上醍醐・観察会
                             2024年11月24日(日)

9:00醍醐寺総門9:23−9:25唐門−西大門(仁王門)−9:33五重塔裏
9:38−9:47女人堂受付66m 9:54−10:14槍山150m太閤花見−
10:35不動の滝225m−10:58 320m 11:10−11:07音羽魔王大権現社−
11:27トイレ−11:28摂受庵(上醍醐寺社務所)−11:31清龍拝殿−
醍醐水霊場−横尾大明神−清龍宮−11:39准胝堂跡−薬師堂390m−
五大堂−仁王社参籠所−11:54如意輪堂−白山大権現−
12:04開山堂440m(昼食)12:41−13:41女人堂13:50−4:07総門14:10(解散)

京都府山岳連盟自然保護委員会主催の自然観察会である。
69名の参加があった。


委員長挨拶・講師紹介のあと、
醍醐寺の説明があった。

醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山。
聖宝理源大師によって貞観16年(874)に創建。
聖宝理源大師は空海の孫弟子。
修験霊場として発展した。

そののち醍醐・朱雀・村上三帝の
ご信仰がよせられ、延喜7年(907)に
は醍醐天皇の御願による薬師堂が
建立された。


圧倒的な財力により発展したが、
応仁の乱で五重塔だけ残し
全て消失した。
秀吉によって復興され、慶長3年(1598年)には
「醍醐の花見」が盛大に行われた。





唐門
三宝院唐門は慶長4(1599)年に造られた
門全体が黒漆塗りで、「菊」と「五七の桐」の4
つの大きな紋には金箔が施されている。
約1年半がかりの解体修理を終えて、
当時の姿になっている。


西大門(仁王門)
仁王像(重文)は、もとは南大門に
祀られていた尊像で、平安後期の
長承3年(1134)に仏師勢増・仁増によって
造立された尊像。
門の中は紅葉が美しいが、
右へ迂回する。

五重塔
金網越しに五重塔が見える。
醍醐天皇のご冥福を祈るために、
第一皇子・朱雀天皇が承平6年(936)に
着工し、第二皇子・村上天皇の
天暦5年(951)に完成した。


逓減率は、各層の高さが上に
行くほど徐々に低くなる割合。
醍醐寺の五重塔の逓減率は0.61で
どっしりとした安定感がある。(法隆寺は0.5)

京都には東寺、仁和寺、醍醐寺、八阪の塔の
4つの五重塔がある。
醍醐寺は高さ38m。東寺は高さ55mで
国内最高。


女人堂
発心門の扁額のある鳥居を
くぐると女人堂。
かつて女人結界があった。
これより19丁(約2.1km)。

上醍醐への入山料の支払所があるが
醍醐寺開創1150年を記念して、
醍醐寺開創の地である上醍醐へ
より多くの方に登って欲しい
という願いから、11月14日より
上醍醐の入山料を廃止いたします
とのこと。

山道
京都市市街地東南の伏見区にあって、
滋賀県境に広がる400mから600mの
山群の西麓にあたり、一般的には
暖温帯のシイカシ帯(照葉樹林帯)と
いわれている。
年間降水量約1500o、年平均気温16度。
社寺林として昔より保護されてきた場所。

スギなどの高木も交じり、
林床にはシダ類が目立つ。
ツブラジイ・スダジイ・マテバシイ
(ブナ科)など見分け方を習う。

イズセンリョウ(サクラソウ科)が
白い実を付けている。
和名の由来は伊豆半島の伊豆神社に多く、
赤い実のセンリョウに似ていることから。
学名 :Maesa japonica
嵐山〜松尾大社、大文字〜三井寺で
見つかる。

ぽつんと柿木の葉が日陰に浮かぶ。
ヤブムラサキはムラサキシキブに似るが、
上部に毛があるのが特徴。

タカノツメ・コシアブラ(ウコギ科)
タカノツメは3出複葉、
コシアブラは5出複葉。
シロダモはクスノキの匂いがする。
イヌガシはシロダモに似ているが
シロダモの方が裏の白さが
顕著である。
シロダモの方が葉の先端が
徐々に細くなる。
葉に三行脈がある。
冬に花が咲く。

カギカズラ(アカネ科)南方系、
蔓になる木本で、茎に鉤がある。
松尾大社のカギカズラは市の天然記念物
に指定されている。
しかし道の手入れでやっかいもの
扱いで切られている。



山道が谷川に近づくと長い
階段道になり上り詰めると
不動の滝である。

不動の滝
落差4mの人工瀑。
滝口に不動明王が祀られており、
樋が掛けられ、滝の前も
整備されて、休憩所がある。

赤い鳥居を頭上に見るころ
アサダの説明があった。


アサダ(カバノキ科)樹皮が
ミノムシのように剥がれるのが
特徴で別名をミノカブリという。
珍しい北方系の樹木。

ホウノキが大きな葉を
あたりに散乱している。

標高300mあたりまで来ると
モミの木が散見される。
16丁目から上醍醐寺の境内になり、
役行者の像がある。
ウラジロガシの前で休憩。


青瀧拝殿
室町時代の永享6年(1434年)に再建。
懸造りとなっている。

イロハモミジとヤマモミジがある。
ヤマモミジは赤く紅葉し、
イロハモミジはまだ緑。

醍醐水
聖宝が感得し、醍醐寺の名前の由来と
なったといわれる霊泉。

青瀧本殿
寛治2年(1088年)12月の創建。
空海が唐の都長安の青龍寺から
勧請した密教の守護神(清瀧権現)を
祀った醍醐寺の鎮守社。
昭和14年焼失、昭和32年再建。

長安の青龍寺はさんずい偏の無い龍。
醍醐寺は青瀧とさんずい偏があるのは
海を渡ったと言う意味。


准胝堂跡
貞観18年(876年)、聖宝によって
如意輪堂と共に創建された。
西国三十三所第11番札所。
1968年(昭和43年)に再建された堂は
落雷により2008年(平成20年)8月24日に
焼失した。
赤い幟に囲まれた准胝堂跡が残っている。
ここで雨が降り出した。


薬師堂
薬師堂は上醍醐伽藍の中央に位置し、
醍醐天皇の帰依を受けて
薬師三尊を祀ったことにはじまり、
保安2年(1121年)に再建された。
900年以上の風雪を耐え抜いてきた。

五大堂
五大堂は延喜13年(913)に醍醐天皇の
御願堂として創建された。
以後数度の災に遭い、現在の
五大堂は昭和15年に再建されたもの。

本尊は五大明王(不動明王、降三世明王、
軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)

「五大力さんの餅上げ」は紅白の
大鏡餅を持ち上げてその時間を競うもの。


堂前の像は、中央が醍醐寺を
開いた理源大師、左は第一世座主・
観賢僧正、右は理源大師が模範としていた
という修験道の祖・役小角。


カエデの木からコシアブラが生えている。
自生種か植栽したものかはわからないが、
アカガシ、ツクバネガシ、ウラジロガシ、
マテバシイ、アラカシとカシ類が
勢ぞろい。
クスノキ科のイヌガシまでも生えている。

開山堂
醍醐寺の開山、聖宝・理源大師を
奉安したお堂。
延喜11年(911)に理源大師の弟子、
醍醐寺第一世座主、観賢僧正によって
建立されたが、後に焼失。
鎌倉時代に再建されたものの
荒廃してしまった。

現在のお堂は、慶長11年(1606)に
豊臣秀頼によって再建されたもので、
雄大な桃山時代の特徴をよく表した
山上最大のお堂である。

この前で昼食、集合写真を撮って、
それぞれ一斉に下山した。

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