2026年01月28日(水)
JR嵯峨嵐山駅北口9:09―霞中庵―丸太町通り― 一条通り―9:23大覚寺堂ノ前公園
9:25―(有栖川)―北嵯峨高校―9:41大覚寺大沢門9:45―望雲亭―大沢堤―10:22
名古曽の滝―10:31心経宝塔 トイレ―閼伽堂―10:52大沢門―10:55信徒会館西角―
136号線―11:06 P62―(北へ)―大覚寺宮墓所―11:11直指庵分岐―(東へ)―池―
11:21後宇多天皇陵入口―(南へ)-釣殿広場―11:26観音島12:32 解散
寒気がきびしく張りつめた朝、
空は抜けるように青い。
JR嵯峨嵐山駅北口に11名が集まり、
委員の研修を兼ねた野鳥と歴史の
観察会が始まった。
2月の本番に向けた下見
であったが、本番は大雪注意報
のため中止となった。
駅を出て北へ向かい、
竹内栖鳳の旧山荘・霞中庵の
塀に沿って歩く。
静かな住宅街の門柱に、
朝日を浴びたジョウビタキが一羽、
首をかしげこちらをうかがっている。
有栖川沿いに出ると、西に視界が
一気に開け、田園が
北山連峰の裾まで広がる。
畑の中には数羽のケリが
黄色い細い足で数歩、
歩いては枯穂を
つついていた。
大覚寺の大沢門で拝観料を納め、
境内へ入る。
池舞台付近まで進むと、
大沢池が静かに広がっていた。
洞庭湖を模したと伝わる最古の
人工池で、二島一石の配置は
いけばな嵯峨御流の基本形
だという。
水面は冬の光を受けて淡く揺れ、
千年の時を湛えているようだった。
大沢池の堤を歩く
いったん大沢門へ戻り、
堤を北へ歩く。
望雲亭は昭和50年、寺号勅許1100年
を記念して再建された建物で、
端正な姿が池に映る。
詩碑を過ぎると、観月の夕べに
使われたのだろうか、舟が二艘係留
されていた。
嵯峨天皇が舟を浮かべ、
文化人とともに中秋の名月を
賞でたという故事が思い起こされる。
堤の外側の排水路にはシロサギが佇み、
さらに視線を凝らすと、
皆が指さす先にカワセミがいた。
名古曽の滝跡へ
菊ヶ島が見えてくると、
その北側に名古曽滝跡が現れた。
藤原公任が詠んだ百人一首が思い出される。
滝の音は たえて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ
かつて嵯峨天皇が造営した人工の滝は、
平安中期にはすでに涸れていたという
平成の発掘調査で中世の遣水が確認され、
現在の姿に復元されたとの案内板が立つ。
天神島では、モズ、ツグミ、イカルが
梢に姿を見せた。
島には菅原道真公が祀られており、
静かな気配が漂う。
心経宝塔から大覚寺門前へ
名古曽橋を渡ると、朱塗りの
心経宝塔が端正に立つ。
ここで小休止をとり、
再び歩き出す。
大覚寺の正面に出てきた。
大覚寺は、嵯峨天皇が
この地を愛し、嵯峨院を営んだ
ことに始まる。
明治時代には皇族が住職を務めた
格式高い寺で、御所とは異なり
「右近の橘・左近の梅」が
植えられているという。
北嵯峨の田園へ
北へ進み、直指庵への分岐に至る。
歴史の講師が不在のため今回は
立ち寄らず、東の池へ向かう。
マガモ、カルガモがゆったりと泳ぎ、
冬の水面に波紋を描いていた。
後宇多天皇陵の入口に着く。
後宇多天皇は大覚寺で崩御され、
遺骨は蓮華峯寺の五輪塔に
納められたという。
御陵へは向かわず、ここから
南へ田園地帯を歩く。
上空にはトビが舞いそしてミサゴも、
冬の空を悠々と滑空していった。
広沢池に到着する。
広沢池は東西・南北各300mの
灌漑用の溜池。
989年(永祚1)寛朝僧正
(寛朝(かんちょう)は宇多天皇の孫にあたる)
が朝原山に寺を建立した時に
開削した池である。
水抜きが行われており、池底の
蛇行した水脈が露わになっている。
ゴイサギ、イカルチドリ、ケリ、
ハマシギ、カワウなど、
冬の水辺ならではの鳥たちが
姿を見せた。
西側に突き出した観音島は、
広沢池でもっとも印象的な
場所だ。
手前の島には千手観音の
石仏が静かに佇み、
奥の小島には壹美白弁財天社が
祀られている。
なだらかな稜線をつなぐ北山の麓、
水が抜かれた蛇行する光のライン、
物悲しい枯淡の光景、
冬枯れの中で静かな美しさを秘めている。
ここで観察会は解散となった。
兒神社を経て嵯峨嵐山へ
帰路、南の車道沿いにある
兒神社に立ち寄る。
寛朝僧正の死を嘆き、広沢池に
身を投げた侍児の霊を祀るという。
境内には「侍児の石椅子」があり、
長命・安産・縁結びのご利益が伝わる。
その後、嵯峨嵐山駅まで歩き、
冬の北嵯峨をめぐる下見は無事終わった。