久津川・古墳めぐり
                             2025年06月08日(日)
9:00近鉄久津川駅西9:07−9:09平井神社−9:17近鉄踏切−9:26<69>南へ
−9:34青塚古墳−9:35芭蕉塚古墳9:45−奈良街道南へ―9:55久津川車塚古墳
10:06−JR奈良線踏切−10:19丸塚古墳10:21−10:34下大谷古墳1号墳10:44―
10:57上大谷古墳8号墳−11:05 4号墳−11:13 18〜20号墳 11:19−
11:24 1〜5号墳 −芝ケ原古墳北入口−11:39多目的広場休憩所(昼食)12:17−
−12:36体験学習広場12:40−12:48東出口−12:52 13号墳12:57−
13:13尼塚古墳6〜7号墳13:24−13:45尼塚古墳13:34−13:59正道官衛遺跡14:10−
14:14陽東苑(トイレ)14:12−14:29久世神社−1〜8号墳? −14:34久世廃寺跡
−14:47JR城陽駅(解散)

12名集まった。三角点探しのつもりで
来たが、今日は古墳巡りである。
リーダから地図を渡されて、
これを頼りに古墳を訪ねる。
近鉄久津川駅の西側に集合した。


すぐ横に平井神社がある。
明神鳥居を抜けて長い参道の奥まった
所に神社があった。
一社流造の本殿は貞享2年(1685)
牛頭天王を再興した。
明治2年(1869)に平井神社
になった。

その横に蓮開寺がある。
大般若経を転読する僧侶を
アニメ風のキャラクターで描いている。

府道69号線(城陽宇治線)を南下して
京都信用金庫城陽支店横の
広大な空き地の隅に
青塚古墳があった。

5世紀中ごろに築造されたもの。
方墳で1辺が35m以上。
土地開発で墳墓の一部しか
保存されていない。


車道を横断すると竹林が見える。
芭蕉塚古墳の標識がある。
芭蕉塚古墳は5世紀中ごろに
築造された。
全長161mの前方後円墳。
竹林の間にこんもりした
ものが見えた。
あれが古墳か?



奈良街道を南に歩くと
久津川車塚古墳である。
公園になっていて中に
入ることができる。
5世紀前半に築造された。
全長272mの前方後円墳。
山城地域最大の規模。
鏡や甲冑などおおくの
副葬品があった

古墳の東側をJR奈良線が通っている。
古墳の一部を削っているようだ。

その先に丸塚古墳がある。
5世紀前半に築造された。
全長1042mの帆立貝型前方後円墳。
家型埴輪が出土された。

ここまでの古墳を見ると。
最大支配者は久津川車塚古墳で
その陪臣が丸塚古墳に葬られている。
最大支配者の二代目が芭蕉塚古墳で
その陪臣が青塚古墳に
葬られていると言うことか。

大谷川を越えて住宅街を北に進んで
下大谷古墳群に行く。

下大谷古墳群
5世紀前半に築造された2基の方墳
1号墳から人骨が発見された。
公園になっている。


上大谷古墳群
下大谷古墳の南東にある。
8号古墳への階段を登ると鉄棒、
ブランコ、滑り台のある
公園があり、その奥に開かれた
林の中に古墳がある。
前方後方墳。

そのすぐ東に4号古墳があった。
方墳。14号古墳の標識が
4号古墳に訂正されている。
城陽市の名木・古木に
認定されている
「上大谷4号墳のコナラ」がある。


北へ道路を渡ると長い階段を登る。
振り向くと4号墳の
18〜20号古墳がある。
4世紀前半から7世紀前半に
かけて築造された古墳で、
長きにわたって形成
されたものである。




とくに17号墳は移築された
横穴式石室がある。


宅地開発業者の協力で
保存が図られている。
き鳳鏡、飛禽文鏡など
出土例の少ない貴重な
ものがあった。

関電の鉄塔がある。
このために古墳が残ったようだ。

1〜5号墳
1号墳は前方後方墳。
他は円墳。
大谷川を渡ってしばらく行くと
「城陽青葉台」の看板がある。



その先に芝ケ原古墳北入口。
なかに入ると広い多目的広場
で調整池を兼ねていて、
沈砂池もある。

管理人のおじさんが綺麗に
掃除している休憩所で昼食になった。
トイレも綺麗。



少し離れた所に体験広場がある。
真ん中に周辺地形立体説明板があり、
古墳が築造時の地形に分布していた
様子がよくわかる。

そこから東に見上げた所が
芝ヶ原古墳である。
住宅地の陰になっている。

3世紀前半の前方後方形墳。
南に前頭部が付き、墳丘の
後方部は、南北23m、東西21m。
前方部は壊されて全体の形が
わからない。
墓抗の中に組合せ式木棺。

銅釧(どうくしろ)は
青銅器の腕輪で全国的にも
数が少ない。
腕輪としての丸い輪の部分に、
放射状に72本の筋をつけ、
筋の先端は1本間隔ごとに
突起をつけている。
カサガイの形を最も忠実に
模したものといわれている。

銅釧を掲げる首長のアニメがある。
四獣鏡は中国の鏡を模したもので、
日本では初期の鏡。

体験広場は色とりどりの草花が咲いている。
黄色のブタクサ、白いヒメジオン、
チガヤ、マメグンバイナズナ。
ヒメジオンとハルジオンの
見分け方をおしえてもらう。
葉の付き方:
ヒメジョオンは葉が茎からまっすぐに
出ているのに対し、ハルジオンは
葉の根元が茎を抱くように
丸まって付いている。
茎の中:
ハルジオンの茎は中空であるのに対し、
ヒメジョオンの茎は中が詰まっており、
白い綿のような髄がある。

東出口から退出。
この公園はよく管理されている。

柴ヶ原13号古墳
古墳の下まで行ったが登り口が分からない。
後続が迷子になる。

城陽青山台の大きな看板まで引き返して
尼ヶ塚古墳6.7号墳に着いた。


尼ヶ塚古墳6.7号墳
6 号古墳に登る。
こんもりした丘で何もない。
円墳らしい。
丘を下って登返すと
国土地理院の図根点がある。
そこには7号遺跡がある。

6.7号古墳は4世紀後半に
築造されたそうだ。

引き返して窪地から南に
おりると公園になっていて
ブランコがある。
住宅街を南に歩き車道に出た所で、
地図を見ながら、尼ヶ塚古墳に
行きつくよう街路を選ぶ。

幸い古墳に近づいたようで、
林が見つかった。
ぐるりと左に回り込むと
古墳に入口に着いた。

公園になっていて墳丘の一部が
保存されている。
40m×37mの方墳、棺桶は粘土槨で、
玉類や銅鏃、筒形銅器などが出土した。
4世紀後半の築造。

西側は道路で削られている。
保存の難しさを感じる。

車道を渡ると
正道官衙遺跡の公園に着いた。


正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき)
官衙遺構は、奈良時代(7世紀以降)の
郡衙(役所)の中心部分と推定される
掘立柱建物群跡が見つかったので、
山城国久世郡の郡衙中心部であると推定される。
またこの遺跡は、5世紀の小規模な古墳と、
6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構などが
重なりあう複合遺跡となっている。



史跡公園として庁舎、副舎、南門など
遺構の一部が復元され、芝生や万葉植物
配した広場として整備されている。
久世郡衙を収めた郡司のアニメがある。

陽東苑のトイレを借りる。
日曜日なのにトイレは開けてくれてたすかる。

久世小学校入口
久世小学校古墳がるそうだがスルーする。


久世神社
創祀された年代は明らかではないが、
日本武尊を祭神としている。
重要文化財指定の本殿は
室町時代中期に建築されたと
推定され、朱塗りの一間社流造、
檜皮葺、柱上部や租物などを
極彩色仕上げした華やかな外観をもつ。

伝承 創建伝承として、
祭神の日本武尊(やまとたけるのみこと)は、
その死後、一羽の白鳥として飛翔した。
この地、鷺坂(さぎざか)に飛来してとどまった。
以来、この地に祀られたのが当社の始まりという。

境内東に面した坂は「久世の鷺坂」と呼ばれている。
この坂に、「山城の久世の鷺坂 神代より 
春ははりつつ 秋は散りけり」
(「柿本朝臣人麻呂之歌集」)の万葉句碑が
立てられている

裏山
柴ヶ原古墳群があるはずと裏山に
登ったが分からなかった。


久世廃寺跡
久世神社の境内に戻ると
広大な雑木林がある。
法起寺式伽藍配置の塔跡・金堂跡・講堂跡が
土檀として良好に残る古代寺院跡である。
奈良時代前期に創建され、
11世紀前半に廃絶している。
伊勢灯籠が両側にずらりと並ぶ
なかを通ってJR城陽駅についた。


ここで解散。
早く帰れると思ったが、JRは
事故で動かない。
長らく待って城陽発の電車が来て、
やっと家路についた。




















戻る