakib Rasoolさんのホームページにはこの星雲が紹介されていて、フレミングの発見であることはそこで知った。すてきなデザインのHPで、星座ごとのディープスカイなど紹介されている。小さく明るいエメラルドグリーンの円盤で、ハービックハロー天体のように双方向の暗いジェットがあると解説されていた。
.... http://www.starsurfin.com/constellations/centaurus.htm
 また、Lopez J.A.らの論文 Episodic symmetric jets in the planetary nebula FG 1 をネットで見つけた。ここには星雲は2つの楕円形の構造が直行していて、対象的に南北に噴出するジェットがあることが紹介されていた。

 ウィリアミーナ・フレミング(Williamina Paton Stevens Fleming ,1857年5月15日 - 1911年5月21日)は、スコットランドに生まれ、アメリカで活躍した女性天文学者だ。
 彼女は、1857年5月15日に職人のロバート・スティーブンスとマリー・ウォーカー・スティーブンスの娘としてスコットランドのダンディーで生まれた。彼女が子供の頃はあまり知られていない。6人兄弟と2人姉妹がいたというぐらいだ。その当時の子供は病気で亡くなることが多く、彼女が生まれる前に兄のリチャードが亡くなったりした。そして不幸なことに1864年3月、彼女が7歳のときに父ロバートが39歳の若さで亡くなった。家族や友達からミーナと呼ばれ、公立学校に通いました。14才の若さで教員になりました。
 ウィリアミーナは、1877年5月26日に James Orr Fleming と結婚した。このとき彼女は20歳だったが夫ジェームズは16才も年上でしかもバツイチ。ジェームズは1841年7月に呉服商の子供として生まれ、25才でイザベラ Brown Barr と結婚したが、3年後に妻は亡くなっていた。ウィリアミーナと再婚したとき彼は銀行マンだった。
 結婚の次の年、1878年12月に二人はアメリカのボストンに渡った。しかし、数ヵ月後に離婚。このとき彼女のおなかには赤ちゃんがいた。ウィリアミーナは英国の故郷ダンディーに帰り、1879年10月6日に息子エドワードを生んだ。
 2年後の1881年4月3日、彼女は2才に満たない息子を母にあずけ、新しい生活を求めてグラスゴーよりボストン行きの船に一人で乗った。彼女はどうやらボストンに帰ってピッカリング教授の元で働くことを望んでいたようだ。息子に Edward Charles Pickering Fleming と名づけていることから推測できることだが、雇い主のピッカリングに愛情を抱いていたかもしれない。
 母と子が再開したのは6年後。1887年9月、息子のエドワード、エドワードを育てたウィリアミーナの母マリー、いとこのアンドリューとジョアンナの4人はボストンへ渡り、二度と英国には帰らなかった。
 1881年にボストンに戻ったとき、ウィリアミーナはピッカリングが管理するハーバード大学天文台の女性計算係りとして雇われた。彼女がピッカリングの家政婦として働き始めてそう間もないころ、ピッカリングは彼女を天文台に採用したのだ。ピッカリングは、彼女には優れた教養と知性があるという印象を持っていたし、雇っていた男性の部下は不十分で「家政婦の方がマシだ」と不平を言っていたからだ。その頃は、ハーバード・コンピューターの一員となれば、田舎町の工場で単純作業に従事するよりもいい給料がもらえました。男性は時給50セントも要求したが、女性は25〜30セントで雇えたらしい。
 はじめは、索引、検査、乾板の整理などカタログを作る責任者はNettieFarrarでした。computersと呼ばれる女性達は、写真に写っている星を調べ位置を計算しました。Farrarはその年に辞めたので、フレミングが代わりました。
 フレミングは、1888年には天文台からの正式発表の編集を任されるまでになっていた。さらに雇用責任者として仕事に志願してきた人を面接しただけでなく、雇った女性に仕事を教え、そのデータの管理もした。写真をカタログ化したので、全体の作業がはかどったのだ。
 フレミングは何千例ものスペクトル解析をして、9年間に10,000以上の星の分類を行いました。星をスペクトルに分類することは、1860年代にイタリアのセッキが始めましたが、フレミングは簡単なスペクトル分類を考え出しました。スペクトルを線の続きぐあいや水素の線の強さ等でAからQに分けたのです(IJPを省いて)。このやりかたは、アニー J.キャノンに引きつがれ、現在使われているOBAFGKMというスペクトルになって行きました。
 1890年にはハーバード大学天文台から10351個の星のデータを載せたヘンリードレーパーカタログが出版されました。これはフレミングと他の8人の女性らの仕事の集大成でしたが、フレミングは著者として記されませんでした。ピッカリングはこの仕事で果たした彼女の貢献を認め、彼女は天文学者に広く認められるようになって行きました。
 1898年、彼女の優れた業績が認められ、天体写真の管理者となったが、この種の仕事が女性に任せられたのは初めてでした。1906年、アメリカ人の女性では初めて王立天文学会会員となりました。
 フレミングは1881年から1911年まで30年にわたって写真乾板と向き合い、その生涯に調査した数は200,000枚ほどにのぼるとされています。当時、女性は望遠鏡を使って観測することはなく、天文学の専門的な教育も受けませんでした。しかし、写真を通して星を見続けているうちに、その注意力によって多くの発見をしました。

1907年、それまで発見した222個の表を出版した。A Photographic Study of Variable Stars
1910年、白色矮星の発見を報告した。
1911年、Spectra and Photographic Magnitudes of Stars in Standard Regions 出版
 彼女は1911年にボストンにおいて肺炎で54才でなくなるまでハーバード大学天文台で働いた。

 フレミングが発見した星雲
 彼女は仕事中に59個のガス星雲、310個の変光星、10個の新星、94個のウォルフライエ星 222個の長周期変光星を発見した。馬頭星雲も彼女の発見です。1888年にハーバードのB2312プレートを見ていて発見したものです。後にIC434として知られる星雲に5分角の直径の半円形のものだ。ところが、ICカタログを作ったDreyerは、初版ではフレミングを発見者とせず、ハーバードと記した。1908年に出されたsecond ICカタログにはフレミングの名前が載っている。
 B2312プレートは、口径8インチ、焦点距離45インチのBache天体写真儀で1888年2月6日に90分露出で撮った写真で、10度四方の範囲が写っているが、内側7度はよく写っているらしい。このBache天体写真儀の対物レンズVoightlander portrait lensは、ピッカリングが1885年に2000ドルの資金を得て手に入れたものだ。
 みなみのかんむり座にある惑星状星雲IC1297も1894年にフレミングが発見したものだが、Dreyerはピッカリングを発見者とした。他にもフレミングの発見であるが、ピッカリングとしたものは次の通り。

IC 418 うさぎ座の惑星状星雲 ●見ている
IC 420 オリオン座の散光星雲
IC 421 オリオン座の渦巻き銀河
IC 423, IC 426, IC 427 and IC 428, all bright emission nebulae in Orion
IC 424, IC 430, IC 431, IC 432 and IC 435, all reflection nebulae in Orion
IC 1266 さいだん座の惑星状星雲 ○見てない
IC2553 PL Car. 1893 13400ly ●見ている
IC1297 PL CRa. 1894 7800ly ○見てない
IC2448 PL Car. 1898 10100ly Fleming 80 ●見ている
IC2501 PL Car. 1904 5642ly Fleming 101 ●見ている
Simeis 3-188 Cyg. 1470ly SNR Pickering's Triangleピッカリングの三角 ●見ている
ピッカリングの三角は、はくちょう座の網状星雲だ。有名な明るい部分の間に有るとても淡い三角の星雲で、透明度の良い夜にはO3で模様まで見える。

参照...http://www.womanastronomer.com/wfleming.htm
  ...wikipedia
  ...http://www.distinguishedwomen.com/biographies/flemingw.html


... AA235