そばの歴史      <  サイトへ移動   .

そば切り 初期の歴史   「ソハキリ」 初見からの年表 そばのサイト「大阪・上方の蕎麦」
               
 年 代  地  域     項   目     関 連 事 項
康永 2年(1343)

素麺の
 初見


(京都)
八坂神社の「祇園執行日記」の記録 

元々は「祇園社」。明治の神仏分離令により「八坂神社」と改められた。
丹波素麺公事免除之間、一兩年不上、仍素麺儀沙汰之、坊人宮仕等少々來」とある
「丹波より素麺公事免除の間、一両年上さず。よって素麺の儀これを沙汰す。坊人・宮仕等少々来る。
京都や奈良には、古くから貴族・寺社の支配を背景に、供御人や座が多く作られ、独占販売権を持つに至っていた。
素麺供御人とか、中御門家や興福寺の素麺座など。
索麺・素麺(サウメン・ソウメン)
これより前、公卿の日記「師守記」に、歴応3年(1340) 麦麺」があり、これらを「そうめん」と解する説もある。

正平 7年(1352)

うどん
 の初見

(奈良)
法隆寺の史料「嘉元記」



「うどん」と「麩」の初出
「三肴毛立、タカンナ、ウトム、フ、サウメマ(ン)、・・・」という記録。
円識房快實去年合戦に従う。恩賞中臈の三経院においてこれあり。・・・以下 一折敷 数六、粽(ちまき)・ムキ粽一杯・アメ一杯・ワリコ・ヒワ一フサ・白瓜切少々・ハイ少々。
*三肴・毛立(酒の肴)タカンナ(竹の子)

 素麺もうどんも室町時代に入って頻繁に現れる。特にうどんは表記と訓みが多く、室町時代の古辞書である節用集や庭訓徃来などの表記は饂飩・温飩・武飩・烏飩など、訓みもウトム・ウトン・ウドン・ウントン・ウンドンなど。

以下から そば切りの年表  素麺やうどんの初見から、222年を経てやっと登場する。
  
天正 2年(1574) そば切りの初見


(信濃・
木曽)

木曽・大桑村須原
定勝寺・古文書 

古い史料を収録した信濃史料」の中から平成5年、郷土史家・関保男氏が見いだした
合わせて百六十人者もの番匠(大工)などが働く仏殿修理の工事で書き留められた記録の中に「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」と「振舞ソハキリ 金永」があった

千新」は千村新十郎政直の略、「千八左」は千村八左衛門、「千淡内」は千村淡路守夫人、それでは「金永」とは・・・

天正12年(1584)  大坂 二千年袖鑒」 嘉永2年(1849)刊行

そば屋・津の国屋開店

(実録でなく、後世の書物である点に異論も)
「すなば」の暖簾が見える津の国屋の店先

 「天正十二 根元そば名物 砂場 二百六十五年 吉田氏 出所 泉州 東畑村」と読みとれる 
*明治「日根郡多奈川村(現:泉南郡岬町)」

時代は、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年である。
いまの西区新町にあって「大坂城築城の砂や砂利置き場」で通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も「すなば」と呼ばれた。

慶長13年(1608) 史料未公開

尾張・
 一宮
妙興報恩禅寺

寺方蕎麦覚書
室町時代の開山で、ここには慶長13年(1608)6月21日と記された「妙興禅林沙門恵順 寺方蕎麦覚書」があって蕎麦の調理法が書かれているという。ただ、この史料は公開されていないために評価は得られていない。
慶長19年(1614) そば切り
江戸の初見
慈性日記

慶長19年2月3日の条

著者は貴族の次男出身。尊勝院住持と多賀大社不動院を兼務する身分の僧。(社僧などではない)

当代超一級の人脈との交流や天台僧達の記録。
そういう背景での
一種のそばパーティー
常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多ク候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也』・・
そば関係の多くの書物は多賀大社の社僧が書いた日記で『常明寺へ行き、町の風呂(銭湯)に行ったが混んでいたので戻って、ソバキリを振る舞われた。』すなわち「・・常明寺でそば切りの馳走になった」としている。

正しくは、『・・常明寺へ(参候)、(・・・)行候へ共人多ク候て(東光院へ)もとり候、ソハキリ振舞被申候也』という主旨であった。
*東光院江戸・小伝馬町) 慈性達の江戸宿泊寺
*尊勝院は、京都・洛東。門跡寺院・青蓮院の院家

元和 8年(1622) そば切り
奈良の初見

松屋会記(茶会の記録)

武将の茶会に「ソハキリ」

奥平氏は三河の豪族から→
大坂城代・郡山藩主など
奥平金弥は家老の一人



京都・油小路の
  日野屋のうどん
「茶会記」で、もっとも古いのが「松屋会記」。奈良転害郷に住む塗師松屋家三代120年の記録。

二代目・久好(達五人)が大和郡山の藩主・松平(奥平)忠明の朝の茶会に招かれた後、さらに昼になって予定外であった奥平金弥殿へもまねかれ、「ヒノウトン 又ソハキリ 肴色々 菓子モチ・クリ・コハウ」などを振る舞われた。
家老4人の中に山田半右衛門と奥平金弥がいた。家老屋敷(五軒屋敷)でか?。
特筆すべきは、武将・奥平金弥がにわかに(本文は「不時ニ」)主催した席の後段として日野うどんや肴類、菓子モチなどとともにそば切りが出されている。

元和10年(1624) そば切り
京都の初見
資勝卿記

慈性の父・権大納言
 日野資勝の日記
 
京都極楽寺真如堂のご開帳に出かけた後、「・・・大福庵へ参候て、弥陀ヲヲガミ申候也、其後ソハキリヲ振舞被申て、又晩ニ夕飯ヲ振舞被申候也」とある。

大福庵」は、慈性日記にたびたび登場する京の天台宗寺院。出す精進料理が良かったのか振舞の席に利用された記述が登場している。
慈性日記→元和3年10月26日 大様・宰相様へ参候、大福庵ニテ御両人ヲ振舞候間参候也、夜更候付而、大様ニとまり候也
 
寛永元年(1624) 信濃
  木曽
越前屋開業とある

木曽郡上松町
中山道の上松宿・寝覚め(寿命)そばは寛永元年創業という。 *一説に、元禄の頃とも・・
 
須原宿の北隣の宿場・木曽八景の寝覚の床。
江戸時代からの木曽路名物で、当時の賑わいを浮世絵師・歌麿は寝覚蕎麦越前屋の図」で店の賑わう様子を描き、十辺舎一九は「木曾街道続膝栗毛」で白い蕎麦であったと書き記している。
  
寛永3年(1627) 京都
 粟田口
慈性日記

慈性自らが尊勝院で後段そば切りを振る舞う

後段うどんの記録も
慈性が自分の尊勝院を訪れた三人の客に茶を振る舞った後、そば切りを振舞った。客は、夜も8時頃になって帰られた。と書いている。

寛永3年8月18日 「東猪兵へ殿・花右馬介殿・内藤釆女、自作數寄ニて茶申入候、後段ソハキリ、夜入五つ時分御かへり候也
同 3年9月 3日 ・・・數寄ニテ後段ウトン・・・

寛永13年(1636) 信濃
木曽 
そばの食べ方の初見。

大根の絞り汁・たれ味噌・薬味で食べた

「中山日録
(チュウザンニチロク)
中山道の贄川宿で「蕎麦切賜、・・・蘿蔔(らふく:すずしろ)汁醤(たれみそ)、鰹粉(かつお粉)・葱・蒜(のびる)・・」

堀杏庵の日光例幣使下向際の記録 尾張家に仕えた儒学者・藩主に随行して日光東照宮の遷宮の式へ

寛永20年(1643)  
そば切りが書物に登場


「料理物語


寛永20年跋刊
 (*)跋刊:奥書のあとがき



江戸時代初期の代表的な料理書。蕎麦きりの製法を初めて記述した書。著者はわかっていない。

「蕎麦切り」の項・・・・「そばの本」でおなじみの文章
「めしのとりゆにてこね候て吉 又はぬる湯にても 又とうふをすり水にてこね申事もあり 玉をちいさうしてよし ゆでて湯すくなきはあしく候 にへ候てからいかきにてすくひ ぬるゆの中へいれ さらりとあらひ さていかきに入 にへゆをかけふたをしてさめぬやうに・・ ・・汁はうどん同前 其上大こんの汁くはへ吉 花がつほ おろし あさつきの類 又からしわさびもくはへよし」

寛文6年(1666) 島根
  出雲

江戸参府之節日記
島根県立古代出雲歴史博物館が2015年10月に「出雲そば」最古の記事発見と発表した。引用すると、「佐草自清の日記で、寛文6年(1666)3月27日、出雲大社の造営工事が進むなか、佐草は、松江において、松江藩寺社奉行・岡田半右衛門の役宅で、本殿の柱立の儀式の費用ほかについて協議。日が暮れたところで蕎麦切の振る舞いがあった。」と記している。

佐草自清は出雲有数の出自と名家である。寺社奉行が大社一行との協議に丁寧にのぞみ「蕎麦切」までも振舞ったという記録であろう。
古文書の部分「今日ハ、御柱立談合ニて日暮、蕎麦切振舞、五郎佐殿佐左居られ申し候」
寛永年間(1624〜44)

〜寛文8年(1668)
割り粉
の初見

割り粉つなぎ)について

飲食事典」
〜出典がわからない
   という難点あり


「料理塩梅集」
「うどんの粉」をまぜるとある
本山萩舟著「飲食辞典」(昭和33年平凡社)に、「一説には江戸の初期に朝鮮の僧元珍が南都東大寺に来て、ツナギに小麦粉を入れることを教えた・・・」とあるが、出典については記していない。

そして、「蕎麦の事典(新島繁著)」「蕎麦辞典(植原路郎著)」ともに、この僧元珍説を「寛永年間(1624〜44)の頃に・・ という説もある」としていて、新島氏は出典がわからない難点を記している。

「料理塩梅集」は、寛文8年(1668)に書かれた料理書で、蕎麦切方の中に、「そば粉のひねる夏には、うどん粉をつなぎに使うと良い」と書いている。
「夏はそば ひね申候故 少うどんの粉 そば一升に三分まぜ こねるが能候」とあり、初見であろう。

寛文 4年(1664) この頃の
値段

6〜7
〜8文
江戸も「うどんそば切り」でうどんが主流


江戸初期の風俗見聞を記した随筆
むかしむかし物語」など


「うどん」と「そば」の逆転はもうすこし後
麺類を扱う店の看板が「うどん・蕎麦切り」
 江戸も上方もうどんが主の時代

江戸の後期になると
 天保8年(1837)起稿の守貞謾稿」に、上方ではうどん屋が主になってうどん屋で蕎麦も扱われ、江戸は蕎麦屋でうどんが売られるようになった。

天保十四年(1844)の 随筆「用捨箱」の「温飩の看板」に「昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに蕎麦きりを売る。今は蕎麦きり盛んになりて、其傍に温飩を売る。」

*守貞漫稿は、京坂・江戸の風俗や生活を記録した近世風俗史の基本文献。

   江戸
 上方
夜そば売り盛ん

特に江戸では
明暦の大火後 労働者が流入。
市中に煮売り(振売り)が急増して
   天秤を担いだ夜売りが盛んに出現

この荷売りが、もっと後の元文(1736〜41)頃から、江戸では夜鷹そば上方では夜鳴うどんに 

貞享 3年(1686) この頃の
 値段

6〜7
 〜8文
江戸では
 貞享3年の町触
夜売り禁止の御触書
町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。
(まだ、うどんが主であることがわかる)


新興都市・江戸の火災対策に苦慮  再三の御触書
 
元禄10年(1697) そば湯
 の初見

江戸時代前半の
本格的な食物学事典

「本朝食鑑」
 元禄10年(1697)刊


そば湯の初見

漢文体で、「蕎麦切」を詳しく記述 、製粉・打ち方・煮る方法・つけ汁、薬味など

蕎麦全書をはじめ多くのそば関係書に影響を与えた。


「呼蕎麦切之煮湯稱蕎麦湯」とあって「そば切りを煮た湯をそば湯という」とあり、そばを食べ過ぎてもそば湯を飲むと食あたりしないと書いている。

享保半ば  (1728頃)  二八そば
 出現

江戸・
神田辺り

「二八そば」という言葉は不思議な言葉である。

江戸時代の比較的早い時期に出現し、その江戸時代すでに言葉の語源が分からなくなってしまって、いまだに結論が出ていない。

享保時代の享保世説」に「仕出したは即座麦めし二八そば みその賃づき茶のほうじ売」という落首。
文政13年(1830)刊嬉遊笑覧」に、「享保半頃、神田辺にて、二八即座けんどんといふ小看板を出す。二八そばといふこと、此時始なるべし」とあって「二八」という言葉の初見は享保13年頃だとされている。

「掛け算の価格説と「粉の配合割合説」、それと逆二八説」、どれも単純で分かりやすいのだが、それぞれの矛盾点や問題点も分かりやすいのが難点。

寛延の頃
(1736〜)
寺が蕎麦で繁盛する


後に
そば屋の「庵号」に
浅草・称往院の院内で
道光庵がそばで大繁盛

後に、この繁昌振りにあやかりたくて、そば屋庵号」の始まり。

道光庵は「蕎麦全書」にも登場するが、他に「庵」の付くそば屋はない。
いつの頃からか道光庵の庵主はそば打ちの名手で、寺でありながら振る舞うそばが評判になり、まるでそば屋の如く大繁盛したという事例がある。

やがて、天明6年(1786)三代で蕎麦禁断に、「蕎麦禁断の碑(不許蕎麦入境内)」が建つ。

称往院は昭和2年に現・世田谷区烏山寺町に移転、碑もある。
落語の「道光庵 草をなめたい顔ばかり(明和2年(1765)」は上方落語で「蛇含草」、東京に移植されて「そば清」(そばの羽織)から
   
寛延 4年(1751) 「蕎麦全書」 江戸時代唯一といえる
そばの専門書

「蕎麦全書」脱稿

著者:日新舎友蕎子 

*脱稿は
 草稿・原稿を書き終える
「本朝食鑑」を引用しながら私見を述べ、
諸国のソバの産地、ソバやそば粉のこと、そばの作り方や茹で上げたそばの扱い、そばつゆの作り方や薬味について、さらには江戸市中のそば屋の屋号や有名店の消息、粉屋など、多くの貴重な解説と史料を残している。

著者は日新舎友蕎子と名乗り、自らもそばを打ち、そばに精通していた江戸の住人としかわっていない
    
宝暦の頃(1751〜64) 12〜14
〜16文
 
屋台
 風鈴そば売りが登場
夜鷹そばは、「かけそば」専門で、その扱いも不衛生であったといわれるが、宝暦の頃になると、屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら担ぐ風鈴蕎麦売が登場している。 器なども清潔な物を使って「しっぽく」(かやくの一種)などの種ものも扱うようになっていった。 

その後、夜鷹そばも風鈴を付けるようになって、区別がつかなくなった。

寛政10年(1798) 大坂では

砂場が繁盛 
当時の名所や寺社・旧跡などを紹介した

「摂津名所図会」に

砂場・いづみやの繁盛ぶりが描かれている。
「摂津名所図会」の大坂部四下の巻に「砂場いづみや」の図がある。

暖簾には「す奈場」と染め抜かれ、たいそう繁盛している往来の様子と立派な店構えが描かれている。
二枚目は店内の様子で、蕎麦を食べる客をはじめ蕎麦を打ち・茹で・盛り・運ぶなどの百名をはるかに超える人々と、店の切り盛りの様子が克明に描かれ、臼部屋の石臼の数などからとてつもない規模であったことが窺える。

*残念ながら明治に入って十年ほど後に姿を消した。 


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