滝谷不動〜富田林寺内町
2024年07月07日(日)
2024年7月7日(日)滝谷不動〜富田林寺内町
大阪阿部野橋10:04=(近鉄)=古市10:25=10:37滝谷不動10:54−踏切―
170号線横断−10:59高橋−202号線−旅館街−11:18滝谷不動尊11:39−
滝谷公園 WC −11:52彼方(おちかた)春日神社(昼食)12:27―地車庫
彼方町会館−彼方小学校―石川 サイクリングロード−12:29 WC−
12:54川西大橋−12:57橋の下で休憩13:07−水道橋−13:32金剛大橋−
705号線−13:41じないまち展望広場14:01−14:06旧杉山家−
−興正寺別院−杉田家−城之門筋(日本の道100選)−14:25近鉄富田林駅
(解散)
良く晴れた暑い日、近鉄滝谷不動駅(たきだにふどうえき)
に6名集まる。
「歴史街道を育む東高野街道」の案内板がある。
京都から高野山まで歩いたことがあり、
なつかしい。
滝谷不動駅は明治35年3月25日。
河南鉄道が富田林から当駅まで延長された
時にできた駅と書かれている。
駅舎を出ると左手に、
大きなアーチがある。
「ようこそ滝谷へ」滝谷不動共栄会
と書かれている。
ここが滝谷不動への出入り口である。
石川に架かる高橋を渡る。
車の流れの絶えない狭い
国道202号線を歩く。
旅館街に差し掛かる。
人工温泉「トロン」の看板がある。
しばらく行くと「お車のご祈祷」の
看板」がありここから入ったが、
滝谷不動の正面から入るべきと
また車道に出て歩く。
「河内ふるさとのみち」の案内板
が目に付く。
「龍泉寺2.6km 嶽山 3.2km」
南北朝時代に南朝方の
武将だった楠木正成が、
嶽山(だけやま)に城を築き、
その中腹にある瀧谷不動尊の本尊を
守護仏としてまつった所。
滝谷不動の扁額が掲げられた
赤い門を入った。
そこに滝谷不動尊の縁起と
ご本尊についての長い
案内板がある。
瀧谷不動尊は、西暦821年に
弘法大師によって「国家の安全と
国民の幸せを祈る」目的で開かれました。
もともとは今の境内から南側1kmの
嶽山の中腹にあったが、
1360年北朝の二代将軍 足利義詮(よしあきら)
の嶽山・金胎寺城攻めの戦火により消失。
この時本尊と両童子はお滝の下に
移されて難を逃れた。
その後どこからともなく一人の
目の見えない老僧が現れて
ご本尊の霊験を説き人々にすすめて
小堂を建て日夜礼拝していましたが、
たちまち晴眼となって、
いづくともなく立ち去った
といいます。
これは弘法大師が御本尊の
霊験あらたかなことを
教えられたのであると、
にわかに眼病平癒の霊像として
信仰されることとなりました。
その後、1463年畠山政長・畠山義就
(よしなり、よしひろ)の嶽山の
合戦に再び兵火にかかり
ついに今の場所に移りしだいに
復興し今日に至ります。
本尊不動明王及び脇侍(わきじ)の
矜羯羅童子(こんがらどうじ)・
制多迦童子(せいたかどうじ)の
御三体は、大師一刀三礼(いっとうさんらい)
の霊像としてうやまわれ、
いずれも国の重要文化財に
指定されています。
月第四日曜日の月例祭には、
参拝の人々でにぎわう。
特に5月の第四日曜日の春季大祭には、
恒例の大峯修験による
柴灯大護摩供(さいとうおおごまく)
が厳修(ごんしゅう)される。
この時の山伏百数十名になる
大練供養(おねりくよう)は、
滝谷不動駅より延々と続き、
焚かれる添護摩木は
10数万本にのぼる。
その荘厳、壮大さは日本随一
といわれている。
また地元でも有名な「身代わりどじょう」
は、「滝谷の川に放ったどじょうが
身代わりになって、
自分の目を助けてもらう」というもので、
滝行場には何時も「小さなカップに
入ったどじょう」が用意されていて
これを買って川に放つ。
鐘楼に御祈祷受付の案内板があり、
「南無大聖不動明王」と書かれた
下をくぐり、ローソクや線香を供えて
本堂に参拝した。
本堂
本尊不動明王、弘法大師等をまつる。
明治30年中興慈恭僧正により建立さる。
昭和3年奥殿を増築、現在に至る。
平成11年、70年ぶりに改修。
本尊厨子を耐火構造とし、内陣の
荘厳を一新
法楽殿
柴灯大護摩供、交通安全祈願殿が行われる。
昭和39年建立。
観音堂
慶長年間の建立。
明治に現本堂が出来るまでは、
このお堂が本堂であった。
現在は、聖観音をまつる。
鎮守社への鳥居が続く長い石段を
上り詰めると多宝塔である。
近くからは塔全体が見渡せない。
向かい側の山に三宝荒神堂が見える。
ここからから見れば多宝塔の
全体像が見えるだろう。
多宝塔
昭和59年、弘法大師御遠忌記念
として建立されたもの。
内陣に金剛界大日如来と両界曼陀羅をまつる。
下りてくると納骨堂。
ここで休憩。
202号線を戻り、二つの池の
間の道に入るとトイレがあり、
公園になっている。
その奥の森の中に
彼方(おちかた)春日神社がある。
平安時代初期に弘法大師(空海)に
よって創建されたという
言い伝えもある由緒ある神社らしい。
石段を登ると祠の前に七夕の
ササが飾られている。
樹々の陰で涼しいところで昼食。
彼方にはいると「地車(ダンジリ)庫」
があった。
大正5年頃に嫁いできた石川型地車。
彫物ぎっしりの地車で重心が高い
独特の形態をしているそうだ。
ここから右折して石川に向かう。
石川の土手に上がると「南河内
サイクルライン」になる。
後ろからものすごいスピードで
自転車が走り抜けていく。
川向うにPL教団の白い塔が見える。
正式名称は「超宗派万国戦争犠牲者慰霊
大平和祈念塔」だそうだ。
この辺りの河川敷から
PL花火が見られそうだ。
河川敷で野球の練習をする光景が見られる。
舗装道路は直射日光と照り返しであまりにも暑い。
石川に架かる斜張橋の川西大橋を渡ると、
橋の下に入り休憩。
日陰に救われた。
金剛大橋を渡り富田林寺内町に入る。
1989年(平成元年)、金剛大橋流域で
約100万年前の地層から
アケボノゾウの足跡化石が
発見されたそうだ。
「アドプト・ロード・甲田桜井」の
標札は地元自治会や企業等の
団体が市と協力し合いながら
継続的に清掃等のボランティア活動
を実施している。
寺内町に入ると、明治32年築の
古民家カフェ「半田そうめん
カフェ あやなみ」がある。
何事もゆっくり。
心と時間にゆとりのある方のお越し
をお待ちしていますとのこと。
「じなじまち展望広場」から
二上山、葛城山、金剛山が見える。
旧杉山家へ向かう。
当て曲げの辻。
白壁、土蔵、屋根の煙だし、虫籠窓
の旧家が続く。
旧杉山家住宅は、江戸時代
初期17世紀中頃の建造。
富田林寺内町の中でも
もっとも古い建築物。
杉山家は代々「杉山長左衛門」と名乗り、
富田林八人衆として町を経営した旧家。
当初木綿問屋であったが貞享2年(1685年)
から明治時代にかけて、造り酒屋
を営んでいた。
石上露子
明治10年杉山家の長女とし
て生まれる。
本名 杉山孝。
与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、
玉野花子とともに「新詩社の五才媛」と
称されました。
旧家の家督を継ぐ運命のため、
思いこがれた初恋の人に対する
かなわぬ思いを詠んだ
“小板橋”は絶唱と評され、
石上露子の名を不朽のものにしました。
「小板橋」
小板橋 <ゆふちどり=石上露子>
ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら
いづこより流れか寄りし
君まつと踏みし夕に
いひしらず沁みて匂ひき
今はとて思い痛みて
君が名も夢も捨てむと
嘆きつつ夕渡れば
あゝうばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめく
なげきつつゆうべわたれば
ああうばらあともとどめず
こいたばしひとりゆらめく
「小板橋」は石川にかかる橋
「うばら」は野ばら
旧杉山家を過ぎると西方寺から
昔歩いた東高野街道にはいる。
興正寺別院の北東隅みに、
城の櫓のような鼓楼が現れた。
釣鐘の形をした花頭窓がある。
18世紀後期の建築で、
土蔵造り2階建ての建物。
興正寺別院は富田林・寺内町の
成立と発展の中心となった
浄土真宗の寺院。
本堂
は寛永15年(1638年)再建。
城之門筋
城之門筋は8月10日の「道の日」を
記念した「日本の道百選」に
選ばれました。
(昭和61年、1986年)
城之門筋の名前の由来は、
その通りに面する、寺内町の
中心にある興正寺別院の山門が、
豊臣秀吉が築城した京都・伏見城の
門が移築されたと伝えられている
ことよる。
奥谷家、杉田家の旧宅がある。
屋根に鐘馗さん(魔除けの瓦人形)、
袖うだつがある。
近鉄富田林駅で解散。
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