*205 
●干越生葛絺(淮南子、原道訓)…「干呉也。絺細葛也(後漢、高誘注)」
●夫有干越之剣者 柙而蔵之 不敢用也 宝之至也(荘子、刻意)
「呉越の剣を有する者は、木の箱に入れてこれをしまい込み、敢えて用いない。宝あつかいの至りである。」
★もともと邗という国があったが、呉が滅ぼして所領と為した。そこで、呉も干や邗と表されるようになったという。


*206 邗溝
春秋左氏伝、哀公九年
秋呉城邗溝通江淮(秋、呉は邗に城づき、溝して江淮を通ず。)
水経注巻三十
昔呉将伐斉北覇中国 自広陵城東南築邗城 城下掘深溝 謂之韓江亦曰邗冥渠
(昔、呉は将に斉を討ちて北し、中国に覇すさんとす。広陵城より東南に邗城を築き、城下に深溝を掘る。これを韓江といい、亦は邗冥渠という。)


*207 遼東、遼西の倭人
●魏志鮮卑伝、裴松之注
魏書曰…鮮卑衆日多田畜射猟不足給食後檀石槐乃按行烏侯秦水廣袤数百里渟不流中有魚而不能得聞汗人善捕魚於是檀石槐東撃汗国得千余家徙置烏侯秦水上使捕魚以助糧至于今烏侯秦水上有汗人数百戸
「魏書曰く…鮮卑の人員は日ごとに多くなり、農耕、牧畜、狩猟では食をまかなうに足りなかった。後、檀石槐は烏侯秦水を調べに行ったが、水は、東西南北、数百里にわたり止まって流れず、中に魚がいるのに得ることができなかった。汗人が魚を上手く捕らえると聞き、ここにおいて、檀石槐は東に汗国を撃ち、千余家を得て、移して、烏侯秦水上に置き、魚を捕らせて食料を補助した。今に至るまで、烏侯秦水上に汗人数百戸がある。」
●後漢書烏桓鮮卑列伝第八十
檀石槐乃自徇行見烏集秦水廣従数百里水停不流其中有魚不能得聞倭人善網捕於是東撃倭人国
「檀石槐は自ら巡り行き、烏侯秦水を見た。東西南北、数百里に水が止どまって流れず、その中に魚がいるのに得ることができない。倭人が網で捕るのが上手いと聞き、東へ行き倭人国を撃った。」
●水経注(北魏、酈道元著)… 遼西郡、白狼水の水経
高平川水注之水出西北平川東流逕倭城北盖倭地人徒之
「高平川水がこれに注ぐ。水は西北平川を出て、東に流れ、倭城北をめぐる。おそらく倭地で人がここに移動した。」
★おそらく遼東郡と遼西郡の境界付近に倭城があったと思われる。略取された倭人が城を築けるとは考えられないから、これは檀石槐に撃たれた倭人国の遺跡で、烏侯秦水はそれより西にあることになる。


*208 倭山
高句麗本紀第三(大祖大王)
 八十年秋七月遂成猟於倭山
 九十四年秋七月遂成猟於倭山之下…
★132年と146年のこととされている。八十とか九十四という大祖大王の在位年を考えると、どの程度信じていいのかという問題はある。倭国大乱が168年前後である。


*209 葢国
山海経海内北経
葢国在鉅燕南倭北倭属燕(懿行案魏志東夷伝云東沃沮在高句麗葢馬大山之東。後漢書東夷伝同李賢注云葢馬県名属玄菟郡今案葢馬疑本葢国地)
「葢国は巨焉の南、倭の北に在る。倭は燕に属す。(懿行案ずるに、魏志東夷伝は、東沃沮は高句麗の葢馬大山の東に在るという。後漢書東夷伝、同じく李賢注は葢馬県名は玄菟郡に属すという。今、案ずるに、葢馬は、元、葢国の地と疑う。)」
★懿行=郝懿行=山海経注者


*210 呉人の逃げ道
越王勾踐は山東半島南西部の琅邪に都を移し、史記は「越兵は江淮の東に横行し、諸侯は勾踐を賀して覇王と号した」と描写している。
西には楚があるし、北も同じく対立していた斉なので、不安や嫌悪を感じて、越に対する従属を嫌い逃れた呉人は、山東半島から海を渡るしかなかったであろう。かなり大規模な政治難民である。


*211 朝鮮王、箕氏の韓建国
●殷の王族、箕氏が周初期に朝鮮半島に移住して(箕氏)朝鮮を建国した。
●衛満は漢の高祖時代、燕王盧綰の下にいたようで、盧綰が謀反の嫌疑をかけられ匈奴に逃亡した際、衛満は南に逃れ朝鮮に亡命した。やがて、国を簒奪して衛氏朝鮮を建てたが、攻撃された朝鮮王順は宮人とともに南に逃れ韓を建国した。これが馬韓となる。
後、衛氏朝鮮は漢の武帝に滅ぼされ楽浪郡となった。楽浪から辰韓人が馬韓に逃れてきたところ、馬韓が西の土地を割いて居住させたという(魏志辰韓伝)。辰韓は弁辰と雑居しており、弁辰人も同じような境遇と考えられる。


*212 論衡
論衡、儒増篇 「周時天下太平 越裳献白雉 倭人貢鬯草」
論衡、恢国篇 「成王之時 越常献雉 倭人貢暢」


*213 鬯草
将祭灌暢降神(論衡、異虚篇) 「祭りに用い、におい酒を地に注いで神を降ろす」
★太伯、仲雍は薬草を採りに行くことを口実に荊蛮に逃れたとされているから、鬯草を献じるのはつじつまが合う。


*214 越裳国
尚書大伝曰交阯之南有越裳国周公居摂六年制礼作楽天下和平越裳以三象重訳而献白雉(太平御覧)
「尚書大伝曰く、交阯の南に越裳国有り。周公が摂政となって六年、礼を定め楽を作り天下和平。越裳が三象を以って訳を重ね白雉を献じた。」


*215 呉越春秋勾踐陰謀外伝第九
…越王曰善乃行第一術 立東郊以祭陽名曰東皇公立西郊以祭陰名曰西王母祭陵山於会稽祀水沢於江州 事鬼神一年国不被災越王曰善哉大夫之術願論其余
★呉越春秋は漢代の編纂である。呉越は文字を持たなかったから、口承による伝承を整理したと思われる。表現には漢代の言葉が使われ、陵山は越の始祖、会稽で崩じたという禹の陵墓だが、帝王墓に陵という言葉を使い出したのは漢代から。江州も呉と楚の境界付近で越が祀ることはできないという注がある。祖先と水神を祀ったと考えておけば十分であろう。


*216 公孫卿
公孫卿は斉人。
神人は東莱山で見られると言ったので、武帝は見たくて山に登り数日留まったが見られなかった。公孫卿は誅されるのを恐れて上記のように言い訳したとされている。(三輔黄図、漢武故事からの引用)


*217越方
越方=越の方術
方術=方士が行う。不老不死を中心に、占い、医術、呪術など、現世利益を追求する。


*218 飛廉舘(観)
*飛廉は風伯の名、風神を祭ったもの。
飛廉観在上林武帝元封二年作飛廉神禽能致風気者身似鹿頭如雀有角而蛇尾文如豹(三輔黄図)
「飛廉観は上林に在り。武帝元封二年に作る。飛廉は神禽で、能く風気を致す。身は鹿に似て、頭は雀の如し。角があり、蛇の尾、模様は豹の如し。」


*219 
●淮南子曰く、月中に桂樹有り(太平御覧)
●説文解字 桂=江南木、百薬之長
★桂=肉桂。不死の仙人に結びつけられることが多い。
★肉桂の根の皮=ニッキ


*220 鏡作神社
●鏡作坐天照御魂神社(田原本町八尾)延喜式内大社
 祭神は火明命=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=物部始祖(鏡作に関係しない)
   ★鏡作麻気神社(田原本町小坂)延喜式内社
    祭神=天糠戸命(鏡作氏の祖神、石凝姥命の父とされる)
●鏡作伊多神社(田原本町保津)延喜式内社
 祭神は石凝姥命、岩屋戸に籠った天照大神を引き出すための鏡を作ったとされる。
●石見の鏡作神社(三宅町石見)は黒田郷で、鏡作郷から外れるためか、古い記録がない。
 祭神は石凝姥命。
●孝霊神社(田原本町黒田)、祭神は孝霊天皇。別名は廬戸神社(元、鏡作神社の可能性あり。法楽寺内にあったものが現在地に移転した)


*221 法楽寺
都村大字黒田ニアリ、地蔵仏を本尊トナス。弘法大師ノ創立ト伝フ。和州寺社記ニ法楽寺人王七代孝霊天皇の庿所也。この所はいにしへ黒田の都とて天皇住給ひし所なり。御歳百廿七歳にして崩御し給ひ此陵に葬り奉るよし、弘法大師開基し、堂塔を造立し給ふ。本堂の本尊は勝軍地蔵秘仏なり、其側に聖武天皇みづから作り給ふ地蔵菩薩の像あり。弘法大師の御願其坊舎二十五軒有たるよし、いつ比よりか衰微して今は一宇一坊にて真言宗也傍に天皇の社あり。毎年九月祭礼有。ト見ユ。但シ寺地ヲ以テ山陵トスルハ非ナリ。其ノ地黒田宮址ニ因ミ中古祠ヲ建テ孝霊天皇ノ御魂ヲ祭レル事跡ヲ謬リ伝ヘタルモノナルベシ。天皇ノ山陵ハ葛下郡片岡ニアリ。(大和志料)


*222 黒田廬戸宮
孝霊天皇ノ皇居ナリ。都村ノ大字ニ黒田アリ、宮戸アリ、其ノ間ニ都杜・都前・内裏坪・大君等ノ字ヲ存ス。(大和志料)


*223 孝霊天皇時代とする伝承
●鳥取県日野郡の鬼退治=出雲から大和へ向かう途中
●皇子、吉備津彦の吉備攻略(桃太郎の起源、岡山)
●皇子、稚武彦命が女木島の鬼を退治した。(香川)
●孝霊天皇時代に淺井姫命と気吹雄命が戦った。(竹生嶋縁起、近江)
●孝霊天皇時代、御上山に天御影神が降臨(神社伝承、近江)、出雲の御蔭大神(播磨国風土記)
 ★出雲の神が播磨、近江に進出している。
●阿蘇神社、孝霊天皇時代の創建
孝霊天皇の伝承は山陰、瀬戸内、滋賀、阿蘇に濃厚ということになる。


*224 崇神天皇(イリヒコ王朝)
崇神天皇が正統後継者で豪族、領民の支持があるなら、四道将軍を派遣したり、大坂、山背から反乱が起こったりという混乱はないはず。南の紀伊以外、全国が従っていない。紀の国造、荒河刀辨の娘が崇神天皇の妃となるなど、大和入りした通り道の紀伊は友好的なのである。


*225 木拊(弣)短弓
和名抄では、拊とは弓の中央のことで、和名、由美都加(ゆみつか)となっている。倭人伝原文の拊はぎょうにんべんの様に見えるが、このような文字は存在しないため、拊の転写間違いと思われる。三国志集解では弣となっている。


*226 姫姓と呉
呉の紀元、赤烏を記した鏡が出土している。
【山梨県三珠町狐塚古墳、赤烏元年(238)鏡】
赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅服者君候宣子孫寿万年
【兵庫県宝塚市安倉古墳、赤烏七年(244)鏡】
赤烏七年五月廿五日丙午時加日中造作明竟百錬幽■服者富貴長楽未央子孫富昌■■■■陽■■
★卑弥呼と同時期、狗奴国の一族が呉と連絡を取っていた可能性を感じさせる。これもコピーされ同盟国に配布されていたのかもしれない。呉王の孫権は、春秋時代の呉王闔廬(姫姓)の軍師だった孫武の後裔とされている。頼りたくなる縁というものがある。
●百済の姫姓
欽明12年(551)、百済の聖明王が日本に派遣した使者に西部姫氏達率怒唎斯致契の名がみえる。


*227 「つ」
「つ」は「の」と同義。「末っ子」は「末つ子」の転訛=「末の子」。「秀つ枝」は上の枝の意味。


*228 神賀詞(代替わりの時)
続日本紀
霊亀二年(716)二月丁巳、出雲国々造外正七位上出雲臣果安斎竟奏神賀事
神亀元年(724)、正月戊子、出雲国造外従七位下出雲臣廣嶋奏神賀辞
天平勝宝三年(751)二月乙亥、出雲国造出雲臣弟山奏神賀事
ほか


*229 祭祀氏族
神は他氏族の祭りを受けないとされるが、母系でつながっていればそれが可能になる。