Novels: Series #1
「手のひらのもみじ」
平池 彩
土曜日の午後三時、目を覚ますと水色のカーテンのすき間から西日がさしている。起きだして冷蔵庫の中をのぞいてみると、食事になりそうなものが何もなかった。しかたなく、顔を洗って買い物に出た。空は快晴、すがすがしい秋の午後。窮屈なスーツや革靴から解放され、素顔に風を受けると、少し晴れやかな気分になって歩き出した。
赤い葉が風に吹かれて目の前にひらひらと舞い落ちてきた。立ち止まると、ブランコと鉄棒が一つずつあるきりの小さな公園。その片隅で、もみじがきれいに色づいている。その赤い色に誘われて樹下のベンチに腰を下ろした。この公園で最後に遊んだのはいつだったのだろう。最後に来た日はどうしても思い出せないが、最初にこのベンチに腰掛けた日の事ははっきりと覚えている。
ちょうど十五年前、小学校五年生の秋。二学期の途中で、私は突然この町に引っ越して来た。仕事をはじめた母さんはいつも忙しそうだった。毎日疲れて帰って来ると食事の用意だけはしてくれたけれど、話し掛けてもあまり返事はしてくれなかった。
父さんは、一緒に引っ越しては来なかった。
十一月、私は誰とも話をしない子どもになった。教室で先生にあてられても答えることが出来なかった。やさしい女の先生は「かわいそうに」という顔をして、一度も叱ったりはしなかった。転校して一カ月が過ぎていたが、私はいつも一人だった。
あの日、私は久しぶりに話をした。今日のようにひどく天気がよくて、学校の帰りに通る公園のもみじが、まっ赤に燃えているように見えた。そしてベンチにはおじいさんがひとり、静かに、本当に静かに座っていた。
もみじの色に引き寄せられて、こわごわとおじいさんの隣に腰をかけた。おじいさんは何も言わなかった。茶色のコートを着て、ステッキを持ったおじいさんの顔は、目深にかぶった帽子とまっ白なひげでほとんど見えなかった。私はじっとおじいさんを見つめた。ゆっくりとおじいさんが振り返った時、さっと冷たい風が吹いた。空から赤いお星様が、ぱらぱらと音を立てて降ってきた。
「わあ、きれい」
おじいさんのひげが少し笑ったような気がして、私はにっこり笑い返した。
「こんにちは」
帽子の奥でかすかに目がうなずいた。また空からお星様がひとつ、ひらりと二人の間に降りてきた。私はそれが地面に落ちていくのが惜しくて、受け止めようと手をさし伸ばした。小さな手のひらにもみじの葉が舞い落ちた。
次の日、私はまたおじいさんの隣に座った。
「こんにちは。」
おじいさんの目が優しくうなずく。私は毎日おじいさんの隣に座るようになった。
「今日ね、給食、ハンバーグだったんだ」。「算数のテストがあったんだけど、ぜんぜんできなかったの」。「来週、参観日なんだけど、母さん来てくれるかな」。
おじいさんの声は一度も聞いたことはなかったけれど、私は毎日おじいさんとおしゃべりをしていた。母さんのいない家には帰りたくなかったけれど、おじいさんに早く会いたくて、毎日放課後が待ち遠しかった。
十一月の最後の日、いつものようにランドセルを背負ったままいそいで公園へ向った。お気に入りのブルーのセーターをはやく見せたくて、私はいそいで走っていった。途中、小さなタバコ屋さんの前で黒い洋服を着た人にぶつかった。「ごめんなさい」。口の中でつぶやきながら、ハンカチを握り締めた大人たちの間を足早に走り抜けた。
その日、おじいさんはいなかった。次の日もその次の日も、もうおじいさんが来ることはなかった。公園のもみじはすっかり葉が落ちて、地面はかさかさの落ち葉でいっぱいになった。
十一歳の「私」は、あれから誰と話をしていたんだろう。そう思った時、ポケットの中で携帯が震えた。ユキからのメールだった。「今日ヒマでしょ。六時にうちに来ること!」。彼女らしい。あいかわらずマイペースなメールだ。
五年生の冬、誰とも話さないまま年が明けた。連絡帳には秋のもみじを大切にはさんだままだった。始業式の日、隣の女の子がそれを見て言ってくれた。
「きれいね」
私は、はじめてユキににっこり笑い返した。
いつのまにか、もみじが一枚、膝の上に落ちていた。天からこぼれ落ちて来た、赤いお星様を手に乗せたまま立ち上がった。急に風が冷たくなって、秋の日がもう暮れようとしていた。
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