E.E.Barnard
エドワード・エマーソン・バーナード
1857年12月16日 - 1923年2月6日
バーナードは、1857年にアメリカのナッシュビルで生まれましたが、父は既になくなっていました。9才のとき母が頼み込んだ写真館の仕事につきました。一家が暮らしていくために、子供のバーナードも働かねばならなかったのです。
当時、写真を焼き付けるためには太陽の光を暗室へ導いていました(エジソンの電球発明は1879年)。太陽の光を暗室へ導く望遠鏡を常に太陽に合わせておくのが彼の仕事でした。これは単調で、居眠りをして失敗することが多く、辛い仕事でした。バーナードは、これを熱心に続け、教会の鐘が鳴る時刻を太陽の影で知るようになりました。ところが、1ヶ月もすると、影と鐘がずれてきたのです。今日、均時差と呼ばれる現象をバーナードは子供のときに発見していました。
写真館の主人が変わってもバーナードは熱心に仕事を続けていました。すでに太陽に望遠鏡を向ける必要はなくなっていましたが、バーナードは写真を処理する知識を蓄えていきました。19才のとき、友人に大きな本をかたに2ドルの金を貸しました。彼は小学校には2ヶ月しか行けず、字は母から教わりました。その本はディック著「実用天文学」で、バーナードは何回も読みました。この本の影響で、彼は2.5cmの小さな望遠鏡を紙筒で自作しましたが、ついに1年後に口径13cmの屈折望遠鏡を買ってしまいました。当時の給料の8ヶ月分もする高価な望遠鏡でした。
この年、彼の住むナッシュビルで科学振興協会の集会があったので、バーナードは行ってみることにしました。そして海軍天文台のニューカムにどうしたら天文学者になれるか聞きました。ニューカムの答えは「数学を勉強しなさい。」 貧しいバーナードには「あきらめなさい」という意味でした。だが、ニューカムは「あなたは観測家になりなさい。彗星を探してみなさい。」と付け加えました。
病気の母と貧しい生活を送っていた1881年1月、23才のとき、ローダ・カルバートと結婚し、借金をして新居を建てました。お金を返すあてはなく、返済日が迫っていました。当時アメリカでは彗星を発見すると200ドルの賞金が与えられていたので、バーナードは昼は写真館で働き、夜は13cmの望遠鏡で彗星を探しました。1881年5月12日にペガスス座α星の近くに待望の彗星を見つけましたが、報告方法をしらなかったので、天文台で確認されませんでした。4ヶ月後、9月17日におとめ座で彗星を発見。これは認められて200ドルの賞金を得ました。これで借金を返すことができたのです。
バーナードが有名になると、ナッシュビルのアマチュア天文家たちは寄付を集め、彼は大学に進学することができました。昼は授業を受け、夜は天文台で働きながら彗星を探しました。
1887年、30才。大学を卒業してリック天文台に入りました。
1892年、木星の5番目の衛星アマルテアを発見。
1895年、シカゴ大学の天文学教授につく。ヤーキス天文台の望遠鏡で天の川の写真を撮影。暗黒星雲の研究を行った。
1916年、へびつかい座に固有運動が特に大きな星を発見。バーナード星と呼ばれている。
1923年、死去。
おはなし天文学「斉田博著」 および Wikipedia を参考にまとめました。