*184 浮由天下 ■四海
【荘子逍遥遊篇】
藐姑射之山有神人居焉肌膚若冰雪淖約如處子不食五穀吸風飲露乗雲気御飛竜而遊乎四海之外
「藐姑射之山に神人が住んでいる。肌は氷や雪のように白く、しなやかさは乙女のようである。五穀を食べず、風を吸い、露を飲む。雲気に乗り、飛竜を御して四海の外にあそぶ
【荘子斉物論篇】
王倪曰至人神矣大沢焚而不能熱河漢沍而不能寒疾雷破山風振海而不能驚若然者乗雲気騎日月而遊乎四海之外死生無変於己而況利害之端乎
「王倪曰く。至人は神である。大沢が焼けても熱がらせることはできないし、黄河や漢水が凍っても寒がらせることはできない。激しい雷が山を破り、風が海を振るわせても驚かせることはできない。こういう者は雲気に乗り、日月に騎って四海の外に遊ぶ。死生も己を変えることない、況や利害の端くれなどは。」


*185 朝鮮半島の銅鏡
「朝鮮半島の銅鏡文化は、中・日両国とくらべると、あまり盛んとはいえない。…北部では大同江流域、すなわち楽浪郡の境域に集中している。銅鏡の使用者は、楽浪郡にいた漢人だけかもしれない。南部では主に東半分の慶尚南道と慶尚北道に集中している。西半分の忠清道、全羅南道ではまだ出土していない。…朝鮮半島北部から出土した漢式鏡は、漢人によって直接伝来されたようであり、朝鮮半島南部の漢鏡は、すなわち日本を通じて逆に伝来したのではないかと思っている。(「弥生文化と古代中国」王金林著、学生社)」
★日本の銅鏡文化は新羅(慶尚南道、慶尚北道)と結びついている。


*186 彫啄
文字がはっきりしない。写真の目視では口偏のように見えるので、琢の借字で啄と書いたのではないかと考えた。「彫琢刻鏤」という言葉が淮南子や荀子などに見られる。


*187 尚方
魏では、洛陽に左、中、右の三つの尚方があり、宮廷調度品などの生産にたずさわっていた。鏡はもちろん、親魏倭王の金印や織物なども尚方で作られたと思われる。


*188 青盖鏡
中国でも青盖鏡が出土していて「青盖作鏡四夷服、多賀中国人民富、雲雨時節五穀熟」の銘文が見られる。後漢鏡に分類されている。青盖(蓋)は、紀元前後、前漢末から新、後漢初期にかけての、中国動乱期に活動していた鏡師のようである。新の王莽時代、周辺諸民族(四夷)がすべて反乱して中国は苦しんでいた。国分茶臼山古墳出土の青盖鏡銘文にある「胡虜」と「殄滅」は、漢書王莽伝にも見られる文字で、当時の常用句だったと思われる。


*189 文章
文章は模様を意味する場合もあるが、ここでいう文章は言葉を連ねたものであろう。彫文、刻鏤とは別に作られており、銘文を意味すると思われる。「みな文章を作る」だから、すべての鏡に銘文が入れられていたことになり、銘文が入っていない三角縁神獣鏡は倭鏡と簡単に区別がつけられる。


*190 洛陽
火徳の漢は、火を消すサンズイ偏の「洛」の字を嫌い雒陽と書いた。したがって洛陽と書いてある三角縁神獣鏡はその時代(=漢)の鏡ではありえない。(富岡謙蔵説)


*191 越守、巨
●越は小篆の越に近い文字のように見える。越の守り神という意味になり、倭人と越の関係をうかがわせる。
●神獣はL字型の差し金(巨)を銜えている。差し金は曲直を明らかにするもの。つまり、神獣の正邪を判定する能力をを表す。中国出土の神獣鏡にも巨を銜えたものがあり、形式として確立している。


*192 中国、尚方鏡の銘文
【王金林著「弥生文化と古代中国」(学生社)】
中国出土の尚方鏡銘文に見られる常用句。
「尚方作鏡真大好・上有仙人不知老・渇飲玉泉饑食棗・徘徊神山採其艸・寿敞金石西王母」
「浮遊天下敖四海」
「寿如金石」、「位至三公」、「君宜高官」
★三角縁神獣鏡銘文は明らかに尚方鏡の影響下にある。


*193 呉鏡の銘文
「黄武七年七月丙午朔七日甲子・紀主治時・大鏡陳世厳作明鏡・服者立至公」
「黄竜元年太歳在己酉七月壬子■十■甲子・師陳世造作百湅明鏡・其有服者命久富貴・宜■■」
★型を作ってから青銅を流し込むわけで、そこには時間差がある。製造年月日を書いてあるが、年はともかく、月日に関しては形式的なもとのしか思えないのだが、何か強いこだわりがあって、呉鏡には必ず入れてある。この記述が真実なら、青銅を流し込む日が決定されてから、銘文を彫ったことになる。生産スケジュールがきちんと定められていたと解すしかない。毎日、湯水の如く青銅を生産していたわけではなく、同じ日に様々なものをまとめて作ったとは思えるけれど、そんなに都合よく進むのかという疑問は消せない。
★呉鏡の作者は陳世であるが、銘文のあり方を見ると、漢の尚方鏡の伝統を受け継いでいる三角縁神獣鏡の陳氏とは明らかに別人である。陳氏は南方系の図形を描きながら、北方系の銘文を作っているわけで、楊州の鏡師が洛陽へ強制移住させられ、尚方局で鏡作りをしていたという想定に一致するのである。この人選は卑弥呼に下賜する鏡のための配慮と思われる。


*194 崑崙
中国西方にある高山地帯、崑崙は天に最も近い理想郷で、聖人、西王母が住んでいるとされた。西王母の伝説の起源は古く、東王父は西王母と対になるものとして、後に加えられたと思われる。崑崙へ遊びに来る。
 仙人、赤松子は神農の頃の雨師であった。しばしば崑崙山に行き、いつも西王母の石室に宿ったとされている。
 崑崙には青龍、白虎、蜲蛇がおり、獅子、辟邪、天鹿、焦羊という神獣がいる(抱朴子、祛惑)。三角縁神獣鏡の銘文には青龍、白虎、獅子、辟邪が現れる。
 木には珠樹、玉樹、琁樹、不死樹、沙棠、絳樹、碧樹、瑤樹が挙げられている(淮南子、墜形訓)。


*195 三角縁画像鏡
三角縁画像鏡、浙江省紹興出土=古代の越の地


*196 逸書「後漢書」
隋書、志第二十八、経籍二には、范曄以前の後漢書として、以下の書が記載されている。
●東観漢記百四十三巻(長水校尉劉珍等撰)
●後漢書百三十巻(呉武陵太守謝承撰)      ↑ 陳寿、閲覧可能
………………………………………………………………………………………………
●後漢記六十五巻(晋散騎常侍薛瑩撰)
●續漢書八十三巻(晋秘書監司馬彪撰)
●後漢書十七巻(晋少府卿華僑撰)
●後漢書八十五巻(晋祠部郎謝沈撰)
●後漢南記四十五巻(晋江州従事張瑩撰)
●後漢書九十五巻(晋秘書監袁山松撰)
 范曄の時代にはもっと多かったのではないか。范曄の後漢書が勝ち残ったのは、やはり、正確さという評価で上回ったのであろう。評価の低い書は大事にされず、戦乱などのたびに放棄され、年月の経過とともに姿を消してゆく。
 デジタル時代になった今後は事情が変わるだろう。すべての文献を残すことが可能になっているかもしれない。


*197 光和
桓帝、霊帝の交代は168年。光和年間(178~183)とするなら、桓霊の間(桓帝と霊帝にまたがる)という後漢書の記述から外れる。「霊帝の時」と書けばよいだけなのである。
光和と記す梁書は唐代の作。


*198 桓霊の末
桓霊の末とは、桓帝(147~167)の末と霊帝(168~188)の末をあわせた表現。霊帝中期は、ややましな状態だったわけである。
桓帝末から官僚と宦官が激しい抗争を続けた(党錮之禍、166、169)。霊帝、中平元年(184)には黄巾の乱が勃発。乱の平定後も各地で反乱が続いた。霊帝は中平六年に崩じ、少帝、献帝と続き、漢は滅亡に向かう。


*199 夏后少康の子
魏略逸文(翰苑所載)
 聞其旧語自謂太伯之後昔「夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害」
魏志倭人伝
 「夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害」
漢書地理志粤地
 其君禹後「帝少康之庶子云封於会稽文身断髪以避蛟龍之害」
史記越世家
 其先禹之苗裔而「夏后帝少康之庶子也」

少康の子に関し、魏志と魏略が同じ文になっているので、元資料の帯方郡使の報告書にこの文があったと思われる。漢書地理志粤地からの引用なので、帯方郡使も漢書をよく知っていた。


*200 景初四年銘鏡
景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人銘之位至三公母人銘之保子宣孫寿如金石兮
   (銘は言偏、フォントが無く代用)。言名
形式的な語句に過ぎないが、景初四年五月(実際は正始元年)なら、もう倭国に向けて船出している時期であり、鏡が中国で作られた可能性は排除されることになる。五月丙午之日を入れるのは呉鏡の銘文に見られる特徴である。
径17cmくらいの盤龍鏡で四匹の龍が描かれ、三角縁神獣鏡に描かれた神獣との類似点はなく、別の工人の作であることが明らかである。


*201 景初四年作
鏡が日本にもたらされたのは正始元年の夏頃、しかも九州である。それが大和に届くのは秋だから、豪族に下賜したとすれば、正始二年(景初5年)あたりから。実際に、景初四年五月(正始元年)に鋳造されることはあり得ない。


*202 景初三年銘鏡
神原古墳出土景初三年鏡銘文、径は23cm
景初三年陳是作鏡自有経述本是京師社地■出吏人■■位至三公母人 ■之保子宜孫壽如金石兮


*203 規格化
魏鏡と考えられる三角縁神獣鏡は、21㎝から26㎝くらいまでの幅があり、中国では珍しい大型の鏡である。「抱朴子、登渉」に、径九寸以上の鏡には化け物の正体を写しだし、追い払う力があると記されている。魏の一寸が2.4cmくらいだから、九寸が21.6cm、一尺が24㎝ほど。経年劣化の伸縮を考えると、一尺(十寸)で作られ可能性はありはしないか。魔除けに適したサイズで、それが考慮されていることは間違いない。
邪を追い払うための鏡であれば、発掘された木棺の外側、周囲に三角縁神獣鏡が鏡面を表にして並べて立てかけられているのも理解できるのである。近寄って来た魔物は自分の姿が映し出されるのを見る形になる。


*204 王氏鏡、張氏鏡、倭人の姓
どちらも三角縁神獣という中国にあるかどうかという特殊な形状を採用。笠松型と呼ばれる中国鏡にはない独自のパターンの採用など、陳氏鏡の模倣品である。
王氏鏡
銘文が反時計回転で、尚方鏡の伝統から外れている。
続日本紀、称徳天皇の神護景雲元年(767)十一月に、「私鋳銭人、王清麻呂(おうのきよまろ)等四十人に姓を鋳銭部と賜い出羽国に流す。」という記述がある。
 偽金造りという製銅品に関係する王氏が存在した。
張氏鏡
陳氏鏡では、丸い土台の上に真っ直ぐ笠松型が伸びているが、張氏鏡ではそれがずれている。何か意図があって、そうなっているのに理解していない。作りが荒いということである。
熊本県菊水町、江田船山古墳出土太刀銘に、「書者張安」という記述があり、雄略天皇時代に張という姓が存在した。書者というのは太刀銘の金象嵌を作った人物と思われる。
「台天下獲■■■鹵大王世、奉事典曹人名无■弖、八月中、用大錡釜并四尺廷刀、八十練■十■三寸上好■、服此刀者長寿、子孫、注々得三恩也。不失其能統。作刀者名伊太■、書者張安也」