★☆★☆★☆★☆★ James Dunlop: Messier of the Southern sky ...S&T 2001 June ★☆★☆★☆★
南天のDeep-Skyを629個もリストした天文家,James Dunlopがいた。
James Dunlopは、1793年10月31日にスコットランドで生まれた。十分な教育を受けなかったが、才能があったので17才の頃には旋盤を作り、金属反射鏡を鋳造していた。彼は、27才のときに、オーストラリアのNew South Wales州知事となった友人から、シドニーの西25kmのParramattaに建設される天文台の装置の維持をするために呼ばれた。
1821年11月7日にシドニー着。翌年5月から観測を始めた。
ヨーロッパから見えない-33度より南の8等以上の星のカタログ作りが始まった。が、1823年6月に、天文台のC.C.Ludwig
RumkerがBrisbaneと激しいけんかをして去っていったので、星表をしあげる仕事がDunlopにまわってきた。
1826年3月2日までに7385星の星表が完成したが、Brisbaneは3カ月前にイングランドへ帰っていたので、Dunlopはオーストラリアに残って観測を続けることにした。二重星のカタログの序で彼は書いている。「反射望遠鏡があるので、それを使って星雲と二重星を多く発見できることに気付いた。ここに残り、南半球の星雲と二重星のカタログを作るために情報収集をやり通すことに決めた。」
そして彼はやった。1826年の4月27日から11月24日の間に629個の銀河,星雲,星団を発見した。彼は天球の1/4を見ただけで、しかも二重星カタログを作る片手間にやったのだから、その数は驚くべきものだ。さらに自作の金属反射鏡の光量は、今の15cm望遠鏡ほどしかなかったのだ。
Dunlopはスコットランドへ帰ってBrisbaneと再会し、1827年12月20日に「Catalogue
of Nebulae and Clusters of Stars in the Southern Hemisphere,
Observed at Parramatta in New South Wales」を王立協会へ提出した。1828年2月8日、協会のジョン・ハーシェルは、BrisbaneとDunlopに金メダルを贈り、熱心で、精力的で、整っていて、なかんずく勤勉で組織的だと言葉を添えて称えた。
ハーシェルは絶賛したが、小さな望遠鏡で信じ難いほど多くの天体を発見していたのでDunlopのカタログは嘘のように思われた。ハーシェルが南アフリカから帰って、Dunlopより十分に大きな望遠鏡を使ったにもかかわらずリストの211天体しか見つけられなかったと報告したとき、Dunlopに対する疑問が増えてきた。Dunlopの二重星にハーシェルが見えないものがあったので、Dunlopは主観で見たと発言した。
ハーシェルの疑問はDunlopにとって長い間思いもよらぬ結果をもたらした。Dunlopはカタログだけでなく、彼自身さえも忘れ去られたのだ。たぶんプロとしての嫉妬があったのだろう。天文家Agnes
Mary Clerkeによると、「ハーシェルは南半球の一番良いところをDunlopに先に取られたと思ったのだ」。
ハーシェルは211個しか見なかったが、私達は300個以上同定できる。残りは望遠鏡が分離できない淡い二重星や多重星だったのだろう。
Dunlopは球状星団の発見が得意だった。カタログには南天の明るい球状星団は全部入っているし、30個は彼自身が発見したものだ。またマゼラン星雲の中で20個ほどの星雲を発見した。望遠鏡の分解能が足りなかったので惑星状星雲は発見困難で、カタログには4個しか載ってない。銀河はもう少しよく見えたらしい。1826年までにDunlopは53個の銀河を加えた。リストしなかった銀河は小さく丸く淡いものがほとんどだ。みなみのかんむり座のBernes157として知られる暗黒星雲も載っている。
Dunlopは1831年にParramatta天文台に戻り、16年後に病気で辞職するまで所長を勤めた。1848年9月23日に彼が死去した後、同年代の人は彼を相矛盾するほど様々に評した。が、彼は南天のメシエとして思い出されるだろう。
....AA187